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王宮から招待状が届いたのは、父と聖女セレスティアの面談から三日後のことだった。
内容は、王太子アルベルト殿下との話し合い。
それを読んだわたくし、エレノア・フォン・ローゼンベルクは、思わず首を傾げた。
「話し合い?」
「はい。王太子殿下が、ぜひ直接お話ししたいとのことです」
招待状を持ってきたマリアが、何やら面白そうに笑っている。
「お嬢様。もしかすると、復縁のお申し込みかもしれませんね?」
「まあ。冗談はおよしなさいな」
「冗談ではないかもしれませんよ?」
「なおさらお断りですわ」
わたくしは即答した。
そもそも、わたくしはアルベルト殿下との婚約破棄を悲しんでなどいない。
むしろ、王太子妃教育から解放された喜びで、ここ数日は睡眠の質まで向上しているのである。
朝食をゆっくり味わえる。
好きな本を読める。
領地経営の資料を、王宮の会議に邪魔されずに確認できる。
なんという幸福だろう。
「ところで、マリア」
「はい?」
「王宮に出向くとなると、半日は潰れますわね?」
「そうですね」
「その時間があれば、領地の新しい水路計画を確認できるのですけれど」
「お嬢様」
「何ですの?」
「まずは、お召し物を選びましょうか」
どうやら、わたくしの優先順位には問題があるらしい。
解せませんわ。
◇
王宮の応接室。
そこには、懐かしい顔が待っていた。
「久しぶりだな、エレノア」
「ご無沙汰しております、アルベルト殿下」
わたくしは礼儀正しく一礼した。
アルベルト殿下は、以前よりも少し疲れた顔をしていた。
まあ、婚約破棄の騒動で王宮内が大変なことになっているのだろう。
何しろ、ローゼンベルク公爵家から正式な抗議が届いたのだ。
婚約破棄そのものというより、長年にわたって王家と公爵家が積み上げてきた約束を、殿下が公衆の面前で一方的に踏みにじったことが問題なのである。
父は交渉事になると恐ろしい。
以前、財務大臣を三人同時に泣かせたという逸話があるくらいだ。
一体、どんな交渉をしたのでしょう。
「今日は、君に話があって呼んだ」
「承知しておりますわ。招待状にそう書かれていましたもの」
「そういうところは相変わらずだな」
殿下はため息をつき、向かいの席を勧めた。
わたくしが腰を下ろすと、殿下は少し言いにくそうに口を開いた。
「エレノア。先日の婚約破棄についてだが」
「はい」
「あれは、少々性急だったかもしれない」
「そうですわね」
「君にも、言いたいことがあっただろう。私も、あの場では冷静さを欠いていた」
「そうですわね」
「怒っていないのか?」
「何に対してでしょう?」
殿下が絶句した。
なぜでしょう。
わたくしは質問に答えているだけですのに。
「君は、私との婚約を破棄されたのだぞ?」
「ええ。おかげさまで、王太子妃教育から解放されましたわ」
「…………は?」
「毎朝の礼法訓練も、外交儀礼の暗記も、王宮行事への出席もございません。おかげで領地経営に集中できますの。感謝しておりますわ」
「感謝?」
殿下の顔が、みるみるうちに引きつっていく。
何か失礼なことを言っただろうか。
しかし、感謝しているのは事実である。
わたくしは嘘をつくのが嫌いなのだ。
「それで、殿下。本日はどのようなお話でしょうか? わたくし、この後に予定がございますので」
「予定?」
「はい。セレスティア様と植物園へ参りますの」
そう答えた瞬間だった。
殿下の表情が変わった。
「聖女と?」
「ええ」
「君は、あの女と親しくしているのか?」
あの女。
その言い方に、わたくしはわずかに眉をひそめた。
「セレスティア様は、王国の聖女でいらっしゃいますわ」
「そんなことは分かっている。だが、君は彼女に何か吹き込まれているのではないか?」
「何ですって?」
「彼女は君に結婚を申し込んだそうだな。あまりにも突然のことで、君も判断を誤っているのではないかと思ってな」
なるほど。
つまり、殿下はこうお考えなのだ。
婚約破棄されたわたくしが、傷心のあまり聖女様にすがりついている、と。
あるいは、聖女様が何か特別な力を使って、わたくしを操っている、と。
……。
……なるほど?
