旅立ち 3
根尾は柔らかい栗色の髪をクシャっと掻き上げて、少し照れたように俺を見た。
「今日は客が多い日だな。さっき静香が押しかけてきたと思ったら、今度は君か。恋路の邪魔をしたくなかったから黙って消えようと思ってたのに・・・今、引越しの最中なんだよ。聞いたかもしれないけど、病院も辞めて、まさに楽園を追われたアダムの心境だ。ま、入れよ。何にもないけど」
根尾の後ろについて、俺は見覚えのある造りの部屋の中に足を踏み入れる。
しずかちゃんの言った通り、本当に引越しの準備をしていたらしい部屋には積まれたダンボール箱の山と質素なパイプベッドがあるだけだった。
そのパイプベッドに俺達は並んで腰を下ろした。
「本当に何にもないじゃん。お茶くらい出してくれないのかよ?」
ガランとした白い部屋を見回して、俺がブツブツ言うと、根尾はベッドの下に無造作に置かれたコンビニのビニール袋を差し出した。
「コーヒーを入れようにもカップを片付けてしまった。これでも飲んでくれ。最近、僕もアルコールに手を出すようになってね・・・」
物憂げに溜息をつく根尾はカッコ良かったんだけど、袋の中身は桃チューハイだのカシスソーダだのジュースとさして変らない缶ばっかりで、相変わらずの下戸ぶりに俺は苦笑した。
せっかく勧めてくれたのでビニール袋の中身を物色すると、なんとタバコの箱まで入っている。
今更、チョイ悪中年にイメチェンするつもりか?
「根尾さん、あんた、タバコ吸ったっけ?」
「いや、君が吸ってるのを思い出して、吸ってみようかと思ったんだ。丁度良かった。どうやって吸ったらいいんだ、これ?」
どういう心境の変化か知らないが、色々チャレンジしている根尾がかわいくなって、俺は箱から一本出して、彼の口に咥えさせてやる。
ビニール袋に一緒に入ってた安っぽいライターで火を点けるが、吸ってないので点火しない。
「吸わないと点かないよ?」
俺の言葉を聞いて、根尾は思いっきり煙を吸い込むと、お約束どおり、むせ返ってゲホゲホ咳き込んだ。
中学生かよ・・・。
デジャブーのようなシチュエーションに、俺はあの日のウサギを思い出した。
「・・・僕には向いてないことが分かったよ。これに味を感じることはできなさそうだ。残りは君にやるよ」
目に涙を浮かべて、根尾は吸いかけのタバコを俺に返す。
愛煙家だった俺は反射的に口にもっていったが、何とか思い留まった。
無意識に咥えてしまう前に、玄関のすぐ横に設置された台所のシンクに放り込む。
ジュっと小さな音を立てて、シンクの中から細い煙が上った。
「ダメだよ。俺、もうタバコは一生禁止だって。肺が人より機能しなくなったからね」
「・・・それは良かった。益々、僕好みだな」
可哀相に、なんて言われるとは思ってなかったけど、根尾らしい返事に、俺は寧ろ嬉しくなった。
隣に座った根尾に少し体を寄せる。
根尾は反応もしなかったけど、拒否もしなかった。
お互い前を向いたままの姿勢で、根尾は話し始めた。
「岸上君、僕の事はもう気にしなくていい。結婚もしたんだし、君は静香と詩織ちゃんと仲良く暮らせばいいんだ。彼女がフルに働いて、君が専業主夫になればいいだろう。静香には君が必要だよ」
「あんたは? しずかちゃんには詩織ちゃんがいる。でも、あんたは誰もいないだろう?」
「・・・それは同情か?」
弱気な笑みを浮かべて、根尾は俺を見た。
同情じゃない。
俺はあんたと離れたくないんだ。
認めたくないけど。
「根尾さん、エデン計画はまだ終わってないだろ? あんたの奥さんは亡くなって、詩織ちゃんは肺をゲットしたけど、俺の角膜はどうなるんだよ? これで終わったら、俺だけ骨折り損じゃないか」
