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「お嬢様。大変でございます!」
朝食の席で、侍女のマリアが駆け込んでまいりました。
手には、一通の封書。
白い封蝋には、王国聖教会の紋章が刻まれております。
嫌な予感がいたします。
「マリア。まずは落ち着きなさいませ。淑女が朝から走るものではありませんわ」
「申し訳ございません! ですが、こちらを!」
「何ですの?」
「聖女セレスティア様から、お手紙が届いております!」
…………。
わたくしは、手にしていたフォークを静かに置きました。
「お手紙?」
「はい!」
「昨日もお会いしましたわよね?」
「はい!」
「その際、次は植物園へ行きましょうとお約束しましたわよね?」
「はい!」
「でしたら、なぜ朝一番にお手紙が?」
「わたくしにもわかりません!」
マリアは、なぜか少し楽しそうでした。
まったく。
最近、我が家の侍女たちは主人の心配よりも恋愛沙汰への興味を優先しているような気がいたします。
わたくしは封を切りました。
中には、上質な便箋が一枚。
美しい筆跡で、こう記されておりました。
『ローゼンベルク公爵閣下。
突然のお手紙を失礼いたします。
わたくし、セレスティア・フォン・アウレリアは、エレノア様との将来について、正式にご相談申し上げたく存じます。
つきましては、本日、ローゼンベルク公爵家を訪問させていただけないでしょうか。
何卒よろしくお願い申し上げます。
セレスティア』
…………。
わたくしは、手紙をそっと机に置きました。
そして、目を閉じました。
深呼吸。
吸って。
吐いて。
もう一度。
……落ち着きませんわ!
「マリア!」
「はい、お嬢様!」
「お父様は!?」
「すでにお手紙をご覧になり、たいへんお喜びでございます!」
「なぜ!?」
「『うちの娘も、ついに春が来たか!』と!」
「まだ春ではありませんわ!!」
わたくしは椅子から立ち上がりました。
いったい何をお考えなのです、お父様!
わたくしは、まだセレスティア様と恋人ですらありませんのよ!?
一緒に街を歩いたのが一度。
お食事をしたのが一度。
手をつないだのが……。
……。
……手を、つないだ?
「お嬢様?」
「な、何でもありません!」
いけません。
今はそんなことを考えている場合ではないのです。
とにかく、お父様に事情を説明しなければ!
〜〜〜
「お父様!」
「おお、エレノア。ちょうどよかった!」
執務室に飛び込んだわたくしを、お父様は満面の笑みで迎えてくださいました。
机の上には、セレスティア様からの手紙。
その横には、なぜか我が家の家系図まで広げられております。
……何をなさっているのです?
「お父様。まさかとは思いますが、セレスティア様からの申し出をお受けになるおつもりではございませんわよね?」
「当然だろう!」
「よかったですわ!」
「もちろん、まずは本人同士の気持ちを確認したうえで、正式な婚姻の手続きについて話し合うつもりだ!」
「よくありませんわ!!」
お父様は、きょとんとなさいました。
「何をそんなに慌てているのだ?」
「だって、わたくしたちはまだ!」
「まだ?」
「その、恋人ではございません!」
「ほう」
お父様は、顎に手を当てました。
「つまり、これから恋人になる可能性はあるのだな?」
「どうしてそうなるのです!?」
「いや、昨日の夕方、王都の商人から興味深い話を聞いてな」
「何のお話です?」
「聖女様とお前が、仲睦まじく手をつないで街を歩いていたそうだ」
「…………」
あの王都!
噂が広まるのが早すぎませんこと!?
