8.何だか気付いちゃったみたいです
今まさに、アシュラムが外務卿の執務室を訪ねている。
そんなことなど露とも知らない悠里は、鉄製品を輸入するという話が頓挫してしまったために今とても憂鬱だった。
ウリエルと並んで歩きながらも、その頭の中は鍬のことでいっぱい。
何とかして鍬を手に入れ、一刻も早くその重さを感じながら土を耕したい!
(この持って行き場のない衝動をどうしたらいいの!?)
鍬がいい。鍬じゃないとだめなの。
いささか変態じみてはいるが、悠里は本気だった。
クマのぬいぐるみに執着する幼子のように、悠里は鍬に執着しているのだ。
それは、鍬こそが彼女と祖母を繋ぐよすがであり、悠里の自己を肯定する為の拠り所となっているからだ。
だから悠里は鍬を欲する。
理屈ではなく、心の求めるままに。
悠里の必死な様子にウリエルは呆れている感じもなく、顎に手を当てて何か考え込んでいた。
「ウリエルさん?」
「鉄製品を輸入出来ないとなると、話はまた振り出しに戻るが……。しかし父上も食えない人だ。すぐに面会して話を聞こうなんて言うから、てっきり輸入に乗り気なのかと思ったら……。ただユーリに会いたかっただけだなんてな」
「肩透かしもいいとこ」だと、ウリエルは不満げに口をとんがらせた。
「ですね。残念です……」
これで鍬を手に入れられると勇んでやって来たのに、外交のトップに断られてしまったのだ。
もはや、どうしようもない。
けれど、収穫がなかった訳ではなかった。
「でも、わたし、嬉しかったです」
「え?」
「わたしのこと、家族だって言って下さったから。ウリエルさんのこと、兄と思えって」
「ああ、言ってたな」
悠里がはにかみながら言うと、ウリエルもくすりと笑った。
「俺は兄でも友人でも何でもいいんだけどね。お前がこの世界で一人きりだなんて思わないでいてくれたら、それでいいんだ」
「……ありがとう。お兄ちゃん」
外務卿も、ウリエルも、どうしてこう優しんだろう。
その優しさにキュンとなりながら、悠里は少し潤んだ瞳でウリエルを見上げた。
「おま……そう、はっきり兄ちゃんって呼ばれると、反応に困るな……」
悠里のその視線から逃げるように顔を背けたウリエルが溜め息をついた。
「ええ!?いいじゃないですか。お兄ちゃん。お・に・い・ちゃん」
「ああ、やっぱ、だめだ。それ。ウリエルでいい。ウリエルにしてくれ」
ウリエルはさも嫌そうに頭を振っている。
「そんなに嫌がらなくてもいいと思うけど」
「お前のことは守る。だが、それは兄としてではなく、友人としてだ。いいか?」
「お兄ちゃんがいいな……」
(今気付いた。わたし、ババコンの上に、ブラコンだったんだ……)
頭の中を実の兄の面影が過ぎった。
優しくて、真面目で、けれどどことなく近寄りがたい、年の離れた兄。
ちょうど、ウリエルと同じくらいかもしれない。
(そうか。わたし、お兄ちゃんとウリエルさんを重ねてしまってたんだ)
そうして少ししゅんとなった悠里の頭を、ウリエルは乱暴にぐしゃぐしゃ掻き回した。
「な、何するんですか?」
「顔、上げた方が可愛いぞ。むっつり黙って俯いてるのは、気難しい政治家だけで十分だ」
ウリエルの手は、悠里の頭を容易に掴めそうなくらい大きかった。
そんな彼の手の温もりを頭全体で感じて、気持ちが軽くなっていく。
(ウリエルさんて、不思議な人だ。他人のことなんて気にしてなさそうなのに、本当は凄く敏感で、凄く気にしてくれる)
それも日本人ぽいところ?