素直に自分の気持ちを言うのが悔しかった俺は、言い訳がましく責めてみる。
文字通り、腕まで脱臼したんだから、寧ろ正当な言い分だ。
根尾はその言い分を聞いてクスクス笑った。
「確かに、君だけは踏んだり蹴ったりだったね。申し訳ないよ。でも、あげたくても僕の角膜は君に適合しないよ。僕だって結局、何も得られなかったんだしね。それとも、また自殺ツアーを敢行するかい?」
「・・・それは、もういいよ。また怖気づいて裏切ったら、今度こそあんたに殺されそうだからな」
「そうだね。じゃ、僕はどうしたらいい?」
根尾の問いに俺は小さな声で返事をした。
「・・・俺を連れてってよ。あんたと一緒に。どこに行くのかは聞かないから・・・」
その言葉に根尾は優しく笑って、俺の肩をポンと叩いた。
「悪いけど、それはできないな。僕は今、前向きな行動ができそうにないんでね。正直に言うよ。この荷物は僕の実家に送ることになってるんだ。その後は向こうで始末してもらえるようにね。でも、僕はそこにはもう帰るつもりはないんだ」
「・・・楽園に行くつもり?」
俺の突っ込みに、彼は頷いた。
「そう考えてる事は否定しないよ。だから、君を連れて行く訳にはいかないんだ。君には静香がいるんだから」
「だったら、尚更、ついて行くよ。俺がいるところはしずかちゃんがすぐに分かるからな。俺が一緒にいれば、あんたの死体の回収も楽だ。それに俺が一緒に死んだら、身元の確認も簡単だよ」
腕まくりして、俺は腕の刺青を見せてからニヤっと笑った。
根尾はしばらく沈黙して俺を見てたけど、やがて、俺の肩に腕を回してグっと引き寄せた。
いつものマリン系のコロンの香りがフワリと鼻を掠める。
「・・・後悔するなよ?」
「しないよ。俺達は一蓮托生、運命共同体だろ?」
「・・・そうだったな」
低い声で笑ってから、突然、根尾は勢いよく立ち上がると腕を伸ばして伸びをした。
何か吹っ切れたようなさっぱりした表情で、俺を見下ろしてニッコリ笑う。
ウェーブのかかった栗色の髪に縁取られた白い顔は、地上に降りた大天使みたいに神々しい。
「最終目的地はエデンとしても、取り合えず、どこに行きたい? 付き合ってもらうお礼に、君に選択権をあげよう」
「じゃ、九州」
即答した俺に根尾はキョトンとして首を傾げる。
「どうして?」
「前に言ってただろ? 九州から南の人は死なないって。あんたもそこに行ったら気が変るかもしれないじゃん?」
俺もニヤリと笑って立ち上がると、拳でヤツの腹に軽いジャブを入れる。
一瞬、根尾がウっと呻き声を出した。
「そう簡単には逝かせないよ。俺がついてる限りね」
「・・・勝手にしろ」
その顔は見えなかったけど、ヤツには珍しく感動してるらしい。
ぶっきらぼうにそう言って、腹に入った俺の拳をぐいっと掴んで振り払うと、くるりと背をむけて玄関に向かって歩き出す。
俺も慌てて後に続いた。
「ここには明日までいられるからな。メシでも食いに行こうか・・・ところで、岸上君の下の名前は何だ?」
・・・今更かよ?
突然の問いに、聞かれた俺の方が呆気にとられた。
そう言えば、名前を聞かれた覚えもないけど、名乗った記憶もない。
自分に関係ないことには無頓着な根尾らしいと言えなくもない。
俺は呆れて苦笑いした。
「・・・大した名前じゃない。死神って呼べよ。あんたが楽園に行くまで付きまとってやるから」
玄関のドアを開くと、外は既に降り積もった雪で様変わりしていた。
雪の降りしきる白い街に向かって、俺達は並んで歩き出した。
Fin.
長い間、お付き合い頂きましてありがとうございます。
楽しんで頂けましたら幸いです。