5.楽しい思い出の前の試練
「う~ん、これもいるかなあ」
蝉しぐれの中の夕暮れ時。
悠里は一泊サイズの小さなトランクに、お泊りセットを詰め込んでいた。
アシュラムとウリエルの相手や大学に通う毎日を送っているうちに、季節は瞬く間に梅雨を過ぎ暑い夏。長い夏休みの到来だった。
まだ、あちらに戻るための禁呪が発動する気配はなかった。
アシュラムの体力はもう十分回復しているだろうに。
それならと、悠里は二人を旅行に連れて行くことにした。
あちらにはあまりなかった温泉。そこに一泊するのだ。
行先は山陰。
ここからは少し遠いけれど、電車で行けば午前中には着く。
海で遊んで、温泉に入って、海鮮を食べて……。
二人があちらの世界でしたことのないことをさせてあげよう。
悠里の心はウキウキと弾んでいた。
あらかた荷物を詰め終わったところで、ドアがノックされツグミが入って来た。
「悠里」
「おばあちゃん」
「お母さんが母屋に来るようにって」
「……」
高揚していた気持ちが一気に冷えて行った。
祖母の離れで暮らすようになって数か月。
それまで何も言ってこなかった母親が、どうしてこんな日に自分を呼び出すんだろう。
まるで狙ってたようじゃないか。
きゅっと唇を引き結んだ悠里を、ツグミが心配そうに見ている。
「もう寝たからって断ってもいいよ?」
「……ううん。おばあちゃん。行ってくるね」
悪い予感しかしない母親の呼び出しだったけれど、これは越えなくてはいけない山なんだ。
そう自分に言い聞かせて、悠里は離れを出て、母屋へ入って行った。
久しぶりに入る母屋のリビングだった。
相変わらず綺麗すぎる。
離れの居間もきちんと整理整頓されているけれど、このリビングとはまったく趣を異にしていた。
祖母の使う居間は、日常の使用の中で片づけられている状態。生活の匂いのする部屋だ。
でも、ここは違う。生活感がまるでないのだ。
父母はこの家で、普段どんな生活を送っているんだろう。
リビングには父母だけでなく、兄とその婚約者もいた。
「久しぶりね」
母の言葉が棘となってちくりと胸に刺さった。
「はあ……みなさんお揃いで?」
おずおずとソファの端に座れば、まず兄の嘲るような笑みが視界に入った。
(なんだろう……。早く終わってくれないかな)
「あなた、随分自由気ままにやっているみたいね」
「は?」
母親の言っている意味がよくわからず、悠里は瞠目した。
「今日はね、あなたに大事な話があるの」
「はあ」
母親が言わんとしていることはだいたいわかる。
だって、その美貌にでかでかと書かれているじゃない。
『あんたが邪魔』だって。
「みんなで話し合ったのだけれど、お兄ちゃんの新居を離れの跡地に建てることにしたの。もちろん、あの汚い畑も潰してしまうわ。そうしたら十分な広さの家になるわね」
そう言って、母親はにっこり兄とその妻となる人に微笑んだ。
「ちょ、ちょっと待って!そうしたら、おばあちゃんは?」
「おばあちゃんはね、老人ホームに入ることになっているのよ。そろそろ足腰も危うくなっているし、うちはみんな忙しくて介護なんてできませんからね。そして、悠里。あなたも、この家を出て行ってちょうだい」
「……」
「アパートは父さんがきちんとしたところを借りてあげるよ。そこから大学に通って、しっかり勉強しなさい」
「ふん。本当は大学に通わせるのも癪なのだけれど、そこはお父さんの体面というものがありますからね。あなたも今みたいに遊んでばかりいないで、もっと真剣に勉強に取り組んでくれないと」
あまりの話に言葉を出せない悠里に、母親は畳み掛けるように言葉をぶつけてきた。
それをにやにやと楽しげに見ている兄。
婚約者はさすがに痛ましそうに眉をひそめているけれど、悠里の味方にはなってくれそうもない。
(あなたはこんな家に嫁に来て、幸せになれると思いますか?)
