泥舟の王宮と漆黒の公爵家
王宮の重厚な扉が背後で閉まった瞬間、あの中の喧騒が嘘のように遠のいた。
夜の冷気が、火照った頬に心地よい。これまで私がこの城で過ごした時間は、常に重圧と責任に押しつぶされそうな、息の詰まるものだった。けれど今、隣を歩くユリウス様の体温を感じながら踏み出す一歩は、羽が生えたように軽い。
「……驚かせただろうか、セレナ」
ユリウス様が、エスコートする私の手を壊れ物を扱うような優しさで握り直した。
彼の瞳には、先ほどまでの「氷の死神」としての鋭さは微塵もない。そこにあるのは、一途なまでの愛情と、少しばかりの不安だ。帝国の大公ともあろうお方が、たった一人の女の反応をこれほどまでに気にかけている。その事実に、胸の奥がじんわりと温かくなる。
「いいえ。驚きはしましたが……それ以上に、救われました。あなたが来てくださらなければ、私はあそこで一人、泥を被って終わっていたかもしれませんから」
「そんなことはさせない。君をあのような場所で朽ち果てさせていいはずがないんだ」
ユリウス様の声には、隠しきれない怒りが混じっていた。それは私に向けられたものではなく、私を貶めようとした者たちへの、苛烈なまでの敵意だ。
王宮の車寄せには、帝国の紋章――漆黒の双頭鷲が刻まれた、重厚な魔導馬車が待機していた。エルミナージュ王国の華美なだけの馬車とは一線を画す、機能美と威厳を備えた漆黒の機体。
彼が扉を開け、私を中に促す。ふかふかの座面、そして微かに漂う白檀の香り。
馬車が静かに動き出した。行き先は、私の生家であるヴァレンタイン公爵邸。……いえ、もはや「生家」と呼ぶのも憚られる、冷え切った檻だ。
「これから公爵邸へ向かうが……準備はできているか? 君の両親が、素直に君を離すとは思えないが」
「ええ。彼らが心配しているのは、私の身の上ではなく、公爵家の権威と王家との繋がりだけですから。……でも、後悔させて差し上げますわ。私がどれだけのものを背負わされていたのか、彼らは知るべきです」
私は左手の薬指で輝くダイヤモンドに触れた。
この指輪は、ただの宝石ではない。私を愛してくれる人がいるという、何よりの証拠だ。
一方その頃、王宮の『星明かりの間』は、祝賀会どころではない大混乱に陥っていた。
「おい、どうなっている! セレナを連れ戻せ! 帝国の大公だと!? あんな男に我が国の公爵令嬢を渡してなるものか!」
レオンハルト殿下が、床に膝をついたまま顔を真っ赤にして喚き散らしている。
しかし、周囲の貴族たちは冷ややかな目で彼を見ていた。無理もない。自ら婚約破棄を宣言し、彼女を「悪役」として追放しようとしたのは彼自身なのだ。その直後に、大陸最強の男が彼女を「至宝」として持ち去った。
この事態が意味する外交的な危機を、まともな大人であれば誰もが理解していた。
「で、殿下……そんなことより、明日の朝一番に行われる帝国との通商条約の最終確認はどうすれば……! 担当の官吏たちがパニックになっています!」
宰相が青い顔をして駆け寄ってくる。
レオンハルトは苛立たしげに髪を掻きむしった。
「そんなもの、セレナがいつもやっていたように適当に処理しておけ! 私はそれどころではないんだ、リリアが怯えているだろう!」
「……殿下、そのセレナ様が、もうおられないのです」
宰相の声が絶望に震えていた。
レオンハルトはまだ気づいていない。
セレナが単に「婚約者」であっただけでなく、この王国の行政・外交・経済の根幹を支える「唯一の歯車」であったことを。
彼女が去ったことで、王国の緻密なシステムは、砂の城のように音を立てて崩れ始めていた。
ヴァレンタイン公爵邸に到着すると、そこにはすでに不穏な空気が漂っていた。
深夜にもかかわらず、玄関ホールには父であるヴァレンタイン公爵と、母が険しい表情で待ち構えていたのだ。王宮からの早馬が、すでに事態を知らせていたのだろう。
「セレナ! 貴様、何という恥晒しを……! 王太子殿下に婚約破棄されただけでなく、帝国の大公などという素性の知れぬ男に現を抜かすとは!」
父の声が、高い天井に響き渡る。