「しかも、聖女様はお前の話を聞きながら、終始幸せそうに微笑んでいたとか」
「それは」
「お前も、ずいぶん楽しそうだったと聞いたぞ」
「……」
わたくしは、言葉に詰まりました。
確かに。
セレスティア様と過ごした時間は、楽しかったのです。
彼女は、わたくしの話を真剣に聞いてくださいました。
領地のことも、街の商人たちのことも。
わたくしが普段、周囲に話してもなかなか理解してもらえないことにまで、興味を持ってくださいました。
それは、とても嬉しいことでした。
けれど。
「お父様。わたくしは、まだ自分の気持ちがわかりませんの」
正直に申し上げました。
「セレスティア様のお気持ちは、ありがたく思っております。ですが、わたくしは恋愛というものをよく存じません。お相手を好きなのかどうかさえ、まだ」
「そうか」
お父様は、少しだけ表情を和らげました。
「ならば、焦る必要はない」
「お父様?」
「結婚は、お前の人生だ。私が決めることではない」
その言葉に、胸が少しだけ温かくなりました。
さすがはお父様。
わたくしの気持ちを理解してくださったのですね。
「ただし」
「ただし?」
「聖女様が本気でお前を望んでいるのなら、一度はきちんとお話をしてみたい」
「……」
「お前が大切に思われているのなら、父親として、そのお相手がどのような人物なのか知りたいのだ」
……それは。
確かに、もっともなお話ですわね。
お父様は、ゆっくりと微笑まれました。
「安心しなさい。結婚を強制するつもりはない。ただ、聖女様の本気度くらいは確かめさせてもらおう」
「本気度?」
「うむ」
その瞬間、お父様の目が、商談に臨むときの鋭いものに変わりました。
「娘を嫁がせるかどうかの話だ。相応の覚悟を見せてもらわねばな」
……。
……セレスティア様。
どうか、ご無事で。
わたくしのお父様は、王国の財務大臣を三人泣かせた男なのです。
〜〜〜
その日の午後。
ローゼンベルク公爵家の応接室に、聖女セレスティア様がいらっしゃいました。
「本日はお招きいただき、誠にありがとうございます」
美しい礼。
落ち着いた声音。
完璧な淑女の所作。
さすがは王国の聖女様です。
普段の、わたくしに求婚してくるときの勢いが嘘のようですわ。
「うむ。よく来てくださった、セレスティア殿」
お父様も、威厳たっぷりに頷きました。
わたくしは二人の間に座りながら、そっと息を呑みました。
始まりますわね。
公爵家当主と、王国の聖女。
二人の真剣勝負が。
「では、早速ですが」
お父様が口を開きました。
「本日は、娘との将来について相談したいとのことでしたな」
「はい」
セレスティア様は、真剣な表情で頷かれました。
「わたくしは、エレノア様を心からお慕いしております。将来をともに歩みたいと考えております」
「ふむ」
お父様は、手元の書類に目を落としました。
「では、まず一つ。あなたは、エレノアのどこを好いておられるのかな?」
「はい!」
セレスティア様は、即答なさいました。
「すべてです!」
「すべて?」
「はい!」
「髪も?」
「大好きです!」
「瞳も?」
「もちろんです!」
「声も?」
「ずっと聞いていたいです!」
「性格も?」
「尊敬しております!」
「……」
お父様の手が止まりました。
わたくしは、そっと顔を覆いました。
お父様。
その質問では、セレスティア様の勢いを止めることはできませんわ。
「なるほど。では、娘が病に倒れ、領地経営もできず、以前のような美しさを失ったとしても?」
「わたくしが看病いたします!」
「娘が財産を失い、公爵家の名誉もなくしたとしても?」
「わたくしが働きます!」
「娘があなたに対して、いつまでも恋愛感情を持てなかったとしても?」
「……」
セレスティア様が、初めて言葉を止めました。
応接室に静寂が訪れます。
お父様は、じっと彼女を見つめておられました。
「あなたは、娘に愛されることを望んでいるのではありませんか?」
「はい」
セレスティア様は、静かに頷かれました。
「もちろん、わたくしを愛してくださったなら、これ以上の幸せはございません」
そして、少しだけ寂しそうに微笑みました。
