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顕微鏡とは、肉眼では見えない小さなものを見る器械だ。
対物レンズと接眼レンズを用いて観察する複式顕微鏡が発明されてから、改良を重ねられてきた。それに比例して、生物学も発展してきた。
そして、光魔法を用いた光魔法顕微鏡が発明された。これは特殊な不可視光線である近赤外線を使うことで、生きた組織の深い部分に光が入る。そのため、薄くスライスした標本を必要としない。また、これにより、切り取った一部ではなく、様々な器官が相互作用する模様を観察することができる。
「生体内の中を観察することができる貴重な器材だ」
崖から落ちた後、真っ先に破損がないかを確認したアルノが言う。
そのアルノこそが、光魔法を用いた画期的な顕微鏡の開発を発案した。
人は世界を知覚する際、多くを視覚に頼る。なにかを知ろうとすれば、視認することが多いのだ。だから、目に見えないほど小さいものを理解しようとなると、難解となる。
「だから、顕微鏡は世界を知るのに大いに役立っていると言える」
顕微鏡の優位性を実感し、さらなる向上のため、工学者の論理とそれを実現させる職人の仲介役をレファートに任せた。そして、光魔法の繊細な操作をエルミラに持ち掛けたのだ。同じ大学の研究者であったアルノはエルミラならばこそ、と誘ってくれた。
微細な扱いもさることながら、調整、調整、また調整の繰り返しで、とにかく根気が必要だった。けれど、エルミラは自分を見出し声を掛けてくれたことが嬉しくて励んだ。
そうして発明された光魔法顕微鏡の優位性が認められ、エルミラとレファートは修師の称号を得ることができた。
発見を論文で発表して認められ、称号を得るまでに、学識や理論構築といったものとは別の難事が立ちはだかった。
男性社会の学界において、女性が成功を収めることは非常に稀なことだった。
女性は論理的ではないから、学者には向かないという意見から、おとなしく家庭に入っていろ、なんなら相手してやろうかという欲得がらみの気持ち悪い言葉をかけられたことすらある。
彼らは彼らの思う「正当な意見」を建前にして、下卑た考えを平気で言ってしまう。自分の意見を言うのは当たり前のことだと思っている。それが相手を傷つけ、尊厳を踏みにじるということを想像もしない。
実家はそれなりに由緒正しい家門で、エルミラが大学で学ぶことに難色を示し、学者になることを反対した。称号を得たときには喜んだものの、女性が社会で活躍するというのはこういうことなのだ、と訳知り顔で述べられる。
第三者が安全な場所から勝手なことを言う。エルミラの懸命の努力も受けた恥辱も、意に介さない発言だ。
大学を卒業したころから、実家から折に触れて縁談を勧める書簡を送られるようになった。女性は若いうちに望まれて嫁ぐことこそが幸せだと記されていた。
そういう向きもあるかもしれない。けれど、そこにはエルミラ本人が望む幸せはない。
エルミラは家門の人間に理解を得ることは、とうの昔にあきらめていた。
学問の世界は研究をしていればいいだけではない。
地道な実験を積み上げ、ようやく得たデータを、上の人間が自身の研究だと発表する。あるいは、優秀な者は他機関に引き抜かれていく。
大学にいれば安定とステータスを得られる反面、自分の能力を認められず、飼い殺しにされる一面があった。メリットとデメリットを天秤にかけ、自分が築き上げよう、新しい居場所を作ろうとする気概を持たなければ、都合よく使いつぶされて終わる。
そんな中、アルノはエルミラもまた、光魔法顕微鏡開発において重要な役割を担った、女性だからといって評価されないのは不当であると公言した。
「それに、高倍率、高度な分解能を持つ新顕微鏡は光魔法の微調整を必要とする。今後、生物学において光魔法の緻密な使い手は必要不可欠だ」
倍率は物体を拡大することを、分解能は細部を識別する能力のことを指す。アルノの指摘の通り、その後、エルミラの技術は重宝された。
数少ない女性の学者として肩肘を張っていたエルミラは、色眼鏡を外せば、アルノの知見の深さに感銘を受け、教えを乞うようになった。彼にはすでにレファートという自称弟子がおり、いつの間にか、エルミラもまた弟子と目されるようになった。その噂を耳にしたとき、否定するよりも、自然と「我が師」と呼ぶ気持ちになった。
