8
月光草を屋敷に持ち帰ってから、三日が経過した。
わたくし、エレノア・フォン・ローゼンベルクは、現在とある重大な研究に取り組んでいる。
「おかしいですわね」
机の上には、月光草の鉢植え。
その隣には、栽培記録を記したノート。
水やりの量、日照時間、室温、土壌の状態。
すべて記録している。
にもかかわらず。
「なぜ、夜になっても花が開かないのでしょう?」
月光草は、その名の通り夜になると花を開く植物だ。
ところが、わたくしが育てている株は、夜になってもつぼみを閉じたままだった。
昼間も特に変化はない。
葉の色も悪くない。
根の状態にも問題はなさそうだ。
水分量も適切。
温度も適切。
魔力の供給も、セレスティア様から教えていただいた方法を参考にしている。
それなのに、花が開かない。
「これは研究課題ですわね」
わたくしはペンを置いた。
植物の栽培とは、実に奥が深い。
しかし、原因が分からないというのは、どうにも落ち着かない。
「お嬢様」
背後からマリアの声がした。
「何でしょう?」
「朝食のお時間でございます」
「もう少し待ってくださいませ。月光草の状態を確認してからにいたしますわ」
「昨日も同じことをおっしゃっていましたね」
「昨日と今日は違いますわ」
「そうですね。昨日は昼食も忘れかけていらっしゃいました」
「……」
マリアは、じっとわたくしを見つめている。
「お嬢様」
「何ですの?」
「植物も大切ですが、ご自身のお食事も大切になさってくださいませ」
「分かりましたわ」
「本当に?」
「わ、分かりましたわ」
どうやら、わたくしは監視されているらしい。
仕方がない。
研究者たるもの、健康管理も重要なのだ。
〜〜〜
その日の午後。
セレスティア様から手紙が届いた。
内容は、月光草の様子を尋ねるものだった。
『エレノア様。
月光草は元気に育っていますでしょうか?
もし栽培で困ったことがあれば、いつでもご相談くださいませ。
近いうちに、様子を見に伺ってもよろしいでしょうか?
セレスティア』
「……」
わたくしは手紙を二度読み返した。
もちろん、月光草のことを気にかけてくださっているのだろう。
贈り物なのだから、当然だ。
それに、栽培方法についても教えていただけるかもしれない。
これは非常にありがたい。
「マリア」
「はい」
「セレスティア様にお返事を出してくださいませ」
「どのような内容で?」
「ぜひお越しください、と。月光草の状態を一緒に確認していただきたいのです」
「承知いたしました」
マリアは手紙を受け取った。
そして、何やら楽しそうに微笑んだ。
「お嬢様」
「何ですの?」
「セレスティア様がお越しになるのが、楽しみですか?」
「もちろんですわ。栽培の専門知識をお持ちなのですもの」
「そうですか」
「ええ」
マリアは何も言わなかった。
ただ、口元が少しだけ緩んでいた。
〜〜〜
翌日。
「エレノア様!」
屋敷の応接室に、セレスティア様の明るい声が響いた。
「ようこそお越しくださいました、セレスティア様」
「お招きいただき、ありがとうございます」
セレスティア様は、いつも通り美しい笑顔を浮かべていた。
わたくしは、さっそく本題に入る。
「実は、月光草についてご相談がございますの」
「まあ。何か問題がありましたか?」
「ええ。三日ほど育てているのですが、夜になっても花が開かないのです」
「なるほど」
セレスティア様は、真剣な表情で頷いた。
「では、実物を見せていただけますか?」
「もちろんですわ!」
わたくしたちは庭園へ向かった。
月光草は、日当たりのよい場所に置いてある。
わたくしは鉢植えの前にしゃがみ込んだ。
「こちらです」
「まあ。葉の色は良好ですね」
「ええ。水分量も問題ないはずです」
「魔力の供給は?」
「毎晩、少量ずつ与えております」
「そうですか」
セレスティア様は、月光草にそっと手をかざした。
すると。
淡い光が、葉の周囲に浮かび上がった。
