17
「納屋に寝泊まりするってのは、よっぽど駄目なことだったんだなあ」
立派な住居を前に、チエムはしみじみとそうつぶやいた。当のアルノは眠れたらどうでもよさそうだとは言わないでおいた。このことに関しては、彼は学習というものの大切さを痛感していた。
アルノの部屋は二階の日当たりのよい位置の広い間取りのものだ。魔力ランプとふつうのランタンが複数設置されている。ベッド、間仕切り、机、椅子、チェスト、壁一面の本棚、ソファとテーブルが置かれても狭さを感じない。さらには、シャワールームが隣接している。
以前納屋で暮らしていたときは、藁にシーツをかぶせ、木箱を机代わりにしていた。そのほか、家庭菜園用の道具や桶や樽といったさまざまなものであふれていた。埃っぽく、床は砂まみれで、足を踏み入れたレファートが絶句していた。
住居の隣には研究棟が建築中だ。
「温室と畑も造るとか言っていたぞ」
「それだけじゃないわ。牧場と家畜小屋も造るんですって」
建材が山と積まれ、大勢の工人が働いている。槌が振るわれ、人声が飛び交い、そのほかの物がぶつかり合う音で騒々しい。すぐ隣の庭では、スライムがゆるゆると過ごしている。対照的な光景があった。
住居のほか、レファートが急がせたのは食事改善だ。
「パンが柔らかい!」
「俺たちが今まで食べていたのと同じパンだとは思えねえな」
「香辛料のせいかしら、このパンは変わった味がするわね」
「砂糖って黄金と同じくらい高いものなんじゃないの?」
「僕、この珍しい果物が入っているパンが好き」
「メイニはねえ、このみのやつ!」
パンひとつとっても大騒ぎだ。形も様々で目にも楽しい。
「王侯貴族だって食べられないんじゃないか」
「師が食べるものだ。当然だな」
チエムが冗談で言うのを、たまたま同席していたレファートが平然と受けた。子供たちの視線はその隣でいっしょに食事をとるアルノに注がれる。
「貴族も困窮する家門は多い」
レファートがアルノのために調達するものは食材にしろ衣服にしろ最上品質のものばかりだ。
ただ、どこからも不満が出ないのは、彼はアルノや自分だけが上質なものを得ようとしなかったからだ。子供たちにも等しく与えられた。食料の質向上のために惜しみなく高価な農具を貸与したのと同じだ。
「そりゃあ、うちの村の硬くて味気ないパンは食べにくいわけだ」
「町のパンだってこれに比べものにならない」
カレルとチエムはヨルグ町で会った商人フランクが言っていた「大学の食事とはこういうものだったのか」としみじみと思い返す。
そのフランクとは、レファートの部下として再会した。
資材を運んでくる一行の中にいたフランクはレファートにあれこれ報告し、いくつかの指示を受けた。その際、アルノたちに改めて挨拶し、買い取った薬のことについて触れた。
「だめですよ、あんなすごい薬をほいほい売っちゃあ。同業者に目をつけられてしまいます」
「レファートから差額を受け取ったよ。律儀だな。ありがとう」
「レファートさんはカトリエン商会みたいな商人一族のうちに生まれたのに、なんでまた学者になろうとしたんだろうな」
「金勘定をするのに学問なんかが必要になるか?」
フランクのことを認めているカレルとチエムは、その上司であるというレファートが学者だというのに首を傾げた。
「なるよ。たとえば、数学は「公平に分けるため」に発生した学問だ」
アルノが説明する。
容易に等分できれば簡単だが、たとえば、円を三等分するとき、一見して大きく見えても相手の取り分の方が大きいと不満が出ることがある。その際、明確な数字で示されたら納得もしやすい。
「では、それが五角形なら、あるいはいびつな円だったらどうなると思う?」
「五角形の三等分なんてできるか?」
アルノの問いにカレルが困惑する。
「できるさ。ふたつの円弧と直線で―――」
「ああ、いい、いい、難しい」
アルノが答えようとして、チエムがこれは理解が及ばないと即座にみなす。
「定規とコンパスによる作図や半円とふたつの線分を用いるんだ」
「それ、生物学なの?」
「いや、数学の領域だ」
ティコが小首を傾げ、アルノが答える。
「なんで数学に詳しいんだ? アルノは生物学をやっているんじゃないのかよ」
チエムが唇を尖らせる。
「世界はすべてつながっているからな。生物を知ろうと思うのなら、環境を知る必要がある。環境を知るには物理や数学を学んだ方が簡単だ」
「うへえ。なんでもかんでも知る必要があるんじゃないのか?」
「そうだよ」
アルノはあっさり肯定した。
植物から直接発見されず、植物を摂取した動物を調べることによって見出されたものもある。
世界はすべてつながっている。そのつながりの一端を感知して辿っていく。源泉にたどり着いてから、その発生の仕組みが判明する。
だから、一部だけを見てもわからないことはたくさんある。それで、アルノは広範囲にわたって知ろうとする。