彼は私の顔を見るなり、開口一番に罵倒を浴びせてきた。いつもそうだ。この人は私を一人の娘として見たことなど一度もない。公爵家をより高みへと押し上げるための、便利な駒としか思っていなかった。
「お父様、お久しぶりでございます。……そして、さようなら」
「何を言っている! 今すぐその指輪を外し、王太子殿下に許しを乞いに行け! リリア嬢を姉として迎え入れ、彼女の侍女として仕えるのであれば、公爵家としても……」
「黙りなさい、公爵」
父の言葉を遮ったのは、私の背後に立っていたユリウス様だった。
彼が一歩前に出ただけで、ホールの温度が数度下がったかのような錯覚に陥る。
「……グ、グランツ大公閣下……。し、しかし、これは我が家の家庭の問題で……」
「家庭の問題? 貴殿らは、この高潔な淑女を道具のように扱い、あまつさえ無能な王太子に差し出して心身ともに削り取らせてきた。それを『家庭』と呼ぶのであれば、帝国の法では虐待として極刑に相当するが?」
ユリウス様の冷徹な視線に、父は蛇に睨まれた蛙のように硬直した。
私はその隙に、メイドたちに命じておいた荷物――私が自分のお金で買い、管理していた最低限の身の回り品――を運び出させる。
「セレナ……あなた、本当に行くつもりなの? 私たちを見捨てるというの!?」
母が縋るような声を出す。だが、その瞳にあるのは私への愛情ではなく、「明日から誰が私のドレスの予算を工面し、貴婦人たちの社交を完璧にこなしてくれるのか」という打算だけだ。
「見捨てたのは、お父様とお母様の方です。私はこれまで、この家のために、王国のために、自分の時間をすべて捧げてきました。……でも、もう終わりです。明日からの執務、そして公爵家の家計管理、すべてご自分たちでなさってくださいませ」
「な……家計管理だと? それは家令が……」
「不正塗れの家令に指示を出し、穴だらけの収支書をすべて修正し、領地からの陳情を処理していたのは私です。お父様が毎晩のように楽しんでおられた最高級のワインも、お母様の新作の宝飾品も……すべて、私の投資運用で得た利益から捻出していたものですよ」
父と母の顔が、同時に灰色になった。
彼らは、自分たちがどれほど贅沢な生活を送れているのか、その源泉がどこにあるのかすら把握していなかったのだ。
「それでは、ユリウス様。行きましょう。ここにはもう、私の未練は何一つありません」
「ああ、行こう。君の新しい家へ」
ユリウス様が私の肩を抱き寄せる。その力強い腕に支えられ、私は一度も振り返ることなく、呪われた公爵邸を後にした。
馬車に乗り込む間際、私はふと思いついて、玄関に立ち尽くす両親に最後のアドバイスを贈った。
「そうそう、お父様。明日の朝、王宮から『緊急の呼び出し』があるはずですわ。レオンハルト殿下が紛失した、隣国との軍事境界線に関する極秘文書……あれの写しを持っているのは私だけですので。……まあ、頑張って探してみてくださいませ。数万枚ある資料室のどこかには、あるはずですから」
「な……っ!? セ、セレナ! 待て! 行くな!」
父の悲鳴のような叫びを、馬車の扉が遮断する。
漆黒の馬車は、夜の闇を切り裂くように走り出した。
車内には静寂が訪れる。
私はふう、と深い溜息をつき、背もたれに体を預けた。
緊張の糸が切れたのか、急激な眠気が襲ってくる。そんな私に気づいたのか、ユリウス様がそっと私の頭を自分の肩に寄せた。
「お疲れ様、セレナ。よく頑張ったね」
その言葉だけで、これまでの十数年間の苦労が報われた気がした。
涙が、一筋だけ頬を伝う。
「ユリウス様……私、本当に幸せになってもいいのでしょうか」
「もちろんだ。君を幸せにしない世界など、私が壊してやる」
物騒な、けれどこれ以上なく頼もしい愛の言葉を聞きながら、私は深い眠りに落ちていった。
明日、目が覚めた時には、もうあの冷たい王宮も、身勝手な両親もいない。
そこにあるのは、私を必要としてくれる人と、私の才能を正当に評価してくれる、新しい世界。
一方で、私のいなくなったエルミナージュ王国は、建国以来最大の危機に直面しようとしていた。
有能な一人の令嬢を失った代償がどれほど高くつくのかを、彼らはまだ、本当の意味では理解していなかったのである。




