ヴェネット・ラクウェルの憂鬱 下
一言で言うなら夜会は最っっっっ悪だった。
終始メアリー・ブランド男爵令嬢につきっきりで、だらしなく鼻の下を伸ばしたリチャードの横っ面を思いっきりぶん殴りたい衝動に駆られながらも、なんとか今回も我慢した私は褒め称えてくれてもいいくらい偉いと自分でも思う。
まあ、今年の社交シーズンも昨夜の夜会で幕を閉じたわけだからこれで当分は憎きメアリー・ブランド男爵令嬢も、アホ面晒したバカリチャードも見なくていいと思うとちょっぴり清々する。
とはいえ、今日はアニエス様主催の淑女の会だ。領地へ帰る前に仲間に会える喜びから、落ち切った気分も少しだけ浮上してくるから本当にありがたい。
アニエス様もオルティナ様も私みたいな田舎貴族に比べたら超超超ご貴族様で、系統は全く違うけどお二人とも超超超超お美しい方々なのにも関わらず、気取ることなく優しい素敵な方なんだ。
同家格のリディアも少し控えめなところがあるけれど、すっごく可愛らしくてウサギみたいで守ってあげたくなるようなThe女の子!って感じの子。
みんな、とっても素敵な人たちなのに。
―――それなのに、こんな顔をさせる男どももメアリー・ブランド男爵令嬢も許せない。
アニエス様もオルティナ様もリディアもみーんな綺麗な顔を悲しいって歪ませてる。それもこれもあのメアリー・ブランド男爵令嬢のせいだ。
一年半ほど前、ブランド男爵が庶子を引き取ったのは有名な話で、社交界最後の王宮での夜会っていう中途半端な時期に彼女は社交デビューを果たした。
確かに、見た目も愛らしく貴族令嬢にはない愛嬌があって、物珍しさもあったんだと思う。けど、それにしたってたった一目見ただけでリチャード含め、お三方の婚約者達のメアリー・ブランド男爵令嬢への熱の入りようはもはや異常だった。
まるで魔法にでもかかったようにのめり込み、意地悪だけど優しかったリチャードは今は見る影もない。
ほんの一年前の話なのに、仲の良かった頃がずいぶん昔なんじゃないかって思うくらい冷遇されてて、やさしい色合いのペリドットの瞳は冷たく見下すように私を見るし、低く心地よかったはずの声も、騎士として鍛えられた大きなたくましい体も、敵意を向けられている今は、ただ隣にいるだけで怖くて仕方なかった。
恐らく、今年最後の淑女の会でアニエス様が徐に「これ以上は」と口にした。
私も我慢の限界だったんだ。そんなに耐え症のない人間だから、むしろよくここまでもったものだと自分で自分を称賛してるくらいだ。
――よし、領地に帰る前にリチャードを呼び出して一発殴ってやろう。
そう、私は心に決めて淑女の会を後にした。
***
とはいえ、とはいえだ。
長年培ってきた信頼と愛情がたった一瞬でパァになってしまうんじゃないかと、私は怯えている。いや、信頼なんかほぼ底辺に近いんだけど。
ああでもない、こうでもないと何度も何度も書き直した手紙は結局当たり障りのない文章で、あまりの情けなさに自分を殴りたくなった。
さすがのリチャードも、大した理由もないのにこの長年続いた婚約をおじゃんにするなんていう短絡的な考えはないだろうと思う……いや、思いたいけれど不安で不安で仕方なくて、手紙を出した日は寝ずに朝を迎えた。
返事はすぐに届いて、腹立たしいことに「可」の一文字。絶対殴る。あの澄ました顔をぶん殴ってやる。
うだうだうだうだしながら過ごした二日間は長いようで短くて、きっとため息は通算一万回を裕に超えただろう。
「ヴェネット様、リチャード様がお見えです」
ああ、来た。来てしまった。いや、私が呼んだんだけど。
「彼をテラスへ案内して。大事な話があるから、お茶を出したら下がって欲しいの」
「……ええ、かしこまりました」
バトラーの顔には、分かりやすく不安と書かれている。あら気が合うわね、私も同じ気持ちよ。なんて。
一度深呼吸をして、急ぎ、階下へ向かう。私の姿が見えてもリチャードは立って迎えることもなく、婚約者が目の前にいるにも関わらず椅子をバトラーに引いてもらうという屈辱を受けたけれど、今はそれどころじゃない。
「ごめんなさいね、お呼び立てしてしまって」