「殿下」
「何だ?」
「セレスティア様を侮辱なさるのは、おやめくださいませ」
自分でも驚くほど、声が冷たくなった。
殿下が目を見開く。
「侮辱? 私は君を心配しているのだ」
「ご心配は結構ですわ。ですが、セレスティア様は、わたくしの意思を尊重してくださいました」
「しかし」
「わたくしが恋愛に疎いことも、すぐにはお返事できないことも、すべてご存じです。そのうえで、急かすことなく待ってくださっています」
言葉にしてみると、改めて気づいた。
セレスティア様は、わたくしに何も強制していない。
手をつなぐことも、食事に誘うことも、結婚を申し込むことさえも。
最後には必ず、わたくしがどうしたいのかを尋ねてくださる。
あの方は、いつだってそうだ。
わたくしの返事を待ってくださる。
「それに、殿下」
「何だ」
「わたくしは、セレスティア様と過ごす時間を楽しんでおりますわ」
これは、紛れもない事実だった。
初めての食事も、王都の散策も。
手をつないだことも。
次に会う約束をしたとき、嬉しくなったことも。
思い出すだけで、胸のあたりが少し温かくなる。
「ですから、セレスティア様を疑うようなことは、おっしゃらないでくださいませ」
応接室に沈黙が落ちた。
殿下は、何か言おうとして口を開き、結局閉じた。
そして、しばらくしてから、絞り出すように尋ねた。
「…君は、本当に私とやり直す気がないのか?」
「ございませんわ」
今度も即答だった。
「なぜだ?」
「先ほども申し上げましたが、今の生活が気に入っておりますので」
「それだけか?」
「それだけではございませんわ」
わたくしは背筋を伸ばした。
「わたくしは、殿下と婚約していた間、一度たりとも殿下に恋をしていると感じたことがございませんでした」
「……!」
「殿下も、わたくし自身ではなく、王太子妃としての能力を評価していらしたのではありませんか?」
殿下は答えなかった。
その沈黙が、何よりの返事だった。
「お互いに、相手に期待していたものが違ったのでしょう。ですから、婚約が解消されたことは、むしろ良かったのだと思いますわ」
わたくしは立ち上がり、優雅に一礼した。
「本日はお時間をいただき、ありがとうございました。今後の王家とローゼンベルク公爵家の関係につきましては、父を通じてお話しいただければ幸いですわ」
「エレノア」
「それでは、失礼いたします」
扉へ向かう。
背後から、殿下の声が聞こえた。
「君は……変わったな」
わたくしは足を止めた。
そして、少しだけ考えてから答えた。
「そうかもしれませんわね」
以前のわたくしなら、殿下の期待に応えることを最優先に考えていた。
けれど、今は違う。
わたくしには、自分で選びたい未来がある。
その未来に、アルベルト殿下はいない。
そして――。
扉の向こうで待っている、金色の髪の聖女様の顔が浮かんだ。
なぜ、あの方のことを考えてしまうのでしょう。
不思議ですわね。
◇
「エレノア様!」
王宮の回廊に出ると、セレスティア様が待っていた。
美しい金色の髪。
柔らかな笑顔。
わたくしを見つけた瞬間、ぱっと花が咲くように明るくなる表情。
「お待たせいたしました、セレスティア様」
「いいえ。お話は終わりましたか?」
「ええ。特に問題はございませんでしたわ」
「そうですか。よかったです」
セレスティア様は微笑んだ。
……が。
何かがおかしい。
いつもなら、もう少し近づいてきてくださるはずなのに。
今日は、わたくしから一歩分ほど距離を空けている。
「セレスティア様?」
「はい?」
「何かございましたか?」
「いいえ? 何もございませんよ?」
笑顔。
しかし、目が笑っていない。
いや、正確に言えば、笑っているのだが、いつもの輝きがない。
これは何でしょう。
王宮の財務監査で不正を発見したときの会計官に似ている。
つまり、何か問題があるのだ。
「もしかして、殿下とお話ししていたことを、気になさっていますか?」
「少しだけ」
セレスティア様は、素直に認めた。
「アルベルト様は、エレノア様に復縁を申し込まれたのでしょうか?」
「ええ。ですが、お断りいたしましたわ」
「そう、ですか」
セレスティア様の指先が、ぎゅっとスカートをつまんだ。
わたくしは首を傾げる。
「どうかなさいました?」
「少しだけ、嫉妬してしまいました」
「嫉妬?」
「はい」
セレスティア様は、困ったように微笑んだ。
