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実家ではストーブの中に蓋つきの壺を入れて料理を煮ていた。
市場で三脚つきの鉄鍋を見かけ、買ってみた。使ってみると、具合が良い。
浮き浮きと料理をするようになった。ちょっと手の込んだものをつくって、夫やその子どもを喜ばせた。始終機嫌がよいことも相まって、夫婦仲もよくなる。
そう、少なくとも夫婦仲がよければ、耐えられるのだ。家庭にはさまざまな問題が発生する。どれだけ好条件の結婚をしたとしても、どこから不具合が生じるか分からない。そんな折、夫が庇ってくれたら、あるいは気を使ってくれたら、立ち向かっていこうという気になれるものだ。
けれど、前夫は自分が村に溶け込めるようには、なにひとつしてくれなかった。ないものだらけの中で家事をするのもひと苦労だった。各家庭のやり方があるのに、なにひとつ知らないのだから当たり前なのだが、それで嫌味を言ってくる義理の両親から庇ってくれることなどついぞなかった。
いっしょになって嫌味を言ってこないだけましだ、と別れた後に会った友人たちが言っていた。
実家は町にあり、子供の頃はほかの子たちに引け目を感じることがない程度には豊かだった。だが、一度目の結婚相手の住む村はとても貧しかった。その男性がどうこうではなく、もう村全体が活気がなく、どんよりと重い空気が漂っていた。男性に連れて行かれた村を見たとたん、結婚を受け容れたことを後悔した。これからここで暮らすのかと思うと気分が落ち込んだ。
男性は村と町とを行き来する役割を担っており、その際、自分を見初めたといって熱心に口説かれ、ほだされてしまったのだ。両親は渋ったが、女性は望まれて嫁ぐ方がよいと思っていた。今もその考えは変わらない。だが、程度というものがある。
元夫は一度手に入ってしまえば、取り繕うことなく、自分に村での生活に慣れろと強いた。
あれもない、これもない、ないものだらけだった。いっそ、村の中心に据えた井戸から水を汲んできてもおかしくない大昔の生活をしていた。井戸は各戸あるいは二、三戸で使っていて、手押しポンプが設置されている。押すたびに甲高いきしみを上げる。力任せにやったら取れてしまうのではないか、というほどだった。だが、力を籠めなければ動かない。
キイキイやっていたら、誰かが出てきてじろじろ見られる。水を汲んで腰を伸ばしたら、こちらを見ているのに気づくのだ。
いつの間に。
そう思ったのは最初のころだけだった。すぐに、ああ、またいる、となった。あるいは、やっぱりでてきた。やっぱりいる。そして、見ている。
話しかければいいのに、という気持ちはすぐに吹き飛んだ。話好きな人間からどうでもいいことばかり話しかけられては、家事が進まない。
こういう手合いは、こちらが話したことをすぐに他所でしゃべるだろう。だから、愚痴なんてこぼせない。話してしまえばすぐに広まる。愚痴の相手にも伝わるだろう。
今でこそ、自分で言えないことはその人に話すことで間接的に伝えられたのになどと思えるのだが、それはそこから離れたからできる思考だ。その場所に住んでいたら、嫌で嫌で仕方がないが、一々物音を聞きつけて出てこないでほしいなどとは言えない。苛々した気持ちでする作業は荒っぽくなり、ミスを連発した。
そして噂されるのだ。あそこの家のお嫁さんは家事が下手だ。動作が荒々しく女性らしさがない。愛想がない。
その噂は義理の両親の耳にも届く。彼らから面と向かって「こんな嫁をもらうなんて」と嘆かれたことすらある。そんなときも、前夫は助けてくれなかった。面倒なことからは逃げる人間なのだということを知っていたら、結婚などしなかったのに。
そんな暮らしが嫌になって、離縁を望んだ。
生まれて間もない子供は置いていけと言われ、そうした。次の結婚の足かせになるから、ちょうどよかった。
ところが、数年経ったある日、元夫は町へやってきて、父親が亡くなり母親の縁者を頼って遠方へ行くことになったので、子供を引き取ってくれと言ってきた。
とんでもないことだった。なぜなら、自分はすでに再婚していたからだ。相手は子持ちだったが、とても良い子だ。元夫が連れて来た生意気そうな子供とは全く違った。
「そんな、みすぼらしい子はわたしの子供ではないわ」
そう言って断ったとき、子供は傷ついた顔をしたから、さすがに気がとがめた。本当に気が利かない。こういうとき、なぜ子供を同席させるのか。こういう気働きができないところが嫌で嫌で仕方がなかった。改めて思い知らされた。
新しい夫も、妻の前の結婚の際に産んだ子を引き取ることを拒否した。夫の連れ子が同年代の女児だったからだ。
「困るなあ。間違いがあってはいけないから。あんな乱暴そうな男子といっしょに暮せない」
「ほらね、今更いっしょに暮せないわ」
