8.どうしても癒されそうにありません
源泉かけ流し……。
熱過ぎないお湯が心地良い。
足をもみながら、ほうっと一息ついた。
まだ明るい時間。旅館の大浴場は貸し切り状態で、悠里は伸び伸びと寛ぐことができていた。
「運動不足かなあ」
それともストレス?
悠里は口元まで湯につかりながら、ただ足がつっただけのことを、ストレスから来ているものだと考えてしまう己のネガティブさが心底嫌になった。
詩織の存在が少し疎ましいことなど、ストレスと呼べるほどのものでもないだろう。
これは自分の気持ちの持ちよう次第でどうにでもなることだ。
こうして温泉で癒されていると、心がふわっと軽くなって、心にかかっているさまざまなことが本当に些末なことに思えてくる。
「はああああ。やっぱ温泉最高……」
我知らず声に出して、悠里はいっそう体を湯に沈めた。
ウリエルの突然の告白のことも今は考えたくない。
どうして、あのタイミングで?
あの時、あの菜園で、ウリエルからの告白はきちんと断ったのに。
ウリエルはずっと大切な人だ。
でも、そこに恋愛感情があるかと問われると、悠里は言葉に詰まってしまう。
(恋人に納めてしまいたくないんだろうな)
ウリエルの恋人になって経験することになる、多々の煩わしいことに頭を悩まされるより、今のように兄と妹のような関係でい続けたい。
(それじゃ、だめなのかな)
すごく大切だから、これ以上の関係に進みたくない。
それでは、いけないんだろうか。
脱衣場と浴場を結ぶ引き戸が開けられる音がした。
他の人が入って来たらしい。
(のぼせてきたし、そろそろ上がろう)
体を洗い始めたその人に、ちらっと視線がいった。
鏡越しに目が合った。
「悠里じゃん」
棘を含んだ声に、びくりと体が震えた。
「ちょっと待ってて。すぐ洗うから」
「……のぼせちゃうから」
「大丈夫よ。座って待ってなよ」
「……」
有無を言わせぬ雰囲気に、悠里は浴槽の飾りで置いてある岩の上にぺたんと腰を下ろした。
詩織が使うシャワーの音しかしない、しんとした浴場の空気に、耳鳴りがするようだった。
詩織はどういうつもりなのか。
悠里を引き留めたにしては、まったく友好的ではない。
シャワーの音が止まり、詩織のなめらかな白い肌が脇を通り過ぎた。
「わあ、ちょうどいい湯加減だね」
気持ち良さそうな声をあげて、詩織はパシャンと湯を肩にかけた。
「悠里、もう入らないの?」
「うん、倒れたら、やばいし」
「そっか。ねえ、こうしてたらさ、高校の修学旅行思い出さない?」
「ふふ、そうだね」
「……あの頃はさ、楽しかったよねえ」
「ていうか、つい半年くらい前のことだよ。高校生だったの」
「その半年の差がさ、女子には大きいわけ」
「うん……まあね」
あの頃見えなかったことが見えている。
それを思えば、半年で随分大人になってしまったなとも感じる。
(でも、なんだか……)
浴場に入って来た時とは違って、詩織の雰囲気が柔らかい。
まるで、本当に“あの頃”に戻ったみたいな優しい雰囲気だった。
(もしかしたら、この旅行で、また前みたいな親友に戻れるかな)
そんな淡い期待も抱いてしまう。
そもそも、わだかまりを感じているのは悠里で、詩織は何も変わっていないのだから。
「ねえ、悠里」
「なに?」
悠里は少しほてりの冷めた体をまた湯につけた。
「あの二人ってさ、ほんとに留学生なの?」
「詩織……二人のこと、気になるんだね」
「だってさ、イケメン過ぎるでしょ。あんな人たち、世界中が大騒ぎになるよ」
「ははは。それ、言い過ぎ!」
「言い過ぎじゃないよ」
思いのほか彼女の低い声に笑いを止めて詩織を見た。
「詩織?」
「なんで悠里って、いつもそう無神経なの?」
「……」
「ずっと、そうだよ。わたしが気にしていることを平気で言ったり……ずっと、わたしはずっと嫌だった」
先程までの柔らかな空気は消え去り、詩織の目に写されているのは嫌悪だった。
今まで向けられたことのない嫌悪のまなざし。
詩織に対する親しみを取り戻しかけていた悠里は、鈍器で殴られたような衝撃を受けて唖然とした。
「あんたはわたしのこと親友だって思ってたかもしれないけど、わたしは違う。わたしは早くあんたと離れたかった。須江田くんだって」
「須江田くん……?」
「あんたが須江田くんのこと好きだって分かったから、わたしは須江田くんと付き合ったんだ」
「……」
(ああ、やっぱり……)という思いと、(どうして、そこまで……)という思いとが、ぐるぐると渦を巻いて襲ってくる。
「それでもう、あんたに十分嫌がらせできたって思ってたのに。ショッピングモールで会った時の、あんたの楽しそうな顔。あれを見た時のわたしの怒り、わかる?さいっこうにむかついたわ」
「なんで……」
「嫌なのよ。あんたがわたしよりも幸せだと。あんたはずうっとわたしの下じゃないとダメなんだよ」
「わたしは詩織のこと、親友だって思ってたよ」
「それは、あんただけでしょ。わたしは嫌いだったよ。嫌いだけど、仕方ないじゃん。わたしがいなくなったら、あんた学校で孤立しちゃうでしょ。だから、あれはわたしの優しさなの」
「……そっか……」
掠れたような声が喉から漏れた。
だけど、すごく納得している自分がいる。
詩織に感じていた“ずれ”の意味も、ようやくわかったような気がした。
「教えてくれてありがとう」
「は?」
「もう、詩織のことで悩まなくていいんだね。わたし」
そう言った途端、バシャッと湯を顔にかけられた。
「そういうとこがむかつくんだよ」
「ごめん……」
「わたし、ウリエルさん狙ってるから」
「え?」
「あんたにウリエルさんはもったいないもん」
「でも、須江田くんは?」
「だから、須江田はあんたへのあてつけだって言ってるでしょ。欲しいんなら、あげるわよ」
「酷い……」
「いつも、そうやって被害者ぶった顔をして!あんたのそういうところ、ほんと嫌!」
そう吐き捨てて、詩織は出て行った。
そうだったのか。
わたしの存在って、そんなにむかつくものなのか。
そんなに、詩織に嫌がれるような存在だったんだ。
ああ、そうだ。
詩織だけじゃない。
お父さんやお母さん、お兄ちゃんもそうだった。
わたしって、そんなに疎ましいのかな。
他にもいっぱい、そう思っている人がいるんだろうな。
じゃあ、なんで、わたしはこの世に存在しているんだろう。
「ちょっと、あなた大丈夫!?」
遠のく意識の中で、誰かの慌てた声を聞いた気がした。




