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アルノは学界の同行者とともにヨルグ町から乗合馬車に乗って学界本部がある都市へ向かった。
男性ふたりは雑談することもなく、居心地悪さはすぐに乗り心地の悪さにとってかわった。レファートが用意する馬車は常にアルノの思考を邪魔することはない。早く終わらせてすぐに帰りたかった。
ゴッドフリート大学の学長の指示によるリシェルとメイニを連れて行こうとした矢先のことだ。レファートは工人たちに建築とは別に学者と子供たちの警固も依頼していた。当然、報酬は上乗せされるとあって、快く受け入れてくれた。その工人たちがついているものの、アルノが急にいなくなってはリシェルもメイニも不安だろう。
そこまで考えて、リシェルもメイニもアルノを頼みにしているかどうかは分からない、と自信過剰になっていたことを自省する。アルノ自身は学問のことはともかく、ほかのことに関しては各分野を得意にする者たちが大勢いる。
だとしても、リシェルとは恋人同士になったので、なにもないまますぐに遠方に向かうことになって残念に思った。
いや、なにもないとはなんだ。なにとはなんだ。
アルノはひとりで百面相をしたため、無言の乗車時間もあっという間に過ぎた。
学界の査問会に呼びつけられるという不名誉な出来事も、降ってわいた恋愛によって、意気消沈することなくいられたのである。
スライム・クラフトのことを研究する傍ら、リシェルとティコに勉強を教え、なんなら、ほかの子供たちにも読み書きと簡単な算術をと思っていた。意外にも、エニーやメイニはともかく、カレルとチエムがやる気になった。
「だってさ、アルノの話って面白いから」
勉強は嫌いだが、アルノの話を聞くのなら別だとカレルは言う。
「賢師から教わるなんて、学院でも大学でもそうそうないことだろう?」
チエムはこんな絶好の機会は二度とないとにやにやする。
「「やらなきゃ損!」」
カレルとチエムは向き合って指を一本立てながら声をそろえた。
学問に関しての期待には大いに応えたい。アルノはどんなふうに教えようかとわくわくしていた。
なのに、あの場所を離れることになった。残念でならない。そしてまた、そんな風に考える自分に驚いてもいた。
実家は居心地の良い場所ではなく、寄り付かなくなった。エルミラとは違うのは、家族はアルノがいてもいなくてもどちらでも構わないという点だ。
ゴッドフリート大学にいたときも、学長に勧められてこだわりなく、大学を出た。生物学は屋外で行うという学長の言は頷けるところが大いにあったからだ。
どんなところにも動植物がいるのだから、どこにでも行ける。そう思っていた。
でも、今は少し違う。叶うなら、彼らとともにありたい。
そして、リシェルとともに過ごしたい。あれほど魅力的な人であれば、多くの男性が手に入れたいと思うだろう。
恋愛は多大な熱量を必要とする。
だから、コストパフォーマンスを念頭に置いて行動する人間には不向きなものだ。手軽に、簡単に、簡便にはできない。
自分の心と相手の心、それぞれの働きがある。だから、常に働きかけが必要だ。
離れてしまっては、それができない。
アルノはどこか甘苦しい感情に悶えるような心地に陥った。いわば、ベッドの上で右に左にごろごろ転がりまわるような境地である。人はこういうときに、山の頂上で大声で叫ぶのかもしれない、などとどうでもいい思考を重ねた。
それはそれで、現状から一時逃避するのに良かったのかもしれない。
さすがのアルノも、学界に査問会に呼びつけられるという事態にあっては、平然としていられない。
学界は古い都市の古色蒼然とした建物を本拠地にしていた。
乗合馬車を乗り継ぎ、最後には徒歩で向かう。ところが、乗り継ぎの町を通り過ぎ、しばらく進んだ都市の停留所で降りた。
「ここは?」
「学界が保有する拠点のひとつです」
「さあ、こちらへ」
商業都市のようで、人通りが多い。大通りを離れると喧噪も遠のいた。急かされ歩いたので、周辺の様子はあまり分からない。