「崖から落ちたときも終端速度を計算しようと思ったがうまくいかなかった」
アルノが言いさしてレファートは青ざめた。
「そんな高さから落ちたのですか!」
「いや、慌てていたんだ。それに、すぐそばに森があって、木々の梢で落下速度が落ちた。最終的にはスライムがクッションになって、擦り傷程度で済んだ」
「スライムがクッションになって……?」
「人よりもひと回り大きいスライムがいたんだ」
「それでスライムに興味を持たれたんですか?」
「違うよ。それは出会いに過ぎない」
アルノはリシェルたちに了承を取って、スライムから抽出される薬液のことを話した。
「「妖精の帽子」の薬液単離は器材がないと難しい。だが、スライムはそれをやってのけるんだ」
実験して見せる。レファートが持ち込んだ顕微鏡にエルミラが魔力を充填すると、より明瞭に視認することができた。
アルノの高揚を、レファートとエルミラも共有した。
「スライムは魔力循環量が多い」
血液循環のように、体内を魔力が循環する。それによってエネルギーが隅々に運ばれる。
スライムは他の魔物と比べても、この循環量が多い。だから、「核」に留まる量が少なく、よって「魔核」は小さい。
それまで知られることはなかったが、だから、スライムが体内に内包する魔力は強力な魔物と比べても遜色がない量を持っている。
にもかかわらず、なぜ、食物連鎖で最下位にあるのか。
「動作が遅いからだな」
動作が遅いから、獲物に逃げられやすく、捕食する確率が低くなる。
「こんな生物がいるなとは!」
「こんなに不思議な現象が存在するなんて!」
レファートとエルミラが新しい観察対象を得て、いつになく目を輝かせる。
訳の分からない機構を前に、解明しやろうという意気込みにわくわくする。
「スライムの体内に土があるんだ」
「土まで食べるのですか?」
「取り込んだ植物に付着していたのでは?」
ひとりの賢師とふたりの博師は各々の所見を述べた。
話し合ううちに、どんどん仮説が生まれていく。自分では思いつきもしなかった発想がいくつもある。その仮説をつなぎ合わせ、今わかっていることと照らし合わせ、矛盾を消し込み、さらに仮説の精度を高めていく。修正を重ねて正しい見解へ徐々に近づいていく。
それらを記述していく。そして、ひとつずつ検証していく。
レファートが手配したのは物資だけではなかった。
ほかの学者も続々と集まってきた。
「アルノ君がまたなにか新しいことを始めたってきいたから、面白そうだと思って」
「自分はエルミラ様のしもべですから」
「レファートさんがいたら、研究費用はおろか、生活費のことまで心配しなくていい」
すぐにアルノは学者たちに囲まれた。常に学者の誰かがいて、思いついた出来事を話し合う。
「抽出の段階でメタノールに定量したいものの標識体を内部標準物質として入れるんだ」
「どれそれをあれそれ化試薬と反応させて、揮発性の誘導体にしてから分析する」
見たことのない器材を用い、聞いたこともない素材を使用して実験を重ねる。
その様子を、離れたところでティコが服の裾を握りしめながら眺めていた。
「ちょっとさみしいわね」
リシェルが近づいてそっと言った。
「うん。アルノが遠い人になっちゃった」
ティコがオリーブ色の瞳を揺らしながら言うことがリシェルにもよくわかった。同じ気持ちだったからだ。
「ケンシっていうすごい称号を持っている学者さんだったんだね」
「そうね」
学問の世界においてアルノは尋常ではないことをやってのけるのも確かなのだろうが、生活の上ではうっかりでもあった。
子供たちに世話を焼かれるのは相変わらずである。だから、完全に違う世界の人だとは思いきれなかった。自分たちにも関わることができる人なのだと思ってしまう。
夢中になるとほかがおろそかになる。心血を注ぎこんでも素晴らしい発見はなまなかにできるものではない。
周囲は放っておけないのは、アルノが相手の気持ちを汲み取る人だからだとリシェルは思う。
唯一、メイニは大挙した学者に物おじせず、スライムについて問われるがままに答えている。
「メイニは大活躍ね。わたしも負けてはいられないわ」
ティコはアルノからリシェルへと視線を移した。リシェルは変わったのだと、ティコにも分かった。失意のうち学院から戻って、あきらめきれずにもがき続けていた心情から解き放たれたのだ。
「ティコも絵がうまいのだから、ノートにイラストを描いて。なるべく、精密に」
「うん!」
ティコにもできることがある。
リシェルはアルノが認めてくれたことがうれしかった。アルノは高度な学問に携わっているのに、拙いリシェルの研究を認めてくれたのだ。
恩ある村人たちの役に立ちたい、なのにそれができないという気持ちが根底にあった。村人に恩を返したいというのは本当だ。だが、学院の者たちを見返してやりたいという気持ちも、消しようがなくあったのだ。
