リディア・セイドンの憂鬱 上
『あなた如きが、由緒正しきカドリック侯爵家の跡取りであるウェイバー様にふさわしいとでもお思いですか?』
―――違う。
『ああ、なんて汚らわしいの。さすがは下賤な母親から産まれただけのことはありますね』
―――違う!違うわ。
『目障りな女がいるの。』
―――だめよ!やめてっ。
『メアリー・ブランドを消して下さい』
―――やめて!やめて‼︎‼︎こんなの私じゃない‼︎‼︎私じゃないわ‼︎‼︎‼︎
「―――はぁっ、はぁ、はっ」
汗でじっとりとした額に冷え切った手を当てて、荒れた呼吸をどうにか整えようと深呼吸をします。
「大丈夫、大丈夫よ。だって私は何もしてないもの」
誰に言うわけでもない独言は静かな暗闇に飲み込まれ、震える体を自分できつく抱きしめました。
『君にはほとほと愛想が尽きた。彼女が君に一体何をした?ああ、本当に残念だよ。君がここまで愚かだったとはね。リディア』
愛しい澄んだ濃紺の瞳は拒絶に目を細め、耳心地の良かった甘いテノールが静かに私を凶弾する声が頭に響いてくる。
『なんて醜いのだろうね?リディア。そんな可愛い顔をして、他人の同情を誘って……裏で君は何をしていたんだい?僕が知らないとでも思った?愚鈍な君を酷く軽蔑するよ。もう、僕や彼女の前に現れないでくれ……と、言ってもそんなことは今後できないだろうけどね。君はもう伯爵令嬢ではないのだから』
―――っ違う、違うの!あの私はただ、ただ貴方を
「愛していた。ただ、深く愛していただけだったの」
***
ことの発端は、メアリー・ブランド男爵令嬢の夜会デビューまで遡ります。彼女を見て、その瞳を愛欲の色で染めた私の婚約者――ウェイバー・カドリック様。その横顔を見た瞬間、私の頭の中は大きく揺さぶられ、前世の記憶を思い出したのです。
最初は信じられなかったけれど、次第に私は受け止めることにしました。前世の記憶とはいえぼんやりとしたものですが、これだけははっきりと思い出すことが出来ました。
この世界は、とある乙女ゲームなるものとそっくりだったのです。
ヒロインであるメアリー・ブランドと有力貴族の方々との身分差を超えた純愛ラブストーリー。その中の私の役所は悪役令嬢と言うらしく、ゲームでの【リディア・セイドン】は一言で申しますと、最悪の悪女でした。
目の前でウェイバー様と距離を縮めていくヒロインに対し、嫉妬しそして憎悪を滾らせ、彼に忠告するどころか、彼に気づかれないように……口に出すのも憚れる悪事を働くのです。その時の表情と言ったら……恐ろしくて私は衝撃を受けました。
あり得るかもしれない未来に、私は恐怖し、ウェイバー様と距離を取りました。そう、私は逃げたのです。
それも、自分では仕方のないことだと思います。ヒロインに汚い言葉を浴びせ、悪事を働く醜い悪女の私にはなりたくなかった。そして、愛する彼に軽蔑されるくらいなら、何もしないでただ見ているだけの方が気持ちは楽でした。だって、起こる未来は全て知っていましたから……。
ずるい私は、淑女の会の皆様に到底顔向けできないのですが、それでも縁がほしかった。やはり、私はあの私と同じでずるく醜い心の持ち主なのです。
もし、前世の記憶を思い出さなければあのゲームのように悪女リディア・セイドンになっていたことでしょう。
「それでも、もう……」
限界、間際でした。
紳士的で、博識なウェイバー様。
いつも優しかったウェイバー様。私に触れる時はガラス細工を触るかの如く丁寧で、その繊細な手つきにいつもドキドキしていました。
あまり、表情を変えることはありませんでしたが、時折見せてくれる小さな笑顔が私は大好きでした。
幼い頃からお父様に憧れ、ウェイバー様がたくさん努力をしていたところを私は見てきました。
いつもは澄んだ濃紺が、キラキラと満天の星空のように輝かせながら、将来を語る彼の顔が私は大好きだった。
―――そして私は、近い将来現宰相であるカドリック侯爵当主様のお仕事を彼が受け継ぐことを知っている。
逞しく、凛々しく、仕事をするウェイバー様。その横には私ではない彼女に微笑んでいるけれど、彼が長年の夢を叶えた姿を鮮明に思い描けたことこそが私の心の大きな支えでした。
「さようなら……ウェイバー様」
私は、記憶を取り戻し自分の中で折り合いをつけてから、毎日眠る前に大好きだった彼に別れを告げています。
いつか、しっかり別れを告げられるようにと。せめて、笑顔で別れられるようにと。
その時は……もうすぐ近くまで迫ってきています。
「【リディア・セイドン】の断罪まであと……」
きっと、その日が彼と私のお別れの日になるのでしょうね。
またあした