そう聞いてやりたくなったけれど、火に油を注ぐだけと口を引き結んだ。
「何か言いたいことはないの?」
首を横に振る。
「そう。じゃあ、これで話はおしまい。さっさとあっちに帰って頂戴」
やれやれとでも言いたげに、母親は氷の浮かんだコップを手に取った。
「……ひとつ、いい?」
「なに?」
「おばあちゃんは、この話知っているの?」
「もちろん。あなたが大学に入る前からこの話をしていたんですもの。老人ホームの空きを待っていたのよ。お盆過ぎに入れるようになるみたいだから、おばあちゃんの支度、手伝ってあげなさいね」
「お母さんは……」
「なによ」
「ううん。みんなは、それでいいの?」
「いいも悪いもないでしょう?家の事情なんだから」
「でも!」
「ああ、しつこいわね。本当、あの女そっくりなんだから!」
「久子!」
その時初めて父親が声を荒げた。
その声にさっと顔を青ざめさせる母親。
「ああ、ごめんなさい。少し興奮し過ぎね、私。もう帰りなさい。話は終わりよ」
「……おやすみなさい」
とぼとぼとリビングを出て行きながら、悠里の頭の中では母親の言葉が回っていた。
(あの女?あの女って、誰!?)
がらがらと足元が崩れ落ちていく。
そんな錯覚を覚えて、悠里は離れに入る前に膝から崩れ落ちてしまった。
「ユーリ?どうした?」
「ウリエルさん……」
「何があった?」
玄関の明かりに照らされ、悠里の青ざめた顔が浮かび上がる。
「ユーリ?」
「自分でも、なんでだか知らないけど、うまくいきそうな気がしていたの」
「うん?」
ウリエルは弱弱しい悠里の声に眉をひそめた。
「ウリエルさんやアシュラムさんとあっちの世界に帰って、家庭菜園をして、全部成功するような、そんな気がしていたの」
「……」
「でも……でも、そうしたら、おばあちゃんはどうなるの?わたしとおばあちゃんだけなのに、わたしがいなくなったら、おばあちゃんはどうなるの?住むとこを奪われて、老人ホームに入れられて!わたしだけがあっちで楽しく生きてっ」
悠里の喉がひゅっとなった。そして、かくんと体から力が抜けた。
「ユーリ!」
ウリエルは慌てて力の抜けた悠里の体を支えた。
「気を失ったのか?」
悠里の常にない興奮状態。
悠里は母屋に行ったと、ツグミが言っていたから、そこで何かあったのだろうか。
聞かなくてもわかる。
悠里と両親との間にある溝……。
「ツグミ!」
ウリエルは祖母の名を呼んだ。
悠里はツグミの主治医の往診を受け、安静に寝ていれば大丈夫だろうという診断を受けた。
興奮からの一時的な意識喪失だろうと。
それを表すように、ベッドの上の悠里は規則正しい呼吸を繰り返している。
掛け物の位置を直してやりながら、ツグミが申し訳なさそうに呟いた。
「この子に本当のことを話してやるべきなんだろうけど……」
「本当のこと?」
「……あなたたちにも言えないんだよ」
「……」
顔を見合わせるアシュラムとウリエルに、ツグミは泣き笑いの顔を向けた。
「真実を知らなくても、この子の味方でいてやってくれるかい?」
「もちろん」
「当たり前だ」
間髪入れずそう答えた二人の男に、ツグミは安心したように頷いた。
「だからね、この子は異世界に行った方がいいんだ。これもきっと運命なんだよ」
「……」
ツグミは愛おしそうに孫の髪を撫で続けていた
「おかしいだろ」
「アシュラム」
「どう考えたって、おかしいじゃないか!」
「アシュラム。俺たちが安易に首を突っ込んでいい事じゃない」
悠里とツグミを残し廊下に出てから、アシュラムはずっと「おかしい。おかしい」と言い続けている。
「どの家にだって事情っていうものがあるだろう?」
「けど、あの子が苦しむのは見たくない」
「それは、お前の主観だ。ユーリの苦しみも全部受け止めてあげるのが、本当の愛なんじゃないのか?」
「ふん」
アシュラムは鼻で笑った。アシュラムが鼻で笑ったのだ。
「おい、お前……」
「ウリエルは本当の苦しみを知らないから、そんな悠長なことが言えるんだ。親から愛され、周囲の人からも愛されて育ったお前には、ユーリの苦しみは理解できない」
「……」
アシュラムの言葉が胸に突き刺さった。
悠里と今ひとつ距離が縮まらないのも、それが原因なのではと思えてくる。
「お前は、普通に裕福な貴族のお坊ちゃまで、私ともユーリとも違うんだ」
追い打ちをかけるように言って、アシュラムは自分の部屋に入って行った。
それを見送ったウリエルは……。
廊下の壁に力の抜けそうな体を持たせかけた。そして、両手で顔を覆った。
「だったら、どうしろって言うんだよ」
吐き捨てるように呟かれた言葉は、ウリエル自身を蝕んで行くものだった。
今以上に身動きが取れなくなりそうなウリエル。
「けど、俺は、あの子から離れるなんて嫌なんだ……」
その思いだけが、今の彼の拠り所だった。