「エレノア様が、以前はアルベルト様と結婚なさるはずだったことも。アルベルト様が、今になってエレノア様を取り戻したいと思っていることも。考えれば考えるほど、胸が苦しくなってしまって」
そこで、彼女ははっとしたように顔を上げた。
「ごめんなさい。こんなことを申し上げるつもりではなかったのです。エレノア様がどなたを選ばれるかは、エレノア様の自由ですから」
「……」
「わたくしが勝手に嫉妬しているだけです。エレノア様を困らせたいわけではありません」
セレスティア様は、いつもの優しい笑顔を作ろうとした。
けれど、うまくいかなかった。
その顔を見て、わたくしはなぜか胸の奥がちくりとした。
この方は、いつもわたくしの気持ちを尊重してくださる。
だからこそ、わたくしも。
「セレスティア様」
「はい」
「わたくしは、アルベルト殿下と復縁するつもりはございませんわ」
「本当ですか?」
「ええ。そもそも、殿下と結婚する未来を、もう一度選びたいとは思いませんもの」
セレスティア様が、じっとわたくしを見つめている。
「それに……」
「それに?」
わたくしは、少しだけ視線をそらした。
「わたくしには、次のお約束がございますから」
「次のお約束?」
「植物園ですわ。セレスティア様と、ご一緒するのでしょう?」
言い終わった瞬間。
セレスティア様の顔が、真っ赤になった。
「エ、エレノア様……!」
「な、何ですの? 植物園に行くお約束でしょう?」
「はい! はい、そうです! もちろんです! 絶対に行きます!」
「ええ、ですから……」
「わたくし、今、人生で一番幸せかもしれません……!」
「大げさではございませんこと!?」
セレスティア様は両手で顔を覆ってしまった。
耳まで真っ赤である。
何がそんなに嬉しいのでしょう。
植物園には、珍しい薬草があると聞いている。
わたくしとしても、非常に楽しみなのだ。
ただ、それだけなのだけれど。
「エレノア様」
「はい?」
「手を、つないでもよろしいでしょうか?」
セレスティア様は、少しだけ不安そうに尋ねた。
わたくしは差し出された手を見つめる。
初めて手をつないだときは、人混みではぐれないためだと思った。
けれど、今は違う。
この方が手をつなぎたいと思っている理由を、わたくしは知っている。
知っているのに。
なぜだろう。
断る理由が、見つからなかった。
「ええ。構いませんわ」
わたくしが手を重ねると、セレスティア様は、今度こそ満面の笑みを浮かべた。
「ありがとうございます!」
その笑顔を見て。
わたくしも、ほんの少しだけ笑っていた。
そのことには、まだ気づいていなかったけれど。
◇
一方、その頃。
王宮の応接室では、アルベルト王太子が頭を抱えていた。
「なぜだ」
側近が恐る恐る尋ねる。
「殿下、いかがなさいましたか?」
「なぜ、エレノアは私に未練を見せないのだ……!」
「それは……婚約破棄をなさったからでは?」
「分かっている!」
アルベルトは机を叩いた。
側近は黙った。
正論は、ときに人を傷つける。
「私は、彼女が怒っているのだと思っていた。時間を置けば、また話し合えると」
「はい」
「だが、彼女は私に感謝していると言ったのだぞ!?」
「……はい」
「しかも、聖女と植物園へ行く約束があると!」
アルベルトは窓の外を見た。
回廊の向こうに、二人の姿が見える。
セレスティアがエレノアの手を握り、幸せそうに笑っていた。
そしてエレノアもまた、穏やかな顔をしている。
その表情は、王太子妃教育の最中には見たことのないものだった。
「あんな顔で笑うのか」
アルベルトは呆然と呟いた。
側近は、心の中でそっと手を合わせた。
殿下。
それは、あなたが婚約を破棄する前に気づくべきことだったのです。
しかし、もちろん口には出さなかった。
出せるわけがなかった。
何しろ、ローゼンベルク公爵家の抗議文は、まだ第二便が届く予定なのだから。
そして、聖女セレスティアは。
エレノアの手を握りながら、心の中で小さく決意していた。
もっと、好きになっていただきたい。
急がず、焦らず。
いつかエレノアが、自分から手を伸ばしてくれる日まで。
ただし。
次にアルベルトがエレノア様を取り戻そうとしたら。
少しくらい、わたくしだって怒ってもよろしいですよね?
聖女様の微笑みは、今日も美しかった。
そして、その胸の内には、ほんの少しだけ。
恋する乙女の、一途な感情が芽生え始めていたのである。