「ですが、エレノア様がわたくしを愛せないのなら……そのお気持ちを、無理に変えていただこうとは思いません」
「……」
「わたくしは、エレノア様に幸せになっていただきたいのです。それが、わたくしの隣でなくても」
胸の奥が、きゅっと締めつけられました。
……どうして。
どうして、この方は。
あんなにも大胆に求婚してくるくせに。
肝心なところでは、こんなにも優しいのでしょう。
セレスティア様は、わたくしを見つめました。
「もちろん、諦めるつもりはございませんけれど!」
「はい?」
「好きになっていただけるよう、精一杯努力いたします!」
「……」
「でも、最後に決めるのはエレノア様です!」
……。
……ああ。
もう。
本当に、ずるい方ですわ。
そんなことを言われたら。
少しくらい、この方のことを好きになってみたいと思ってしまうではありませんか。
〜〜〜
「セレスティア殿」
お父様が、静かに口を開きました。
「あなたのお気持ちは、よくわかりました」
「はい」
「しかし、まだ一つ、聞いておきたいことがあります」
「何なりと」
お父様は、書類を閉じました。
そして。
「あなたは、娘のどのようなところに惹かれたのですか?」
「先ほど、すべてと申し上げましたが」
「いや、そうではなく」
お父様は、真剣な顔で続けました。
「あなたにとって、エレノアはどのような存在なのですか?」
セレスティア様は、しばらく黙っておられました。
やがて。
「わたくしは」
彼女は、そっと胸元に手を当てました。
「聖女として、多くの方々を救うことを求められてまいりました」
「……」
「誰かの役に立つこと。誰かの期待に応えること。皆様に笑顔を届けること。それが、わたくしの役目だと思っておりました」
セレスティア様は、微笑みました。
「ですが、エレノア様と出会ってから、少しだけ変わったのです」
「ほう」
「エレノア様は、わたくしを聖女としてだけではなく、一人の人間として扱ってくださいました」
「……」
「わたくしが何を考え、何を望み、何をしたいのか。そういうことを、当たり前のように尋ねてくださったのです」
わたくしは、思わず顔を上げました。
……そんなこと。
わたくしは、ただ当然のことをしただけです。
聖女様だろうと、王族だろうと、一人の人間であることに変わりはないのですから。
「わたくしは、エレノア様の隣にいると、自分が聖女であることを忘れそうになるのです」
セレスティア様は、少し恥ずかしそうに笑いました。
「ただのセレスティアとして、笑ったり、悩んだり、好きな方のことを考えて眠れなくなったり」
「……」
「そんな自分も、いてよいのだと思えるようになりました」
胸が、どくりと鳴りました。
わたくしは、何も言えませんでした。
彼女の言葉は、思っていたよりもずっと深いところに届いたのです。
「ですから」
セレスティア様は、わたくしを見つめました。
「わたくしは、エレノア様と一緒に生きていきたいのです」
静かな声でした。
けれど、その瞳には、揺るぎない想いが宿っておりました。
「どちらかが相手を救うのではなく。どちらかが相手に尽くすだけでもなく。お互いに支え合いながら、同じ景色を見ていきたいのです」
……。
……困りましたわね。
こんなにも真剣に想いを伝えられて。
どうして、何も感じずにいられるでしょう。
わたくしは、膝の上でそっと手を握りました。
〜〜〜
「よろしいでしょう」
やがて、お父様がおっしゃいました。
「セレスティア殿。あなたのお気持ちは、十分に伝わりました」
「ありがとうございます」
「ただし、結婚については、娘本人の意思を最優先とします。こちらから返答を急がせることはいたしません」
「はい。承知しております」
「そして、もう一つ」
お父様は、少しだけ口元を緩めました。
「娘を泣かせたら、聖女であろうと容赦はしませんぞ」
「……!」
セレスティア様は、背筋を伸ばしました。
「はい! エレノア様を泣かせるようなことがあれば、わたくし自身を許しません!」
「うむ。よい返事だ」
お父様。
何だか、話がまとまりかけておりませんこと?
