9.タイムリミットは刻々と……
目を開けると、まずアシュラムの顔があった。
美貌を心配そうに曇らせている。
何か言いたくて唇を動かしたけど、声が出なかった。
「無理しなくていいよ」
ちょっとホッとした顔で、アシュラムはペットボトルを差し出した。
「水飲みなさい」
頭の下に差し入れられたアシュラムの手に支えられながら、ペットボトルに口を付けた。
冷えた水が渇いた喉に落ちていく。
コクコクと悠里は勢いよく水を飲んだ。
「良かった。飲めるなら大丈夫だね」
そこでようやく顔を明るくして、アシュラムは微笑んだ。
「わたし……」
「たまたま他のお客さんが見つけてくれたから良かったけど、発見が遅れたら溺れていたかもしれないよ。あんまり僕の寿命を縮めるようなことしないでほしいな」
アシュラムはふふふと笑って、悠里の頭を撫でてくれた。
「ツグミとウリエル、あっちの部屋で話してるんだ。呼んで来るよ。……ユーリ、どうしたの?」
「ごめんなさい……」
目尻から涙が流れると、あとからあとから溢れて止まらなくなった。
「どこか痛む?気分が悪い?」
「そうじゃない。そうじゃないんだけど」
余程詩織に言われたことがこたえているみたいだ。
悠里史上一番のへこみ具合だった。
「シオリに何か言われた?」
「……」
「どうも、あの子は気に入らなかったんだ。ユーリを見る目が気に入らなかった。僕の大切な人を泣かせるなんて許せないな」
「……わたし」
「うん?」
「今心の中がぐちゃぐちゃで……」
「うん」
「ごめんなさい」
消え入りそうな悠里の声に、アシュラムは眉根を寄せた。
「いいよ。大丈夫。僕がぐちゃぐちゃだった時、僕を助けてくれたのはユーリだったよ。だから、大丈夫。僕はユーリがどんなにぐちゃぐちゃになっても、ユーリの側にいるから」
「ふえ……」
そうして泣いている間中、アシュラムは悠里の頭を撫で続けた。
暖かいアシュラムの手に撫でられているうちに、悠里は泣きながら眠ってしまった。
目尻から流れた涙を拭いてやる。
「早く、あっちに帰りたくなるね……」
禁呪魔法が再びあちらへの転移を発動させるのはいつになるのか。
それは術者のアシュラムにも分からない。
その時をただ待つしかなかった。
「君が傷付くのはイヤだな……」
なお睫毛の間に涙をたたえている悠里の頬をそっと撫でた。
ぴくりと睫毛が動き、涙が一粒零れ落ちた。
それに誘われるように、アシュラムは悠里の瞼に唇を落とした。
その後目を覚ました悠里は、思いのほかすっきりした気分だった。
気を失ったおかげで、よく眠れたからか、それとも泣けたからか。
瞼は人前に出られないくらいに腫れていたけれど。
「おなか空いちゃった」
そう言って、残してくれていた御膳に飛び付いた。
豪華な山海の珍味。
食べなきゃ損!
「良かった。食べられるなら心配ないね」
アシュラムは心底ほっとして、そう言った。
ツグミは何も言わず、ただ微笑んでいる。
ウリエルは……。
「さあ、悠里が起きるちょっと前までいたんだけど」
「そう……」
もしかしたら詩織に呼び出されたのかも知れない。
そう思ったが、口には出さなかった。
一心不乱に食べ、結局綺麗に平らげた。
「はあ、美味しかった……」
箸を置いたところで、ツグミがようやく口を開いた。
「悠里」
「ん?」
「いつ、あなたがあちらに行くか分からないから、言っておきたいことがあるの」
「……やだ、おばあちゃん改まって?」
「でも、そうなのでしょう?アシュラムさんの魔法があるんでしょう?お父さんやお母さんの方針で言っちゃいけないってことになっていたけど、でも、今言っておかなくては、あなたはもう“本当のこと”を知らないままになってしまう。それでもいいっていうかも知れないけど、おばあちゃんは、あなたは知っておくべきだと思うの」
「ツグミ。ユーリは今起きたばかりだから」
「アシュラムさん、わたしは大丈夫だよ」
「あなたにも聞いておいてほしいの、アシュラムさん。あちらの世界に行っても、どうか悠里をよろしくお願いいたします」
深々と頭を下げるツグミに、アシュラムは複雑そうな顔を向けた。
「ねえ、悠里。あちらの世界に行きたい?」
「……うん……。わたしの居場所は、あっちの世界だと思うから」
「そう、そうね……。きっと、そうなのね。悠里、あなたはね、お父さんやお母さんとは血のつながりがないのよ」
「……」
もしかしたら、そうなのかも知れないと思っていた。
だからその事実は、思っていた以上に胸にすとんと落ちてきた。
「お父さんがある日可愛い赤ちゃんを連れて帰って来たの。それはもう、本当に可愛い赤ちゃんだった。光が当たると金髪に見えるような髪の色でねえ。色も白くって。それが悠里、あなたよ。お父さんがある大切な人から預かったって言って連れてきたのよ。取引先の人なのか、友人なのか。私は詳しくは聞かされなかったのだけど。お母さんはお兄ちゃんがいたから、あなたのお世話は私がすることになったの。まだ、おじいちゃんも健在だったからね。おじいちゃんも、それはもう目に入れても痛くないくらいの可愛がりようだったわ。私も、もちろんそうよ。お兄ちゃんよりも、あなたは私の孫だった」
「……」
ところが、ある日、悠里の母親だという女性が家にやって来たのだという。
母親はそれにひどく動揺したらしい。
きっと、心のどこかで父親の心変わりを疑っていたのだろう。そして悠里の出自も。
そのあと母親の悠里に対する態度はすっかり硬化してしまった。
それが、あの東北への旅行の後だったのだ。
(ああ、これで全部繋がったね……)
「結局、あなたの母親だと名乗った女の人は、お母さんが話を聞かないままに追い返してしまって……。話が聞けるものなら、私は聞きたかったのだけどね。ごめんね。あなたが本当に知りたいことは、結局わからずじまいね」
「ううん、いいよ。とっても納得できたよ、おばあちゃん。これで心置きなく、あっちに行ける」
「……本当に、行ってしまうかい?」
「おばあちゃんも一緒に行こうよ」
「え?」
「なんちゃって、そうできたら嬉しいけど、おばあちゃんは行かないよね」
「……そうだね。私は行けないね。おじいさんの遺影を守らなきゃ。老人ホームに入っても、おじいさんだけは守ってあげなきゃね」
ツグミの心は決まっている。
そして、悠里の心も決まっている。
それぞれに、あの家を出ることを決めている。
自分に一番ふさわしい場所を求めて、あの家を出て行くんだ。