私はいつからリチャード相手に、ただの令嬢でいるようになったんだろう。
緊張からかどんどん脈は早くなり、喉が乾いて仕方ない。
「お話があ――」
「ヴェネット・ラクウェル」
無関心な低い声が私の名前を久しぶりに呼んで、私の目はハッとまあるく開く。
「は、はい」
勝手に強張った肩が痛いくらい吊り上がって、震え出すのをどうにか耐えることで精一杯だった。
「お前との婚約を破棄したい」
一瞬、何を言われたか分からなかった。
それどころか呼吸すら止まりそうになって、膝上に握りしめた掌に爪が食い込んで痛い。
「っは、はい?」
「だから、婚約を破棄したいと言ったんだ」
抑えきれなくなった震えのせいで、声が悲しいくらいに情けない。
「俺はどんな形であれ、メアリーを守りたいと思っている。そのためには、お前が邪魔なんだ」
なんだ、それ。
なんだそれ……なんだそれ、なんだそれ、なんだそれなんだそれなんだそれ――っなんっだそれ‼︎‼︎‼︎
いつかの、青々とした野原が、かくれんぼをした森が、遊び歩いた互いの領地が、遠乗りをした澄んだ湖が、リチャードと行ったいろんな場所、いろんな思い出が走馬灯みたいに頭の中を駆け巡って、鼻の奥がツンと痛んだ。
「こちらから勝手に申し出たんだ、貴族社会でのお前の立場が悪くならないよう最善を尽くそう」
なんだそれ。なんなんだよ。言ったじゃん……ねぇ、リチャード。
『じゃじゃ馬のヴェネットは危なっかしいから、俺がずっとそばでついててやんねーとな。』
って、言ってたじゃん。
呆然とした私を気にするそぶりすら見せずに、出された茶すら飲まずに、リチャードは立ち上がる。
「もう今後、関わることもないだろう。今まで世話になったな」
遠ざかっていく足音、落胆して落ちる肩。
―――そして私の頭は急激に沸騰する。
勢いよく立ち上がり、走りにくいヒールを無造作に脱ぎ捨てて、怒り狂った私はがむしゃらに走り出す。
もう、どうせ婚約破棄をされるんだ。だったらどうでもいいじゃないか。
滲んだ視界でも、見慣れた背中を見失うはずもなく、追いついた私は全体重をかけ思いっきり襟を引っ張ってやった。
「―――なっ」
「リチャードのバカァーー‼︎‼︎‼︎」
それはもう素晴らしいほどの会心の一撃が、重心を崩したリチャードの顔面へ一直線に向かっていく。
ドゴォ‼︎‼︎と鈍い音とともに私の拳もひどく痛んだけれど、そんなの気にしてられるほど冷静ではなかった。
綺麗に倒れ込んだリチャードに追い討ちをかけるように、勢いよくのしかかり、力強く厚い胸板を両手で叩きつける。
「バカ!バカ!リチャードのバカ!嘘つき!バカ!浮気者ぉ‼︎‼︎」
頭に来て仕方ないのに、悲しくて、胸が痛くて、涙が止まらなくて。リチャードの隊服に沢山の染みを作っていく。
「や、っ約束、し、したのにぃ」
子供が駄々をこねるように情けなく、女々しくすがりつく。ああ、私はいつからこんな弱くなってしまったんだろうか。
昔から勝気で男勝りでお転婆のはずだったのに、この一年はちっとも私らしくなかった。私らしくできなかった。
どんなに話しかけても、言葉を返してくれなくて、冷たい目で見られるたびに心に亀裂が入っていく気がした。何か自分がリチャードに嫌われるようなことをしたんじゃないかって、考えたけど何も分からなかった。
いつも通りだったんだ。あの女が来る前までは。いつも通りの、優しい私のリチャードだったんだ。
「ど、どぉしてぇ?どぉしてこうなっちゃったのぉ?」
えぐえぐと、苦しいくらいえずき、力強く叩きつけていた拳は今や弱々しくリチャードの胸に落ちていくだけ。
「リチャード、リチャード、リチャードーーっ‼︎」
もう、ダメなんだろうか。
こんなになるなら、もっと素直になれば良かった。恥ずかしがってないで毎日リチャードに大好きだと、愛していると言えばよかった。
「うわぁーーーん‼︎‼︎‼︎」
もう、終いには自分でも意味が分からないくらい涙が出てきちゃって、泣くことに精一杯で言葉すら出てこない。
無言を貫くリチャードを見るのが怖くて、私は手で顔を覆う。
ああ、もうダメだ。もうダメなんだ。
またあした




