七
その翌日、愛子は、実家の物置から、古いアップライトピアノに掛けられた埃よけのシートを、こっそり剥がした。
長年使われていなかったピアノは、ところどころ鍵盤の動きが鈍くなっていたが、調律師を呼べば、まだ使えるとのことだった。
愛子は、母に内緒で、近所のピアノ調律師に連絡を取り、年末に来てもらう手配をした。
調律師が来た日、母は驚いた顔をしていた。
「愛子……これ……」
「お母さんが、また弾けるように。プレゼント」
母は、しばらく、ピアノの前で立ち尽くしていた。そして、ゆっくりと、椅子に座った。
最初の音は、ぎこちなくて、震えていた。けれど、母の指は、少しずつ、思い出すように動き始めた。
愛子は、その音を、ずっと聞いていた。
それは、決して上手な演奏ではなかった。何十年も触っていない指が、当時のような速さで動くはずもない。けれど、その音の中には、確かに、何かが「戻ってきた」感覚があった。
母が弾き終わると、部屋の中は、しばらく静かだった。
「……ありがとう、愛子」
母は、目を赤くしながら、笑った。
「お母さんの『二番目の願い』も『三番目の願い』も、それなりに、いい人生だったと思う。お父さんと出会えたのも、愛子が生まれたのも、全部、その道の上にあったことだから」
「うん」
「でも……一番目の願いに、こうして、少しでも戻れたこと。これは、本当に、嬉しい」
愛子は、母の隣に座って、肩に頭をのせた。
「お母さん。私、夢の中で見た光が言ってたこと、もう一つ、伝えたいことがあるんだ」
「なに?」
「『一番目の願いに戻るまでの道のりに、無駄なものは何もない』って」
母は、静かに、その言葉を受け止めるように、目を閉じた。