「あら?」
セレスティア様が目を見開く。
「どうかなさいました?」
「この子、魔力を拒んでいるわけではないようですね」
「では、なぜ花が開かないのでしょう?」
「少し、わたくしも試してみますね」
セレスティア様は、月光草に魔力を流した。
その瞬間。
つぼみが、わずかに揺れた。
「……!」
そして、ゆっくりと花弁が開き始めた。
「まあ!」
わたくしは思わず声を上げた。
白い花弁が一枚ずつ開いていく。
中心には、淡い青色の光が灯っていた。
美しい。
実に美しい。
「すごいですわ! セレスティア様!」
「ふふ。よかったです」
「やはり、魔力の供給量に問題があったのでしょうか?」
「いいえ。そうではないと思います」
「と、おっしゃいますと?」
セレスティア様は、少し考え込んだ。
「月光草は、魔力だけでなく、周囲の人の感情にも反応することがあるのです」
「感情?」
「はい。特に、強い親愛や安心感を感じる環境では、花が開きやすくなると言われています」
「なるほど」
わたくしはノートを取り出した。
「つまり、栽培者の精神状態が生育に影響する可能性があるということですわね」
「そうですね」
「これは興味深いですわ!」
わたくしはペンを走らせた。
しかし、ふと疑問が浮かんだ。
「ですが、わたくしが育てている間は、なぜ花が開かなかったのでしょう?」
「それは」
セレスティア様が、こちらを見た。
「エレノア様」
「はい?」
「わたくしが来たら、花が開きましたね」
「ええ。そうですわね」
「それは、つまり」
セレスティア様の頬が赤くなった。
「わたくしが来たことを、喜んでくれたのかもしれません」
「……」
なるほど。
つまり、月光草はセレスティア様に強く反応している。
聖女としての魔力量が影響している可能性もある。
あるいは、セレスティア様の魔力の質が特殊なのかもしれない。
「セレスティア様」
「はい?」
「今度、別の方にも魔力を流していただき、比較実験をしてみたいですわ」
「えっ?」
「魔力の質によって反応が異なるのかもしれません。これは研究する価値がございます」
「そ、そうですね」
セレスティア様の笑顔が、少しだけ固まった。
なぜでしょう。
何か失礼なことを言ってしまっただろうか。
〜〜〜
その後、わたくしたちは庭園でお茶を飲むことにした。
月光草は、まだ美しい花を咲かせている。
「エレノア様」
「はい?」
「月光草が花を開いてくれて、よかったですね」
「ええ。セレスティア様のおかげですわ」
「そんな」
「本当にありがとうございます」
わたくしが微笑むと、セレスティア様は少し俯いた。
「エレノア様」
「何でしょう?」
「わたくし、少しだけ期待してしまいました」
「期待?」
「月光草が花を開いたのは、わたくしが来たからだと」
「ええ。そうかもしれませんわね」
「それで……その」
セレスティア様は、カップを両手で包み込んだ。
「エレノア様も、わたくしが来るのを楽しみにしてくださっていたのかな、と」
「……」
わたくしは、少し考えた。
昨日、手紙を受け取ったとき。
セレスティア様が来てくださると知って、嬉しかった。
今日、屋敷に到着した姿を見たときも、嬉しかった。
それは間違いない。
「ええ。楽しみにしておりましたわ」
「本当ですか?」
「もちろんです」
セレスティア様の顔が、ぱっと明るくなった。
「ありがとうございます……!」
「ただ、月光草の研究も楽しみでしたけれど」
「……」
セレスティア様の笑顔が、少しだけ止まった。
「お嬢様」
背後から、マリアの声がした。
「何でしょう?」
「少し、こちらへ」
「今ですか?」
「はい。少々お話がございます」
マリアは、わたくしをセレスティア様から少し離れた場所へ連れていった。
「お嬢様」
「何ですの?」
「セレスティア様がいらっしゃるのを楽しみにしていた理由は、月光草だけではないのではありませんか?」
「……?」
