リチャード・サクシスの覚醒
俺は、何をしていたんだ。
まるで、鈍器で頭を殴られたような衝撃に上手く思考が回らない。
いや、正確には殴られてはいるのだが……頭ではなく顔面を。それはもう渾身の一撃を喰らって、騎士として恥ずかしながらも芝生に転がっている自分は酷く滑稽でしかなかった。
令嬢らしかぬお転婆な婚約者は、俺の上で馬乗りになって両拳で胸を叩きつけてくる。
その、顔のなんと痛々しいことか。
本来のヴェネットは、泣いたりするような人ではなかった。基本的に楽観的というか、あまり細かいことを気にしない性格からか悩む事すら少ない。大抵、朗らかに笑っていて緑がよく似合う太陽のような明るい人だった。
ボロボロと、音が聞こえてきそうなほど泣き続けるヴェネット。初めて見る悲痛なその表情に、俺の胸はズクリと疼く。
「ど、どぉしてぇ?どぉしてこうなっちゃったのぉ?」
すまない、自分でも意味が分からないんだ。どうして一番大切な存在である君に今まで不逞な扱いをし続けてしまったのか……それでもつい先ほどまで、それが当たり前で絶対だと思っていた。それに気付いた俺は酷く不可思議で、説明のつかない状況に名前のない恐怖がそっと背中を撫でる。
もう、なんと言えばいいのか。なんと言ったところで言い訳がましくなってしまう気がして、俺は二の句を告げないでいた。
「うわぁーーーん‼︎‼︎‼︎」
黙りこくっていた俺に何を思ったのか、ヴェネットは絶望を滲ませた瞳を痛そうに細めて、より一層大きな声で泣きじゃくる。
―――ああ、すまない。ごめん、ごめんなヴェティ。
そんな顔を俺がさせてしまった。世界一笑顔が似合う君なのに。
もう、ほぼ衝動的だった。
腹筋だけで勢いよく起き上がると、随分と差がついてしまった体格差を目の当たりにし胸が一際痛み出す。
―――俺は何を……何をやっていたんだ!ヴェネットはこんなにも弱々しい女性なのに!
細い肩を痛ましいくらいに震えさせるヴェネットを覆うように抱きしめ、その柔らかい髪に頬を寄せた。
「すまなかった、ヴェティ。本当に、すまなかった……っ」
ビクン、と肩を揺らし泣き腫らしたヴェネットは、恐る恐る顔を上げる。充血したチョコレート色の瞳を見た瞬間のこの気持ちはどう表現したらいいのか分からない。
「ああ、こんなに……っ、こんなになるまで君を傷つけてしまった」
加害者である俺が、彼女に何を言えるだろうか。
「ごめん、ヴェティ。ごめん。君を泣かせてしまった」
もう、謝ることしかできなくて情けない自分に吐き気がした。
どうして、一瞬でもおかしいと思わなかった。たかだか一年共にしただけの女に寄り添って、一緒に成長しながら、愛しい日々を過ごしてきたヴェネットを蔑ろにするなんておかしいにも程があるじゃないか。
昔から、誰に対しても分け隔てなく正義感の強いヴェネットは良い意味でも悪い意味でも、よく慕われる。彼女に気づかれないように細心の注意を払って周りの男どもを牽制してきたのに、大事に大事に守ってきたと言うのに。まさか、俺自身がヴェネットを傷つけるとは思ってもみなかった。
「――っ、ヴェティ。傷がついてしまったね」
ふと、彼女の手を見れば俺の顔を手加減なしで思い切り殴ったからだろう。血が滲んでいた。
傷口に触れないよう、手の甲を指で撫で呆然としたままのヴェネットのつむじにキスを落とす。
「リ……チャー、ド?」
「なんだい?ヴェティ」
「……リチャード?」
「そうだよ?どうしたの?」
俺の目を真っ直ぐ見つめたヴェネットは、次の瞬間くしゃりと笑った。
「リ、リチャードだぁ」
「――っ、ヴェティ!」
もはやすがりつくように彼女を掻き抱くと、くぐもった声がしきりに俺の名前を呼んでくる。
「うん、俺だ。俺だよ。リチャードだ」
「う、うぇっもう、もうっダメかと思ったぁ」
ヴェネットの嗚咽が漏れるたび、囲う腕に力を込めて彼女のおかげで間に合ったことに酷く安堵する。
数分後、少しだけ落ち着いたヴェネットは背中に回していた手で俺を叩くので、腕の力を抜いてやると、顔色を悪くした彼女と目があった。
「……?どうした?ヴェティ?」
「リチャード、ごめん」
彼女の謝罪にサッと血の気が引いて、ありとあらゆる最悪の状況が目に浮かぶ。
もはや絶望の縁に立たされていた俺の頬に、ヴェネットの暖かい両手がふわりと添えられ現実逃避をしかけた俺は我に帰る。
「痛かったよね?」
ああ、なんで君はそんなに優しいんだ。
ヴェネットだって、いやヴェネットの方が痛いはずなのにこんな俺を心配してくれるなんて……
「……君は天使か」
「――⁉︎はぁ‼︎⁉︎」
「ああ、いや、俺は腐っても騎士だから……これでも鍛えてるし。ヴェティの方が痛かったろ?もう、本当に謝っても謝りきれなっ……フェヒィはにふるんあ」
添えられていた華奢な手にギュッと顔を挟まれ、不格好な顔になっているだろう。ただでさえ情けない顔をしていただろうから、今更どうでもいいけど。
「もういいよ。リチャードが戻ってきてくれたなら後はどうでもいい」
ああ、やっぱり俺のヴェネットは天使だ。
感極まった俺は細い腰を勢いよく引き、ヴェネットの柔らかい唇へキスをする。
軽く離しては、すり合わせるように彼女のふっくらとした唇を味わい、最後にわざとらしく音を立てて離れると顔を真っ赤にしたヴェネットは食べてしまいたいくらい可愛かった。
「リッリッリッ‼︎‼︎リチャーっんぐ」
もう一度、彼女の唇を奪って先ほどよりも深く堪能すると息も絶え絶えにくったりとしたヴェネットを抱き寄せて、彼女の頭に顎を乗せる。
―――しっかし、なんだったんだ。この一年間は。
まるで、夢を見ていたように記憶は朧気で、正確に思い出そうとしても霞が邪魔をする。
あの男爵令嬢には絶対に、何かある。
帰ったら、少し調べないといけないな。
次回から主人公が変わります。