わたくし、まだ何も決めておりませんのよ!?
「それでは、本日はここまでとしましょう」
お父様が立ち上がりました。
「セレスティア殿。また、いつでもいらしてください」
「ありがとうございます!」
こうして、面接は終了いたしました。
……いえ。
面接ではございませんわよね?
ただ、結婚の申し込みについてお話ししただけですものね?
そう自分に言い聞かせながら、わたくしはセレスティア様を玄関までお送りすることにいたしました。
〜〜〜
「本日は、ありがとうございました」
玄関先で、セレスティア様が頭を下げました。
「お父様も、あなたのお気持ちは理解してくださったと思いますわ」
「はい。とても緊張いたしました」
「そうでしょうね」
「でも、エレノア様のお父様ですもの。きちんとお話ししたかったのです」
セレスティア様は、そっと微笑みました。
「わたくし、少しでもエレノア様にふさわしい人間になりたいのです」
「……」
「今はまだ、エレノア様のお気持ちに応えることができなくても。いつか、わたくしと一緒にいる未来を、少しだけ考えていただけるように」
その言葉に。
わたくしは、思わず彼女の袖をつかんでおりました。
「セレスティア様」
「はい?」
「あまり、無理をなさらないでくださいませ」
「え?」
「あなたは、もう十分に素晴らしい方ですわ」
言ってしまいました。
口にした瞬間、顔が熱くなりました。
「そ、それに! わたくしは、あなたにふさわしいかどうかなど、考えたこともございません!」
「……」
「ですから、その」
わたくしは、視線を逸らしました。
「そんなに頑張らなくても、よろしいのです」
沈黙。
そして。
「エレノア様」
「は、はい?」
「今、わたくしのことを、素晴らしいと?」
「……っ!」
しまった!
この方は、そこに食いつくのですか!?
「そ、それは一般論ですわ!」
「一般論」
「ええ!」
「では、個人的には?」
「個人的!?」
セレスティア様は、期待に満ちた瞳でわたくしを見つめておられました。
……。
……。
わたくしは、観念いたしました。
「個人的にも、素晴らしい方だと思っておりますわ」
その瞬間。
セレスティア様は、両手で顔を覆いました。
「……っ、ああ……!」
「セ、セレスティア様!?」
「わたくし、今日という日を生きたまま終えられるでしょうか……!」
「何をおっしゃっているのです!?」
「エレノア様に、個人的にも素晴らしいと……!」
「ですから、大げさですわ!」
「大げさではございません!」
彼女は、真っ赤な顔でこちらを見つめました。
「ありがとうございます。わたくし、もっと頑張れそうです」
その笑顔を見て。
わたくしは、なぜだか胸が温かくなるのを感じました。
……ああ。
この方が喜んでくださると、わたくしまで嬉しくなってしまう。
これは、いったい何なのでしょう。
友情?
尊敬?
それとも。
「エレノア様?」
「何でもございませんわ」
わたくしは、そっと手を離しました。
「また、お会いいたしましょう」
「はい!」
セレスティア様は、嬉しそうに頷きました。
馬車が走り去るまで、わたくしは玄関先に立っておりました。
そして、姿が見えなくなったところで。
「マリア」
「はい、お嬢様」
いつの間にか隣にいた侍女が、にこにこと笑っておりました。
「わたくし」
「はい」
「少しだけ、次にお会いするのが楽しみになってしまいましたわ」
マリアは、満面の笑みを浮かべました。
「まあ! それは素晴らしいことでございます!」
「ち、違います! そういう意味では!」
「はいはい。存じております」
「絶対にわかっておりませんわよね!?」
ローゼンベルク公爵家の玄関に、わたくしの悲鳴が響き渡りました。
……。
……恋というものは。
どうして、こうも厄介なのでしょう。




