37:愛してる
「母さんッ!!」
僕の叫びは本来なら館中に響き渡るほどのものであったが、煙による喉の痛みと炎によって掻き消されてしまった。
僕は瓦礫の山を見上げる。3階に置いてあったソファや掛けてあった絵も積み重なっていた。
ゾンビの唸り声とジャラジャラと鎖の音だけの異様な静寂が訪れる。
「母さん………?」
僕はフラフラとした足取りで瓦礫の山へ近づいていくが、足元の木片で躓いてしまう。
そこに、思い出したかのようにゾンビが僕の足を掴む。
「おいッ!ボケっとしてんじゃねえぞッ!」
修也がゾンビの頭に刀を突き刺す。
「おい、透!」
僕は修也の方を見ずに立ちあがって走っていた。
そして瓦礫の山に突っ込んでいく。
しかしそれはびくともしなかった。3階の床から全てが崩れ落ちていたのだ。それだけで崩せる厚さじゃなかった。
僕は頭が真っ白になっているのを自覚していた。目の前の光景が、見えているようで見えていなかった。周囲の音が、聞こえているようで聞こえていなかった。ただ、信号として認識しているだけだった。それが何なのかは理解していなかった。
真っ白で、何も考えられないはずなのに、それを自覚していた。頭のどこかに冷静な部分があって、そこで自分自身を見ている感じだった。
僕は無意識のうちに瓦礫を一つ一つ崩していた。
修也やゾンビのことなど忘れていて、自分がどうしてこんな行動を取っているのかも分からなかった。
「透………」
小さな小さな、声が聞こえた。瓦礫の向こうから。それは実際にはさほど小さいわけでも無かったのかもしれない。しかし、複雑に閉ざされた空間に漏れる光のようにか細いものに、僕は聞こえた。
その光に縋りつくように僕は瓦礫の中へ突っ込むように手を伸ばす。木片で腕が切れたり刺さったりするが気にしなかった。
瓦礫の中で、何かが僕の手を掴んだ。何故かとても懐かしい気持ちにさせられるその温もりは、母の手だ。
「母さん………」
鎖の音が、だんだん近づいてくる。
自分の心臓の鼓動がやけに響いて聞こえる。
「透……」
修也はたった今自分が倒したゾンビの頭部を切断し、透に目を向けた。
どうすればいいのか分からなかった。
「母さん待ってて……今そっちにいくから………!」
透は刀で必死に木片などを斬っていた。瓦礫の中の手は、母の手をしっかりと握りしめたままだった。
「透……もういいのよ、逃げなさい………」
「え?」
鎖の音が、もうすぐ目の前から聞こえる。
「母さんを置いて逃げて…もうここは危ないわ……」
「何言ってんの…?今助けるから諦めないでよ!」
「いいのよ、透……立派な姿を見れて良かったわ…あんたが、母さんと父さんの分まで、陽菜を守って………」
「ね、ねぇ!なんでそんなこと言うの…!?」
鎖の音が、ぴたりと止まる。数秒して何か重いものが床から浮くようにギシ、と音がする。
母さんの手が、僕の手を強く握りしめた。震えてもいなかった。冷たくもなかった。ただ、温もりだけがそこにあった。
「透、陽菜……愛してる」
ヒュッと、息を吸うような音が聞こえ、次の瞬間にはメキメキと大きな音がした。床が割れる音だった。怪物があの巨大な斧を振り下ろしたことによる音に間違いなかった。
「母さん………!?」
返事はなかった。母の手は、まだ僕の手を握りしめたままだった。
その手の中の変わらない温もりには、何か決定的な欠落があった。何かは分からない、ただ確かに、何かが欠けていた。
永遠なんてないのよ。そんな声が頭に響く。
僕は膝から崩れ落ちた。明らかなる“生”の消失がそこにあった。ぽっかりと、巨大な空洞のように穴が空いた感じがした。
「透――」
修也はただ立ち尽くしているだけだった。
彼だけが、この空間で状況を理解していた。
透の母は死んだ。公園に転がる空き缶のように、その事実だけが、この空間に無責任に放置されていた。
「……………」
修也は瓦礫に手を突っ込んだままただ座り込んでいるだけの透に歩み寄って、刀を離していたもう片方の手を掴んだ。
「透……」
しかし、かけるべき言葉が見つからなかった。
もし俺が漫画や物語の登場人物なら、こういう時に励ましの言葉をかけることができるのに、と思った。すらすらと台詞が流れ出るはずなのに、と思った。
珍しいことではなかった。“死”というものは、今まで見てきたし、何人もの死に触れてきた。
こんな感情を抱くことなんて、ないはずだった。
「透…行こう………」
修也は自分が情けなく感じた。こんなことしか言えないのかと思った。
当然のように透は立たなかった。ただ、焦点の定まらない目でボーっとどこかを見ているだけだった。
「お前の母さんは、お前に“逃げて”と言って死んだ。お前がここで死んだら浮かばれないぞ」
軽すぎる言葉だった。もっともな言葉だが、それはありふれていて何の重みも無かった。
しかし透の目から一筋の涙が流れた。表情を全く変えないまま、どこかを見つめたまま、涙だけが流れていた。ようやく母の死を認識したようだった。
突然、瓦礫の中から巨大な斧が飛び出てきた。
怪物の標的はもう既に透たちになっているのだ。
「透……!」
透は動かない。仕方なく修也は透を抱えて走った。頭が割れるように痛むが、気にしていられなかった。
「お前は死なせない。俺が、必ず助ける」
修也は夢中で走る。前方に炎に包まれた扉がある。
修也はその扉を蹴り飛ばすと、玄関に出た。
あとほんの少しで、外に出られる――。
「俺だって、お前に守られてやんなくちゃいけねぇんだ……」
修也は荒い息で玄関の扉を開ける。
「しっかり生きろや――………」
冷たい空気が吹き付けるとともに、眩しい光が差し込んだ。
外に出た。
修也は一歩踏み出し、そのまま倒れた。
透は、修也にしがみついたまま、ただむせび泣いていた。




