3.新生活の始まり
「部屋を用意させよう」
そう言うとイオは呼び鈴を鳴らした。
ノックのあと入って来たのは、少年とも言えるような年頃の人だった。
「お呼びですか?」
「こちらは今日から滞留される客人だ。至急部屋を用意して案内を」
少年は悠里をみて、深々と会釈した。
慌てて会釈を返す悠里にニコリと微笑むと、「しばらくお待ちくださいね」と言って出て行った。
事情を聞かれなかったことに少し戸惑った。
「あれは私の近習だ。年の頃はユーリと同じくらいだろうから話し相手にするといい」
「何から何までお気遣いいただいて……」
恐縮する悠里にふっと口元を緩めると、イオはまた立ち上がり、今度は難しそうな分厚い本ばかりが並んでいる書棚へと向かう。
そこから一冊の小さめの本を手に取り戻って来た。
「これは私が幼少のころに使っていた辞書だ。持っているといい。何かの役に立つかもしれない」
「本当にありがとうございます!」
まるで賞状を授与されるときのように頭を下げながら辞書を受け取る。
「分からないことは聞くといい。と言っても、私はいないことの方が多いかもしれないが……」
「お前が困らないように人を手配してあげよう」ともイオは言った。
「あの」
「ん?」
「いきなり現れたわたしに、どうしてこんなに親切にしてくれるんですか?」
申し訳なく思うほどに。
するとイオは「それは追々話す」と悠里から視線を外してしまった。
「あ、大丈夫です。こうしてお世話になるだけでありがたいですから」
「そうか……」
イオの碧眼に浮かんだ何かを懐かしむような光。長い睫毛に縁どられた宝石のような瞳に、その光が一瞬だけ影を差した。
けれどその光は悠里が気に留める間もなく消えてしまった。
一度目を伏せ、また悠里に視線を戻したイオは、「部屋の用意ができるまでここで待っているといい」と言って席を立った。
執務机で書類を見始めたイオ。
彼も暇なわけではないのだ。
悠里はイオに借りた辞書に視線を落とし、ぱらぱらとめくってみた。
一つ一つの文字を識別することはできる。けれどその文字が単語になると意味が分からない。
(ウリエルさんに教えてもらったのになあ)
あれほど親身になってくれたのに、本当に申し訳なく思う。
(心配しているだろうなあ)
優しすぎるくらいに優しい人だから。
ひょっとすると、ウリエルやアシュラムも帝国に転移してしまったということはないだろうか。
辞書を眺めていると、ふとそんな考えが浮かんできた。
そうなら、ここにいる間に会えるかも知れない。
それを確認するためにも、とにかく一度手紙を出してみよう。
いつ届くかもわからない手紙だったけれど。
やってみなくては分からない。
そんな物思いにふける悠里を、イオはそっと見つめていた。
「こちらがユーリさまのお部屋になります」
先程の近習少年が案内してくれたのは、イオの部屋からそう離れていない部屋だった。
重厚な扉を開けて中に入れば、豪華な調度類が迎えてくれた。
きっと客室として、いつも整理されている部屋なのだろう。
「こ、こんな素敵なお部屋、わたし使っていいんでしょうか?」
そう言うと、近習少年は小首を傾げた。
「ユーリさまは旦那さまのお客さまですもの」
にっこり笑う少年の、あまりの天使ぶりに度肝を抜かれる。
初めて会った時から可愛らしい少年だとは思っていたが、どうやら本当の天使だったらしい。
栗色の柔らかそうな髪と透き通るような白い肌が、天使感をいっそう引き立てていた。
まさに眼福であった。
「こちらのものは全部遠慮なくお使いくださいね」
そう言いながら、天使少年は部屋を案内してくれる。
ひとりでは使うのがもったいないほどに広い部屋だった。
応接間のような部屋を中心に、左右に一部屋ずつ。さらに細い通路を抜けると浴室とトイレ。
「えっと……ここは、わたしだけが使うんですか?」と思わず確認してしまったくらいだ。
すると、天使少年はまた小首を傾げた。そして、天使の微笑み。
「ええ、もちろん。そうですよ」
少年の微笑みに内心ドキドキしながら頷く。
それはそうだ。まさか公爵さまのお屋敷でルームシェアなんてあるはずない。
「こちらがクローゼットですが、ユーリさまはお荷物はお持ちではないのですか?」
なんと、右側の部屋だと思っていたのはクローゼットだった。ウオークイン過ぎるクローゼットである。
けれど、悠里はそれに突っ込むことができなかった。
(あれ、わたし、リュックどうしたっけ?)
いつこちらの世界に帰ってもいいようにと背中に背負っていた小さなリュック。
家庭菜園のための種や女性として必要なものをもろもろ詰め込んで、パンパンになっていたリュックだ。
(たしか、花火を見に出た時にもちゃんと背負ってたはず)
思い返そうとするが、修羅場だのなんだのの記憶の方が鮮明で、いまいち確信が持てない。
「どうしよう……あれがないと、わたし……」
アシュラムに召喚されてこちらの世界にやって来た当初は、ショックのせいか、ストレスのせいか、生理が止まってしまったから困ることはなかった。
けれど、いつまた再開するかもしれないと、数か月はもつくらいのナプキンも入れていたのだ。
こちらにナプキンはあるんだろうか。
コウメさまに聞いておけばよかった。
とてもじゃないが、天使少年に聞く気にはなれない。
「では、旦那さまに伺ってみましょう」
何かを察したらしい天使少年はそう言うと部屋を出て行った。
見送った悠里は一つ大きく息をついて、大きな窓へと近寄った。
「うわあ」
窓の外には美しい景色が広がっていた。
この屋敷は少し小高い場所にあるのか、花が咲き乱れる庭園の向こうに、街並みが広がっているのを見下ろすことができた。
屋根にふいてあるオレンジ色のレンガが、沈みゆく日の光を受けて輝いている。
「王国の景色とは全然違う」
帝国には暗いとか怖いとかそんなイメージを抱いていたが、この景色を見る限り、そのイメージを払拭するには十分だった。
美しく、豊かな帝国。
この景色をウリエルたちが見たら、どう感じるだろう。
物思いにふけっていると、トントンと扉がノックされ、天使少年が戻って来た。
「ありましたよ、ユーリさま」
「え、ほんと?」
ほっとしながらリュックを受け取る。
中身を確認すると、入れた時のまま、何もなくなっていない。
「良かった……。ありがとう」
「いえ。旦那さまが保管されていましたから」
「そっか」
それからもう数点注意事項を言うと、「夕食の時にまた来る」と言い置いて、天使少年は出て行った。
一人になると悠里は一気に疲れが押し寄せて、側にあった安楽椅子に身を投げ出してしまった。
「こういうの、一難去ってまた一難て言うのかな?」
一人になれば余計なことを考えてしまう。
いつも、どこかの歯車が狂ってしまう自分の人生。
順風満帆に行ったためしがない。
「まさか、帝国に来ちゃうなんてな~」
王国に戻ったら、すぐにでもトーサ村の菜園に行こうとか考えていたのに。
アルは元気だろうか?
菜園を任せっぱなしにしている。
心配事はたくさんあるのに、心配するだけで、悠里にはなす術がなかった。
目をつむると、途端に眠気が襲ってくる。
(疲れてるな、わたし……)
そう思う間もなく、悠里は眠りに落ちた。




