帝国の至宝、王国の瓦解
漆黒の魔導馬車は夜を徹して走り続けた。
エルミナージュ王国とグランツ帝国の国境を越えた瞬間、車窓から見える景色は一変した。王国のどこか古めかしく、装飾過多な街並みとは対照的に、帝国の建築物は重厚な石造りで、随所に高度な魔導技術が組み込まれた機能美に溢れている。
何より空気が違った。
澱んだ陰謀や嫉妬が渦巻く王宮の空気ではなく、清冽で、力強い活気に満ちた風が吹き抜けている。
「……着いたよ、セレナ。ここが私たちの帝都、ツヴァイベルクだ」
ユリウス様の優しい声に導かれ、私はゆっくりと目を開けた。
馬車が止まったのは、帝都を見下ろす丘の上に建つ、黒真珠のような輝きを放つ公爵邸だった。
馬車の扉が開くと、そこには整然と列をなした使用人たちが控えていた。皆、背筋を正し、その眼差しには畏怖ではなく、心からの敬意が宿っている。
「「お帰りなさいませ、大公閣下! そして、ようこそお越しくださいました、セレナ様!」」
地を震わせるような合唱。私は思わず気圧されてユリウス様の腕をギュッと掴んでしまったが、彼は愛おしそうに私の手の上に己の手を重ねた。
「皆、待ちわびていたんだ。私の……そして帝国の恩人である君の来訪をね」
「恩人ですか……?」
「忘れたのかい? 君が匿名で発表した『魔導農具の効率化に関する論文』や、三年前の飢饉の際に裏で提示してくれた『食糧支援の最適ルート案』。あれがなければ、我が国の民の多くが飢えていた。帝国の影の功労者は、他ならぬ君なんだよ」
驚きで声が出なかった。
私はただ、隣国が苦しんでいるのを見かねて、王太子の執務の合間に趣味程度に書いた策を、信頼できる商人を通じて帝国に流しただけだった。それを、この国の最高権力者は把握し、ずっと感謝していたというのか。
「……私は、ただの捨てられ令嬢ですのに」
「いいや。君は、自分の価値に無自覚すぎる。さあ、中へ行こう。君のための部屋は、最高のものを用意させてある」
ユリウス様は私の腰を抱き、エスコートしながら邸内へと進む。
そこは、王宮よりも遥かに洗練された、夢のような空間だった。私の好みを熟知しているかのように、部屋には真紅の薔薇が飾られ、寝室には最高の絹を使ったドレスが用意されている。
ここでは私は「小言ばかりの婚約者」でも、「便利な事務処理係」でもない。
一人の大切な女性として、そして一人の尊敬される知性として扱われている。その幸福感に、私の心はこれまでにない安らぎで満たされていった。
一方その頃、エルミナージュ王国は、まさに「阿鼻叫喚」の地獄絵図と化していた。
王宮の執務室。かつてセレナが座り、完璧に仕事をこなしていたその机には、今や天井に届かんばかりの書類の山が築かれていた。
「おい! 帝国との条約案はどうなった! 提出期限は一時間前だぞ!」
国王の怒声が響く。しかし、机を挟んで立っているレオンハルト王太子と、その隣で涙目になっているリリアは、呆然と書類を見つめるばかりだ。
「父上……それが、その……セレナの書き残したメモが難解すぎて、誰も解読できないのです。あいつ、わざと複雑に書いて嫌がらせを……!」
「馬鹿者! 嫌がらせなものか! それは高度な経済学と魔導力学を組み合わせた、国家機密レベルの計算式だ! それをお前たちが『難解だ』と投げ出したせいで、帝国の特使が激怒して帰っていったのだぞ!」
国王は顔を真っ赤にして、レオンハルトの足元に書類を叩きつけた。
帝国との通商条約が白紙になった。それは、この冬の食糧輸入が止まることを意味し、国の経済が破綻することを意味する。
「リリア、君なら……君の『聖女』の力で何とかできないのか!? 魔法でこの数字を書き換えるとか、相手を説得するとか!」
レオンハルトが縋るようにリリアの肩を掴む。しかし、リリアは「ひっ……」と身をすくませた。
「で、殿下……わ、私は光の魔法で花を咲かせたり、傷を癒したりすることしか……。このような、文字がいっぱい並んだ紙を見ても、頭が痛くなるばかりで……」
「役立たずが!」
国王の罵声がリリアに突き刺さる。
昨夜の夜会では「真の聖女」「運命の伴侶」と持て囃されていた彼女も、実務の場ではただの無能な小娘に過ぎなかった。
さらに追い打ちをかけるように、ヴァレンタイン公爵が転がり込んできた。