「セレスティア様に会いたかったのでは?」
「えっ?」
わたくしは固まった。
「そ、それは」
「違いますか?」
「いえ、会いたかったのは事実ですが」
「でしたら、そうお伝えになればよろしいのでは?」
「ですが、セレスティア様は月光草のことで来てくださったのですわ」
「お嬢様」
マリアは、穏やかな笑みを浮かべた。
「セレスティア様は、月光草だけを見に来られたのでしょうか?」
「……」
わたくしは、少し離れた場所にいるセレスティア様を見た。
彼女は、こちらを見つめていた。
目が合うと、優しく微笑んでくれる。
その笑顔を見ていると、なぜか胸が温かくなる。
「そう、ですわね」
わたくしは小さく呟いた。
セレスティア様は、わたくしに会いに来てくださったのかもしれない。
そして。
わたくしも、セレスティア様に会いたかったのかもしれない。
……。
これは、少し困りましたわね。
研究とは違い、答えがすぐには出そうにありませんわ。
〜〜〜
その夜。
月光草は、見事な花を咲かせていた。
わたくしは寝る前に、庭園へ様子を見に行った。
白い花弁が、月明かりを受けて淡く輝いている。
「綺麗ですわね」
わたくしは、花にそっと触れた。
昼間、セレスティア様が来てくださったとき。
月光草は花を開いた。
そして、彼女が帰った後も、花は閉じなかった。
つまり。
この植物は、セレスティア様の魔力を記憶しているのだろうか。
あるいは、安心できる環境を覚えているのかもしれない。
「また来ていただきたいですわね」
ぽつりと呟いた。
その瞬間。
月光草の花弁が、ほんの少しだけ揺れた。
「……?」
風は吹いていない。
わたくしは不思議に思い、花を覗き込んだ。
そして、気づいた。
花の中心に、小さな光が浮かんでいる。
それは、昼間よりもずっと強い光だった。
「これは」
わたくしは慌てて研究ノートを取りに戻った。
〜〜〜
一方、その頃。
聖教会の自室では、セレスティアが一通の手紙を書いていた。
『エレノア様。
本日はお会いできて、とても嬉しかったです。
月光草も元気そうで安心いたしました。
また近いうちに、お会いできたら嬉しいです。
セレスティア』
書き終えた手紙を見つめ、彼女は頬を赤らめた。
「また会いたいです」
小さな声で呟く。
そのとき、部屋の扉がノックされた。
「聖女様。お休みのところ失礼いたします」
「どうしましたか?」
「王宮からご連絡がございます」
「王宮から?」
「はい。アルベルト王太子殿下が、聖女様とお話ししたいとのことです」
セレスティアの表情から、笑みが消えた。
「わたくしと?」
「はい。エレノア様とのご関係について、お尋ねしたいことがあるそうです」
しばらく沈黙が続いた。
そして、セレスティアは静かに答えた。
「お断りしてください」
「よろしいのですか?」
「はい。わたくしは、エレノア様との時間を大切にしたいのです」
彼女は、机の上に置いた手紙をそっと封筒にしまう。
その表情には、先ほどまでの恋する乙女の面影はない。
「それに」
セレスティアは、窓の外を見つめた。
「エレノア様の幸せを願うことと、エレノア様を誰にも渡したくないと思うことは、両立してしまうのですね」
小さく苦笑する。
「恋とは、本当に難しいものです」
その夜。
王宮では、王太子が聖女からの面会拒否の報告を受けていた。
そして、ローゼンベルク公爵家からは、さらなる書状が届いていた。
表題は、前回と同じ。
ただし、今回は追伸が増えていた。
『なお、娘の交友関係に関する不必要な干渉は、厳に慎まれたい』
アルベルトは、静かに書状を閉じた。
「私は、何もしていないはずなのだが」
側近は答えなかった。
答えられるわけがなかった。
王太子の周囲には、今や二つの恐ろしい存在がいる。
娘を溺愛する公爵と。
娘を心から愛する聖女。
そして、その二人に守られている本人は、恋心という最大の難問にまだ気づいていないのである。




