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一番目の願い  作者: Kentarou Theater
その1

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6/13


大学に進学してからの愛子は、研究室にこもる日々が続いた。


生命の起源、特に「自己複製分子」の起源に関する研究室に所属した愛子は、毎日のように実験を繰り返した。試験管の中で、アミノ酸やヌクレオチドを混ぜ合わせ、温度や圧力、紫外線の条件を変えながら、何が「生命の最初の一歩」になり得るのかを探る。


うまくいかない日が、何百日も続いた。


「またダメだったか」


同じ研究室の先輩が、愛子の実験データを見て、ため息をついた。


「うん」愛子は、淡々と答えた。「でも、この条件では『反応しない』ということがわかった。それも、一つの結果」


「愛子は、本当にブレないね」


「そう?」


「うん。みんな、結果が出ないと焦ったり、不安になったりするけど、愛子は……なんていうか、最初から決まっている道を、ただ進んでいるみたいに見える」


愛子は、少し考えてから、答えた。


「多分、私には『これしかない』っていう感覚があるんだと思う。他の道もあるかもしれないけど、私にとっては、これが『一番目』なんだなって」


「一番目?」


「うん。……うまく説明できないんだけど」


愛子は、笑って、また試験管に向き直った。



その年の冬、愛子は実家に帰省した。


母は、相変わらず、いつも通りの母だった。けれど、愛子は、研究室での日々を経て、以前よりも「観察すること」が得意になっていた。母の何気ない動作、言葉の選び方、目線の先——それらの一つ一つに、愛子は、かつて感じなかった「意味」を読み取るようになっていた。


ある夜、二人でこたつに入って、お茶を飲んでいた時、愛子は静かに切り出した。


「お母さん。あの時の話、もう一度聞いてもいい?」


「あの時?」


「私が四歳の時、神社で、お母さんが『お願い事は一度しか叶わない』って言ったこと」


母の手が、湯呑みの上で、少し止まった。


「……覚えてたんだ、そんなこと」


「ずっと覚えてた。お母さんの目が、なんだか寂しそうに見えたから」


母は、しばらく、何も言わなかった。こたつの中で、灯油ストーブの音だけが、静かに響いていた。


「……愛子」


「うん」


「お母さんね、若い頃、ピアニストになりたかったの」


愛子は、初めて聞く話に、黙って耳を傾けた。


「物心つく前から、ピアノが好きだった。誰に教わったわけでもないのに、聞いた曲を、すぐに弾けるようになってた。先生が『この子は特別だ』って、何度も言ってくれた」


「うん」


「コンクールにも出て、結構いい成績も取った。音楽大学への推薦も決まってた」


「それなら……」


「でも」母は、湯呑みを両手で包むように持った。「お母さんのお母さん——愛子のおばあちゃんね——が、病気になったの。長い入院が必要で、お父さんの仕事もうまくいかなくて、家族全員が、すごく大変な時期だった」


「……」


「お母さんは、その時、考えたの。音楽の道に進むには、お金もかかる。時間もかかる。家族はもっと、私を必要としているんじゃないかって。それで——」


母は、ゆっくりと、息を吸った。


「ピアノを、やめた。家計を助けるために、地元で就職して、働いて。それが、間違いだったとは思ってない。家族を助けられたことは、お母さんにとって、とても大事な選択だった」


「でも……」


「でも」母は、初めて、少し泣きそうな顔をした。「時々、思うのよ。あの時、もし、誰かに『大丈夫だよ、ピアノを続けていいよ』って言ってもらえてたら——あるいは、お母さんが、もっと意地でも、その道を諦めなかったら——何かが、違ったのかなって」


愛子は、母の手を、そっと握った。


「お母さん」


「うん?」


「あの夜、神社で言った『一度しか叶わない願い』っていうのは——お母さんにとって、それは『ピアニストになる』っていう願いだったの?」


母は、目を見開いて、愛子を見た。


「どうして……」


「私、夢を見たの」愛子は、静かに語り始めた。「自分の中にある『一番目の願い』っていうものについて。それを手放さなければ、信じられないくらい簡単に叶うっていう話。でも、人には煩悩や欲があって、それに気を取られると、その願いがどんどん遠ざかっていくっていう」


母は、何も言わず、愛子の話を聞いていた。


「お母さんは、家族を助けるために、自分の願いを『手放した』。それは、悪いことじゃない。お母さんが選んだ、お母さんの人生。でも――」


愛子は、母の目をまっすぐに見た。


「お母さんは、本当に、もうピアノを弾きたいって、思ってないの?」


母は、長い間、答えなかった。


そして、静かに、涙を一筋、こぼした。


「……弾きたい。今でも、毎日、弾きたいって思ってる」


「だったら——」


「でも、もう何十年も触ってない。指も動かないし、今更、人前で弾けるようなものじゃ……」


「人前で弾く必要なんてないよ」愛子は、母の手を、もっと強く握った。「お母さんが、お母さんのために、弾けばいいんだよ」



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