同格の称号を持つレファートとはなにかと張り合うことも多かったが、それは対等に扱われるからこそ、できることだ。半分くらいは師の関心を独り占めしたいという子供じみた感情からくるものだったが。
「顕微鏡の精度を上げることによって、科学発展に寄与できる」
アルノはそう言って、従来の顕微鏡の改良にも取り組んだ。協力を乞われたエルミラは喜んで共同研究に取り組んだ。レファートは必要な資材や人材を調達してくる。
工学の知識もあるアルノは油や水といった液体を用いて、分解能を向上させるという発想を実現化させた。
顕微鏡は、いくら倍率が高くても、分解能が低ければ、像がぼやける。
エルミラの光魔法なくしては、この改良はなし得なかった、とアルノは言う。
光魔法が科学を発展に大いに寄与した。自分もそこに加わったのだとすれば、それで十分だ。
その顕微鏡の改良とそれを用いた病の発見と創薬への貢献を高く評価され、エルミラは女性初の博師の称号を得ることができた。
同時にレファートも同じ称号を得るのだから、どこまでも張り合ってくる兄弟子である。
エルミラは初めて得た尊敬できる師、切磋琢磨する同輩の兄弟子という存在に、ようやく心安い居場所を手に入れたのだった。
細胞は無色透明のため、その構造が不明瞭だった。
「そこで、師が細胞を固定および染色する方法を発明したのだ」
レファートが我がことのように誇る。
「えっ?! 染色法って、アルノさんが発明したの?」
リシェルは大きな衝撃を受けた。学院で使った教科書に載っていた事柄を、目の前の人間が見出したのだ。それは世界がアルノの発明を素晴らしいものだと認めたということにほかならない。賢師という称号はこういうことをやってのける者に与えられるのだろう。
「ああ」
当の本人はリシェルの驚きよりも、器材の微調整の方が気になるようだ。
アルノは各染料には付着しやすい特定の標的があることを発見した。
ならば、病を発生させる微小物質を標的にする染料があるのではないか。その染料に微小物質を攻撃する性質を付与すればいいのではないか。
この考えはまさしく的を射ていたのだ。
「その染色法と顕微鏡の発達により、生物学は飛躍的に発展した。いわば、我が師とわたくしとの共同研究による結果だ」
顕微鏡の発展に大いに寄与したエルミラが言う。レファートの片眉が跳ね上がる。彼に先んじてアルノが口を開く。
「その染色法と顕微鏡によって特定の病に劇的に効果を発揮する薬をつくることができた。その有用性を門外漢に説明し理解させたのがレファートだ」
「どれだけ効果的なことでも、知らない人間にそうわからせるのって大変だものね」
「研究もお金がなくちゃ、できないしね」
リシェルとエニーがそれぞれ頷く。
「その染色法をスライムに用いて、スライムの細胞の働きを観察しようと思う」
「おお」
「では、スライムを染色させ得る染料を見出さねばなりませんな」
レファートが感銘の声を上げ、エルミラがさっそくすべきことを考え始める。
「チュライムに、いたいことをちゅるの?」
スライムを抱える腕にきゅっと力を込めたメイニが、不安そうにアルノを見上げる。
「染色するにはまず、臓器を切り出し、固定し、脱水させ、薄切りにする必要がある」
そして、染色して顕微鏡で観察するのだとレファートが説明する。
「臓器を切り出す!」
「いや、さすがに切り取るのは、なあ」
カレルが眼を見開き、チエムが顔をしかめる。魔物だとしても、無害であるし、なんなら、村人たちよりもずっと身近に接してきたのだ。
「チュライム、きっちゃうの?!」
レファートの言うことは分からなかったが、ふたりの台詞でようやく理解したメイニが青い瞳を潤ませる。
アルノはその傍らに跪いて視線を合わせる。
「いや、大丈夫だ。スライムに害のない染色液を摂取させる。あとは、いつもの通り、メイニがスライムにじっとしているように伝えてくれればいい。そのための高性能光魔法顕微鏡だ」
脱水と薄切りをしなくとも、克明に見ることができる。だが、その特殊な顕微鏡は光魔法の微調整が難しい。
「案ずるな。わたくしが得手とする分野だ」
「よかったあ」
メイニが顔いっぱいに笑顔を浮かべる。潤みの残る瞳がきらきらと輝く。
「固定って動かないようにするの?」
「細胞の基本構造であるタンパク質を水と有機溶媒に不溶化して分解酵素を活動させなくするんだ」
染色法に興味津々のリシェルに、アルノが答える。
それ以上細胞が変性しないように安定化させるための手法だ。