細い路地に軒を連ねる家々を過ぎ、都市の中心から外れると広々した敷地を持つ建物が現れた。大学の校舎ほどではないが、それなりに大きな建物の門扉を潜る。
アルノは着いて早々、割り当てられた部屋に押し込まれた。ここでお待ちくださいと言われてから、いっかな声がかからない。室内にある本棚に並べられた書は読んだことがあるものが大半で、手に取ったことがないものから読んでいくことにした。
食事が届けられるたびにいつ査問会が開かれるのかと問うも、確認します、あるいはわかりませんというもので、具体的な返事はない。
常よりも時間が過ぎるのが遅く感じられた。
ふとした折に、リシェルとメイニの身が案じられる。リシェルは欺き連れて行こうとされ、メイニに至っては誘拐されようとした。
ぼんやりしすぎだ。楽観的すぎたのだ。なぜ、ふたりを置いてきたのだろうか。
ふたりは無事だろうか。早く戻りたいが、いっかな査問会は始まらない。
特に称号にこだわりはない。だから、食事を運んできた人間に、いっそ称号を返上するので戻ると伝えるように言うと、あちらの方が驚き慌てふためいた。
それでも、明確な答えはない。
建物の外に出ることもできたが、敷地内までで、それも必ず誰かが付き添った。それでも、室内に閉じこもっているよりはましだ。
アルノが整えられた庭を歩いていると、声を掛けられた。
「あれ、アルノ賢師ではありませんか。どうしたんですか、こんなところに」
顔見知りの学者で、話しぶりから、アルノが査問会に召喚されたことを知らない風だった。
それでもなにか情報を得られないかと立ち話をする。
「この試料なら、微弱な光を記録する必要があるから、開口数の大きい対物レンズが有利だぞ」
「ちょ、ちょっと待ってください。今、メモを取りますので」
ふと、学者が持つものを見て告げたら、片手を話してポケットを探る。
そんな風にして話しているのを聞きつけて、学者たちがやって来る。
「おや、アルノ賢師」
「こんなところで講義ですか? 僕も拝聴してもいいですか?」
いつの間にか、わらわらと学者が集まって来る。さまざまな分野の学者がいた。生物学者のみならず、物理学者、数学者、天文学者、地質学者、工学者、そして魔法学者などだ。
学者は一分野にとどまらず、多岐にわたって研究していることもままあった。
アルノもそうだった。生物学を深めるために世界の様々なことを知ろうとした。
「ぜひとも光魔法顕微鏡のご教授を」
光魔法顕微鏡は一定規準の設定から外れて使用すると、本来の性能を全く発揮できないこともある。
アルノが光魔法顕微鏡の発案者と知る学者たちは話を聞きたがった。
「その後は細胞の固定法および染色法の講義をしてほしいです」
「あちらの大会議室へ移動しましょう」
アルノを監視する人間は敷地内にとどめ置くこと、情報を与えないことを指示されているらしく、それ以外の制限はしてこなかった。
アルノは学者たちとともに議論しながら、隙を見て事情を知れないかと考えた。
「集光量が高いほど解像度は高くなる」
「サンプル数が多いほど精度があがるのと同じですな」
「どうしても収差が出てしまって」
顕微鏡のレンズが結ぶ理想的な像からのずれを収差という。対物レンズは、複数枚の短レンズを組み合わせることによって収差を補正されるよう工夫している。
「視野全体にピントが合う、像面歪曲が補正されるレンズを開発中だ」
「ええ!」
「そ、それっていつ頃、手に入りますか?」
平面のものが表裏にたわんで像を結ぶ収差を像面歪曲という。これがあると、視野の中央部にピントを合わせても周辺部はぼやけてしまう。
「回析光だけを波長の四半分遅らせるんだ。そうすると、直接光と回析光とが打ち消し合う」
そうなると、干渉光は暗くなる。
「おお! そうなんですか!」
「となると、逆の現象もありうるのですか?」
「ああ。直接光だけを波長の四半分遅らせると、今度は直接光と解析光とが強め合う」
そうなると、干渉光は明るくなる。
「なんと!」
「ちょ、ちょっと後でやってみます」
実験がしたくてそわそわする。でも、せっかく会えた賢師の話も聞きたいので、その場にとどまった。