「ほらね、今更いっしょに暮せないわ」
チエムは生みの親だという女性が心底困った表情でそう言ったのを、今でもありありと思い出せる。
チエムには物心ついたころから母親がいなく、だから理想ばかり膨らんでいった。祖父母や村の人たちは、町から嫁いできた母のことを、都会育ちで村の生活を毛嫌いしていた、家事が下手だった、いけ好かない女性だったと口々に悪く言った。父に聞いてみても、「さあな」としか言わない。
せめて、自分だけは味方でなければと思い、母を悪く言う者たちに様々に反論した。
それが生意気だとして、祖父母に疎まれた。
「あの女の血筋だよ」
「俺は母さんの子だという証拠だな」
忌々し気に吐き捨てる祖母に、そんな風にうそぶいてみせもした。
いつか母に会って、自分だけは味方だと言ってやろうと思っていた。
きっと母も子供を心配し、会いたいと願っているだろうと考えてのことだった。
だが、それは無駄な努力だった。
祖父が亡くなり、祖母を連れて村を出ようという計画をしていた父に、チエムは自分は母の元へ行きたいと言った。祖母はこんな言うことを聞かない子供を連れていけば足手まといになるから、そうすればいいと父に告げた。
だが、母もまた、チエムを拒絶した。
あまりの貧しさゆえに、村を離れる人間は年々増えていた。そんな風にして去った父と祖母はチエムを神殿に押し付けた。子供を長旅に連れ出すのは忍びないという言い訳をして。
それ以降、チエムの家族はジムと彼が扶養する子供たちとなった。
今、かつて母であった女性がピルア村の前でうろついていて、チエムに気づいて声をかけたのだ。
「ねえ、あなたからもここを通してくれと言ってくれない?」
女性はひとりではなく、男性と子供を連れていた。三人とも村の入り口で手続きを踏むように言われ、困っているのだと話した。
「ヨルグ町から来た人はケンエキってのをする必要があるよ。第一、もうバダーは収まりつつあるんだろう? なんでまたこんな中途半端なときに来たんだ?」
「だって、町はもう怖くて住んでいられないわ。この村は今じゃあ、豊かになっているって聞いたから」
ピルア村の貧しさを嫌って出て行った人間ならばこその言葉だ、とチエムは鼻で笑った。
「ああ、バダーが流行っているときは村に入れなかったけれど、今だったらいけるんじゃないかって思ったんだな?」
「そんな冷たいこと、言わないでちょうだい」
チエムは続く言葉を半ば予想していた。
「お母さんでしょう?」
こういう当たってほしくない予想ばかり当たるものだ。
「俺のこと、覚えていたんだ」
チエムは猛烈に凶暴な感情が沸いてくるのを感じた。
「なあ、俺、あんたに捨てられた後、父親にも捨てられたんだ」
なのに、母親だという女性は、チエムが今までどうしていたかはもちろん、前夫のことすらも関心を払って質問しなかった。
「そ、そんな、」
チエムがたったひとり残されたと聞いて、ようやく青ざめる。
父親は連れ合いを亡くしてすっかり気弱になった祖母ひとりを連れて、村を出て行った。チエムはひとり残され、前聖職者のジムに引き取られた。
チエムは十に満たない年齢にして、どうやって糧を得るかを日々考えなければならなかった。しかも、自分ひとり分ではない。幼い弟妹たちの分もだ。もちろん、たったひとりで行うのであれば、とうの昔に逃げ出していただろう。でも、カレルがいた。後からリシェルも加わって、大分心的負担が減った。
なのに、本来、チエムを扶養すべき生みの母親は再婚相手の連れ子を大切に育てていた。
その子供は大事に守られ、なんの不安もなく、自身の食い扶持を稼ぐこともなく、のんきに暮らしているのだ。
こんな不条理があっていいのか。
「こんなの、おかしいだろう!」
道理が通らない。
なのに、言うに事欠いて「お母さんでしょう?」だ。
「母親らしいことをなにひとつしていないのに、なにを要求しようって言うんだ?」
「もういいよ、行こう」
男性に促され、女性は悄然と去っていった。その手にはしっかりと結婚相手の子供の手が握られていた。
あの手を握るのはチエムだったはずだ。
悔しいのか悲しいのかわからないまま、チエムの視界はぼやけた。それすらも腹が立って、乱暴に目元をぬぐう。
思えば、ヨルグ町に薬を売りに行った際、見かけたのは母親たちだったのだ。
再婚して夫とその連れ子と幸せに暮らしていた。
後になって思い返せば、母親だという女性はひと言もチエムに謝罪することも、励ます言葉もかけなかった。
いっそ、思い切るにはその方がよかった。チエムには、そう考えることしかできなかった。
「すらいむをおいてさきにいけ!」
「おー」
「って、どのすらいむ?」
「え、あれ?」
「だれをおいてにげるの?」
「あれー?」
「すらいむはちょっとずつしかすすめないから、さきにいってもけっきょくはつかまえられちゃう」
「「「「いやーん」」」」