「今回は組織を切り離した試料を用いないから、部分的に染色剤に対する分解酵素の不活性を一時的に促す薬液を投与する」
それを、数回に分けて、ほかの部位で繰り返していく。
「時間がかかるが、臓器抽出による染色法よりも、体内の他部分との連携を観察できる」
一部分を切り取ってみても、それがどこからどう発生したものによってどう変化するかがわからない。本来の役割がどんなものかを見るならば、取り出した一部分だけの作用を見るのでは不十分である。
「木の葉だけを観察しても、どうやって水や栄養素を受け取っているか、わからないだろう?」
「あー、そうなのかな」
「ふうん」
アルノの説明に、カレルもチエムもぴんとこない様子だ。
「あれよ、ジャガイモやニンジン、タマネギを見せられても、煮込み料理なのかサラダなのか付け合わせなのか分からないでしょう?」
「ああ、なるほど」
「この場合、どう味が変化していくか、ってことじゃないのか?」
エニーの解説にカレルとチエムがわいわいと話し始める。
「たぶん違うと思うわよ」
リシェルが三人を止める。
その脇で、学者三人が話し込む。
「仮に、スライムの検体が手に入ったら、一般の手法による染色法も試してみたいな。免疫組織の観察をしたい」
目的によって固定液を選択する。ホルマリン固定液、パラホルムアルデヒドなどで、生体への影響が強い。
「スライムには、どの固定液が効くか実験しておきたいですね」
「様々な固定温度を確認したいところだ」
染色には酸化剤を用いたり媒染剤を添加したりする。酢酸を使用することもある。免疫細胞ならば、酵素や蛍光色素を用いる。
「メンエキってなんだ?」
ずれにずれた例え話が終わっていたらしく、チエムが聞きなれない言葉を質問する。
「動く細胞だよ。体内でガーディアンの役割を持っている」
「体の中で動く?」
「うっそだあ。またまたあ」
「本当だよ。免疫細胞は体内をめぐって悪さをする異物がいないか巡回しているんだ。文字通り、「疫」病を「免」れるための細胞なんだ」
病は大敵だ。特に、少し前までは、外傷の膏薬は塗らない方がまし、と言われていたほどお粗末なものであった。自然治癒の方が治りが速いということは、よくないものが含まれていたということだ。
だからこそ、きちんとした理論や実践に基づいて実績を持つ薬をつくる者は珍重される。子供たちも筋道だった思考はもたないが、アルノが病を打ち負かすための研究をしているのだということをなんとなく感じ取った。
「警邏みたいだな」
「やっつけたりしないのか?」
「するよ。食べてしまったり、応援を呼んだり、仲間が活性化する粒子を放出して援助したりする細胞がいる」
「へえ、いろんなことができるんだな!」
「食べるってこええ!」
「実に細胞は様々なんだ。そういった動く細胞が体内の物質を自分とそうでないものと見極めるシステムがある」
「おー、すげえな」
「その細胞ってのには目も鼻もないだろうからな」
アルノの説明にカレルとチエムがわいわいと言い合う。難しい事柄も、子供たちに興味を持たせる。ただ聞くだけでなく、造詣が深くなくても感じたり考えたりする。そうさせることができる。
「そうなんだよ。動物のように、目や鼻がなければないなりに判別するシステムを持っている」
「スライムもそうだというのね?」
察しよくリシェルが言う。
「ああ、俺はそう考えている」
子供たちは初めて聞くことについて驚いて信じがたいと言うものの、話を聞くうち、そういうものかと受け入れる。素直であり、柔軟でもある。
「とはいえ、消化されて小さく分解されると言っても、細胞レベルの話だ。免疫細胞の監視からは逃れえないだろう。おそらく、その辺りの機序に魔力がかかわっているのだろうな」
スライムの体内に残っていた植物がどうして薬効と分離したのか。
「免疫学的寛容はどうなるのかな」
スライムが分解する能力が高いということだろうか。
アルノの脳裏にふと考えが浮かぶ。
「分解しているのではなく、「生み出している」としたら」
そして、その思い付きは的を射ていたのだ。
ごく稀に、こういった一足飛びに正解にたどり着くことがある。それはまさに、天から与えられた閃きのような思考だった。
「いたいことする?」
「きられちゃう?」
「こわーい」
「いやーん」
「さいぼうぶんれつしてふやさなきゃ」
「だすよー」
「がんばる」
「「「ぷるぷるぷる」」」