「さすがはアルノ賢師。光魔法顕微鏡開発の総指揮者でいらっしゃる」
「生物学のみならず、光というものの性質にもお詳しい」
「そのほか、魔法学や工学、物理学にも」
光魔法顕微鏡のような代物は、様々な見地の学識から生み出された複合魔道具であった。
それを生み出すには、様々な知識を深める必要がある。それが分かるからこそ、多様な分野の学者たちはアルノの話を聞き、持論を聞いてもらいたがった。脳は単独で思考するよりも、刺激を受けた方が良い働きをする。
「いや、俺は発案者なだけで、実際に携わったのはレファートやエルミラ、工学者たちだ。それを実現させたのは職人たちだ」
「しかし、こうやって論説を立てることはなされたのでしょう」
「いやはや、賢師ともなると、学者を育て、自身の功績を与えてしまわれるものなのですなあ」
学者たちのなかでは、アルノが実績を弟子に与え称号を取らせたという認識が広まっている。多くの学者が望む高位称号を得る機会を、後続に譲るというのはなかなかできないことだ。それをやってのけた人物が目の前にいる。
また、その多方面に深い見識を持ち、議論すれば何らかの発想が得られる。
学者たちは自然と頭を垂れる気持ちになった。
中には、「つい先だって出された論文を読みましたよ」という人もいた。
「自分も拝読しました」
「実に興味深い生き物だ」
「スライムの体色が空色なのが、植物の緑と同じ役割をしているとは」
「動物でありながら、植物の性質をも併せ持つと言えるでしょう」
それぞれの見地からスライム考察を述べ合う。議論が白熱し、論述へ疑義や反駁を呈されることもあるが、現段階では未知の出来事に興味津々である様子だ。
「楕円物体への光の吸収、反射はどうなるのか」
「光魔法に関する研究は光魔法をよく扱う者が進めているところだ」
「では、論文が出るのを待ちましょう」
「いや、待ち遠しいですな」
学者たちは光魔法をよく扱う者というのがエルミラのことだと思っているとアルノは察したが、実際はもっとやわらかな色の瞳の持ち主だ。
「振動で感知するということでしたが、どの程度の周波数が可能なものでしょうか」
「その点についてはまだ研究段階にも入っていない。だが、マーティン博師も研究チームに加わったんだ。光魔法に造詣が深いエルミラもいる。今後、より一層研究が進められるだろう」
こう言ってしまえば、先の光魔法をよく扱う者のことがエルミラのことだと裏付けてしまいかねないが、今はまだそれでいいだろうとアルノは思う。大学で学んで称号を得て、彼女を守る盾となれば、いずれ共同研究者として名前が広まるだろう。
「マーティン博師が! 今ここにおられないのが残念です」
「ああ、マーティン博師ならば、一晩中でも語り続けるでしょうな」
「いや、二、三日くらいはいけるんじゃないか?」
生息地にない植物をスライム・クラフトできるかという問いが上がった。
「可能だと考えている。もちろん、実験結果を見る必要があるが」
「わ、わたしもその実験に参加したいです」
「僕も」
「俺も」
議論はあちこちに飛び、ときおり小グループを作ってまた全員で誰かの論に耳を傾ける。そんな風にして夜遅くまで話し合われた。
「いやあ、学界から急な招集があったのですが、応じて良かった」
「確かに。アルノ賢師のお話が伺えたのだから」
「突然呼びつけられて行けるものかと要請を蹴った者がこのことを知ったら、悔しがるでしょうな」
学界によって招集された学者たちはアルノと議論を戦わせた。アルノと楽しく話すうち、行き詰まっていた論説に新たな観点を与えられる。あるいは、曖昧だった道筋が明確に見えてくる。
アルノも一時、査問会への懸念から離れることができた。
「スライムについて研究する人間も出てくるかもしれないね」
「すらいむについてくわしいのはめいに」
「じゃあ、みんな、めいにからおそわるの?」
「わあ、めいにがせんせい!」
「めいにせんせい!」
「すらいむについておしえてください!」
「と、スライム当事者が申しておりますが、メイニの言葉を理論的に組み立てる人も必要なんじゃないかなあ」