スライムの有用性を見出し、その中心に自分を据えてくれたアルノに、リシェルは深く感謝するようになる。かけがえのない居場所を与えてくれたのだ。
「レファートさんって学者なの? 商人なの? どうしてこんなことができるお金があるの? 大商会の息子だから?」
エニーはレファートに並々ならぬ尊敬を抱くようになった。それは学者ではなく商人としてだ。
「わたしは学者であり商人でもある。それに、これらの掛りはわたしの懐だけから出しているのではない。師の発明によって商品化されたもののロイヤルティからも出している」
「そういうのがあるんなら―――、ううん、そういうものの管理はレファートさんに任せっきりなんでしょうね」
そうでなければ、スライムから得た薬を売ることもなかっただろう。
カレルとチエムは先の見えない生活が一転し、安心することができた。
カレルは建築に興味を持ち、休憩する工人を捕まえてはあれこれと話を聞いた。そんな姿を見て、チエムは自分はどうするかな、とのんびり考えた。
カレル以下の子供たちはスライムの面倒を見る大役を担った。村の雑用をさせてもらってなんとか糧を得ていた労多くて功少なしの生活が、目覚ましく一変する。
メイニ以外の子供も次第にスライムと心を交わすようになる。
生物学者は対象を観察することが多い。そのため、他者から見たら珍妙な振る舞いに見える。
ある者は猿を追い回し、ある者は草むらにひそんで鳥の生態を観察し、ある者は長時間動かずに昆虫の孵化を待ち、ある者は猛獣を撫でまわす。
「いや、最後のは絶対に危ないだろう」
「だが、俺たちは今まさに魔物のスライムを触っている」
最初は遠巻きにしていたカレルが思わず突っ込み、アルノがなにを今更と返す。
「魔物って言ってもほとんど害のない最弱スライムだからなあ」
「スライムも危険だぞ」
チエムをいさめるアルノは学者たちにも諄々に注意事項を説いた。学者たちはまず最もスライムと慣れ親しんだメイニの扱いを観察することにした。
ゆるゆる進むスライムを追うメイニの後ろを、学者たちがついて歩く
ちんまりしたスライム、小さな子供、そして、おじさんたちの行進である。
「シュールな光景だな」
「メイニ君、このスライムはなぜこんなにぷるぷる震えているんだい?」
「うーん、ちょっときいてみるね!」
修師の学者ピートが尋常ではないほど震えるスライムを差し出し、メイニがぺたりと手をのせる。
「えっ」
言葉にならない声を発したメイニは四角い顔の学者を見上げた。ピートは大柄だから、大分顔を傾けなければならない。
「どうだい? なんて言っていた?」
メイニは困った表情をした。
そして、周囲を見渡し、アルノが歩いているのを見つけて駆け寄る。アルノの袖を引いてかがませ、小声のつもりで内緒話をした。
「あのね、チュライムね、おじたんのこと、あんまりちゅきじゃないみたい。ちゃわられたくないんだって!」
話す本人は声を小さくしたつもりだが、いかんせん、幼児のすることだ。その声はその場にいたすべての人間に聞こえた。
「ぶっ」
「ぶはっ」
カレルとチエムが噴き出す。
「ちゅきじゃない……。ちゃわられたくない……」
ピートは茫然とメイニの言葉を繰り返す。
「おじさん、なんで正確に再現するんだよ」
「おじさんが子供の言葉を使うのって、ヘン!」
カレルが顔をしかめ、チエムが鼻で笑う。ふだんはピートの名前を呼ぶのに、ここぞとばかりにおじさん呼びをする。三十代後半のピートは子供らからすれば十分におじさんである。
「どうしてなんだ! アルノ君が触ってもおとなしくしているじゃないか!」
「そりゃあ、ほら、あれだ。動物って暑苦しい人間を嫌うもんだろう?」
「メイニに教わったら?」
我を取り戻したピートは地団駄を踏む勢いで言い、カレルとチエムが答える。
「メイニは大人になったわね。ピートさんにそのまま告げずにアルノにこっそり言いに行くなんて。それに比べてカレルとチエムは進歩がないわね」
エニーが一連の出来事を眺めて腕組みをしながら見解を述べる。
七歳児が三歳児に言うことかとか、さしてこっそりではなく筒抜けだとか、いい歳をした学者にはなにもないのかとか、大いに突っ込みどころがあるものの、それもいつもの光景となりつつあった。
「定規とコンパスによる作図は「ネウシス作図」、半円とふたつの線分は「トマホーク(幾何学)」のことだよ」
「わー、よくわかんないけど、すごーい」
「すらりん、かしこいねー」
「ねー、ものしりー」
「ぶたれた、ぶたれたよ、ぷるぷるぷる」
「おおきなにんげんにぱちんって。ぷるぷるぷる」
「いたかった。ぷるぷるぷる」
「こわかったよ、ぷるぷるぷる」
「ぶたれていないけど、ぷるぷるぷる」
「いっしょに、ぷるぷるぷる」
「ついでに、ぷるぷるぷる」
「なにはともあれ、ぷるぷるぷる」
「とりあえず、ぷるぷるぷる」