「陛下! 陛下お助けください! セレナがいなくなった途端、我が公爵家の隠し口座が次々と凍結され、あまつさえ領地で暴動の兆しが……!」
「何だと!? なぜ口座が凍結される!」
「それが……セレナがあらゆる商会との契約を『自分個人の信用』で結んでいたようでして……。彼女が婚約破棄され、国外へ去ったという噂が広まった途端、商使たちが一斉に債権の回収に動いたのです! 私には、彼らと交渉するノウハウも、契約書の内容すら把握できておらず……!」
「……お前たち、全員正気か?」
国王の膝が、ガクガクと震え始めた。
セレナ・ヴァレンタインという一人の少女が、この国の外交、内政、そして筆頭公爵家の経済すべてを一人で繋ぎ止めていたのだ。彼女という「楔」が抜かれたことで、王国の屋台骨は一気に瓦解し始めたのである。
「今すぐ……今すぐセレナを連れ戻せ! どんな条件でもいい、土下座をしてでも連れ戻すんだ! さもなくば、この国は冬を越せんぞ!」
国王の叫びが虚しく響く。
しかし、彼らはまだ知らない。
セレナを乗せた馬車が国境を越える際、ユリウスの手によって、王国のあらゆる「弱点」を記した報告書が皇帝の元へ届けられたことを。
そして、帝国はすでに、セレナへの無礼に対する「正当な報復」として、エルミナージュ王国への全面的な経済封鎖と、武力による圧力の準備を完了していた。
帝国の公爵邸。
豪華なテラスで、私はユリウス様と共にお茶を楽しんでいた。
目の前には、帝国特有の香ばしいお菓子と、芳醇な香りの紅茶。
「……向こうは今頃、大変なことになっているでしょうね」
私がポツリと呟くと、ユリウス様は私の指先を優しく取り、その細い指を慈しむように見つめた。
「気にする必要はないよ、セレナ。彼らは自らの手で、唯一の希望を投げ捨てた。その報いを受けるのは当然の権利だ」
「ユリウス様、少し……意地悪ですわね」
「君を傷つけた者たちには、相応の地獄を用意すると決めているんだ。……それよりも、セレナ。今日の午後は空いているかな? 君を帝立アカデミーの特別講師として迎えたいと、学長が泣いて頼んできていてね。もちろん、君が嫌なら断るけれど」
「特別講師、ですか?」
「ああ。君の知識は、この国の未来を拓く鍵になる。君が望むなら、私は全力でその環境を整えよう。ここでは、君を縛るものはない。君が君であるだけで、価値があるんだ」
ユリウス様の熱い視線に、胸が高鳴る。
王太子の顔色を伺い、夜通し書類の山と戦っていた日々が、遠い昔のことのように感じられた。
「……喜んで、お引き受けしますわ。私にできることで、この国がもっと良くなるのなら」
「いい返事だ。……ああ、その前に。学長との面会の前に、一つだけお願いがあるんだが」
「はい?」
ユリウス様は、不意に私の顔を覗き込むと、その形の良い唇を私の耳元に寄せた。
熱い吐息が触れ、全身に甘い痺れが走る。
「……私の前でだけは、そんなに完璧な淑女でいなくていい。もっと甘えて、わがままを言ってほしい。君が困った顔をして私を頼ってくれる姿を、私はずっと夢見ていたんだから」
「ユ、ユリウス様……っ」
顔が、火が出るほど熱くなる。
あんなに冷徹で恐ろしいと言われていた「氷の死神」が、私の前でだけは、これほどまでに執着心を隠さない一人の男になる。
捨てられ、価値を否定されたはずの私が、今、世界で一番甘やかされている。
それは、どんな魔法よりも素敵な、運命の奇跡だった。
「……あ。そうだわ、ユリウス様」
「なんだい?」
私は、彼の胸にそっと手を置き、少しだけ小悪魔的な微笑みを浮かべた。
「王国からの連れ戻しの使者が来ても、絶対に会わせないでくださいね。私、あの方たちの後悔に満ちた顔を見るより、ユリウス様と甘いケーキを食べている方が、ずっと有意義ですもの」
「――承知した。彼らが国境の一歩でも踏み越えたら、私が直々に叩き出そう」
二人の笑い声が、穏やかな午後の風に乗って消えていく。
その一方で、海を隔てた王国には、史上最悪の寒波と、飢餓、そして破滅の影が刻一刻と近づいていた。
後悔しても、もう遅い。
だって、私はもう、あなたの知らない場所で、最高の幸せを掴んでしまったのですから。
さようなら、愛を知らない哀れな人たち。