彼の中の日本人の血が、彼にそんな細やかな部分を与えているのだろうか。
コウメさまがいて、サベイル卿がいて、そしてウリエルがいる。
その偶然に居合わせた自分は、とても運が良かったのだと、悠里は思わずにはいられなかった。
「ありがとう、ウリエルさん」
「兄ちゃんはもういいのか?」
「ふふ。うん。たぶん、大丈夫。でも時々はウリエルさんにお兄ちゃんを求めてしまいそうだけど……。でも、きっと友達でいた方がいいんだよね。わたしのお兄ちゃんは、日本にいるお兄ちゃんだけだもん。ウリエルさんは、お兄ちゃんじゃなくって、友達だよね」
不意にウリエルが悠里の頭を引き寄せた。
ウリエルの逞しい胸に、悠里は顔からもろに飛び込んでしまった。
「ウ、ウリエルさん!?」
動揺して上ずった声を上げる悠里の後頭部を、ウリエルは宥めるようにゆっくり撫でている。
その撫で方は、まるで泣いている幼子をあやしているようだった。
「辛い時は辛いって言えばいいんだ。一人で抱え込むなよ。俺が受け止めるから。お前の寂しさも、悲しさも全部、俺が一緒に感じてやるから。な?」
悠里はウリエルの服をぎゅっと掴んだ。
そうして力を入れないと、声を上げて泣き出してしまいそうだったからだ。
何度も何度もウリエルの手が悠里の頭を撫でてくれる。
それにつれて、悠里の心の中の凝り固まっていたある一部分が、次第に溶け出して行くような気がした。
まるで雪解けのように。
長年降り積もって固まってしまった雪が、美しい色彩を帯びながら溶けていくように。
悠里の心が溶けていく……。
小さな頭だった。
体も小さいけれど、とにかく全てが華奢でか弱い。
女の子って、こんなに儚い感じだったっけ。
これまで異性と付き合うことに関心のなかったウリエルには新鮮だった。
着飾ることと色恋にしか興味を示さない貴族の娘には、全くと言っていいほど心動かされなかった。
言い寄られたことは何度もある。
だが、彼女らに何の魅力も感じなかった。
上っ面だけの、底の浅い女たち。
だが、この子は違う。
生きてきた環境が違うのだから当然といえば当然だが、感情が豊かで、表情がくるくる変わる。
一緒にいて、とても楽しい。
次は何を言うんだろう。次はどんな表情を見せるだろう。
片時も目を離したくなかった。
一緒にいたい。
自然にそう思った。
(守るから一緒にいてやるって言っておいて、実は俺が、この子と一緒にいたいんだ……)
兄と呼ばれることに拒否反応を示したのも。
彼女と対等な立場にいたいからだ。
(そうか。俺は……)
胸に顔をうずめる少女に視線を落とす。
少し震えているのは、泣いているから?
そう思った途端、ウリエルは悠里を抱きしめたい衝動に駆られた。
片手で頭を撫でるだけでは足りない。
両の腕で、彼女を抱きしめたい。
そんな衝動に自分自身驚きながら、ウリエルは持って行き場のない感情を抑えるのに苦心した。
(だが、まだ早い……)
悠里はウリエルに心を許したばかりだ。
一足飛びに、何の行程も経ないで自分の感情を押し付ければ、悠里はその心に殻を被せてしまうだろう。
そんなことはさせられない。
彼女らしく、朗らかでいてほしい。
だから、ウリエルは悠里の頭を撫で続けた。
とりあえず今は、彼女が身を預けてくれている。
それだけで十分だと思いながら。
コツンと小さな靴音がした。
悠里を見下ろしていたウリエルは、その小さな音に顔を上げた。
「あ……」
思わず声を上げてしまい、ウリエルは自分の口元を空いている手で押さえた。
「ウリエルさん?」
「ああ、いや、大丈夫か?」
悠里は少し顔を赤らめながら、こくりと頷いた。
自分の想いを自覚してしまった今となっては、そんな何でもない仕草にも胸を弾ませてしまう。
自分も赤くなるのを感じながら、ウリエルは目線をまた廊下の向こうに向けた。
「お前に、用があるんじゃないのか?」
「え?」
悠里は振り向いた。
そして彼女もまた、「あ」と声を上げた。
その人はゆっくりと近づいて来る。
その美しい顔には、何の感情も浮かんでいなかった。
「姫。ご無沙汰しています」
「アシュラムさん……」
いや。ウリエルだけは気付いていた。
彼の、アシュラムの、薄青色の瞳に宿る、切なく狂おしいまでの感情に。
それは今にも溢れ出しそうになりながら、すんでのところで踏みとどまっていたが、悠里に名を呼ばれた途端堰を切ったように溢れ出した。
それは次第に表情のなかった顔までも覆い尽くして、アシュラムの顔を苦しげに歪ませた。
「アシュラムさん?」
「……ウリエルを、伴侶に選ばれたのですか?」
掠れた声でそう言うと、アシュラムは鋭い視線をウリエルに向けた。
悠里は言われた意味が分からないのか小首を傾げ、ウリエルは頭を抱えそうになりながらも、アシュラムの視線を真っ向から受け止めていた。




