13
「本日は、わたくしがエレノア様をご案内いたしますね」
待ち合わせ場所に現れたセレスティアは、いつもとは少し違う装いだった。
聖女としての白い法衣ではない。
淡い水色のワンピースに、控えめな刺繍の入った白いショール。金色の髪も、いつものように華やかに結い上げず、ゆるくまとめている。
「まあ。今日はいつもと雰囲気が違いますわね」
「おかしいでしょうか?」
「いいえ。とてもお似合いですわ」
「本当ですか?」
「ええ」
セレスティアは、ぱっと笑顔になった。
「よかったです。今日は、エレノア様に見ていただきたい場所があるので、少しだけおしゃれをしてみたのです」
「わたくしのために?」
「はい」
あまりにも自然に返されたため、エレノアは一瞬だけ言葉に詰まった。
(……こういうところですわね)
最近、セレスティアの言葉にどう反応すればよいのか分からなくなることが増えた。
どうやら彼女は、こちらの心の準備などお構いなしに、まっすぐな言葉を投げてくるらしい。
「では、参りましょうか」
「はい!」
セレスティアは嬉しそうに手を差し出した。
エレノアは少しだけ考えた後、その手を取った。
〜〜〜
馬車で王都を離れること、およそ一時間。
二人がたどり着いたのは、森の奥にある小さな丘だった。
「ここは?」
エレノアは周囲を見回した。
木々の間を抜ける風は心地よく、鳥のさえずりが聞こえる。
丘の上には、小さな石造りの建物が一つ建っていた。
「昔、わたくしがまだ聖女候補だった頃、よく来ていた場所なのです」
「聖女候補だった頃?」
「はい。まだ何もできなかった頃ですね」
セレスティアは、懐かしそうに建物を見つめた。
「わたくしは幼い頃から、周囲の方々に聖女として期待されていました。魔力が強く、治癒の力も持っていたので、当然のようにそういう人生を歩むのだと思っていたのです」
「そうでしたの」
「でも、時々、息苦しくなることがありました」
彼女は建物の扉を開いた。
中は小さな礼拝堂のようになっていた。
長椅子が数脚と、小さな祭壇。
窓から差し込む光が、床に柔らかな模様を描いている。
「ここでは、誰もわたくしを聖女様とは呼びませんでした」
「誰も?」
「ええ。ここを管理している老夫婦がいたのですが、わたくしのことを、ただのセレスと呼んでくれたのです」
セレスティアは、少し照れたように笑った。
「初めて名前だけで呼ばれたときは、嬉しかったですね」
エレノアは静かに彼女を見つめた。
「それで、ここへ通っていらしたのですね」
「はい。ここにいると、自分が何者なのかを考えずに済みました」
セレスティアは窓辺へ歩いていった。
「今はもう、あの老夫婦も亡くなってしまいました。建物の管理は教会が引き継いでいますが、訪れる人はほとんどいません」
「そうでしたの」
「だから、ここはわたくしにとって秘密の場所なのです」
セレスティアは振り返った。
「エレノア様に、最初に見ていただきたかったのです」
その言葉に、エレノアは胸の奥が温かくなるのを感じる。
「ありがとうございます」
「こちらこそ、来てくださってありがとうございます」
二人は長椅子に並んで腰を下ろした。
しばらく、静かな時間が流れる。
やがてセレスティアが口を開いた。
「エレノア様」
「はい?」
「わたくし、ここで一つだけお願いしてもよろしいでしょうか?」
「何でしょう?」
「今日だけは、わたくしのことを聖女様ではなく、ただのセレスティアとして扱っていただけませんか?」
エレノアは少し目を見開いた。
そして、微笑んだ。
「もちろんですわ」
「本当ですか?」
「ええ。わたくしにとって、あなたは最初からセレスティアですもの」
セレスティアの瞳が揺れた。
「ありがとうございます」
その声は、いつもより少しだけ小さかった。
〜〜〜
昼食は、丘の近くにある小さな村の食堂で取ることになった。
貴族御用達の高級店とは違い、木製のテーブルに素朴な料理。
焼きたてのパンと野菜のスープ、香草で味付けされた鶏肉。
エレノアは料理を一口食べると、感心したように頷いた。
「これは美味しいですわね」
「でしょう? 昔からお気に入りのお店なのです」
「香草の使い方が絶妙ですわ。特にこのソースは……」
エレノアの目が輝き始めた。
「店主殿、少しお尋ねしてもよろしいでしょうか?」
「はい?」
「この香草は、村で栽培しているものですの?」
「ええ。裏の畑で育てていますよ」
「土壌は?」
「えっ?」
「水はけや日照条件はどのように管理されているのでしょう?」
「ええと」
セレスティアは、にこにことその様子を見ていた。
(ふふ。始まりましたね)
エレノアは食事を楽しみながら、いつの間にか村の農業事情について熱心に聞き始めていた。
店主も最初は戸惑っていたが、相手が公爵令嬢だと知ると、むしろ嬉しそうに話し始める。
「実は最近、畑の収穫量が落ちていましてね」
「それでしたら、輪作を見直してみるのはいかがでしょう?」
「輪作?」
「同じ作物ばかりを育て続けると、土壌の栄養が偏ってしまいますでしょう? 豆類を間に挟む方法もございますわ」
「なるほど!」
セレスティアは、パンをちぎりながら二人を眺めていた。
(やっぱり、素敵です)
エレノアはいつもこうだ。
誰かの話を聞くとき、相手の身分や立場ではなく、その人が何に困っているのかを考える。
そして、できることを探そうとする。
それは五年前、孤児院で見た姿と変わらない。
セレスティアはそっと微笑んだ。
「セレスティア?」
「はい?」
「どうかなさいましたか?」
「いいえ。エレノア様が楽しそうで、わたくしも嬉しいのです」
「そう…ですか?」
「はい」
エレノアは少しだけ頬を赤くした。
「あなたといると、普段は気づかないことにも目が向きますわね」
「わたくしといると?」
「ええ。楽しいですもの」
セレスティアは、思わず手で口元を覆った。
「エレノア様」
「はい?」
「今の言葉、もう一度お願いできますか?」
「え?」
「楽しい、と」
「聞こえていたでしょう?」
「聞こえていました。でも、もう一度聞きたいのです」
エレノアは困ったように笑った。
「まったく……。あなたは欲張りですわね」
「エレノア様の言葉に関しては、少し欲張りになってしまうのです」
「そういうものですの?」
「そういうものです」
エレノアは小さく息を吐いた。
「あなたといると、楽しいですわ」
セレスティアは、幸せそうに笑った。
〜〜〜
食堂を出た二人は、村の小さな市場を歩いていた。
野菜や果物、手作りの雑貨が並んでいる。
「エレノア様、あちらをご覧ください」
セレスティアが指差した先には、小さな髪飾りが並んでいた。
木の実や花を模した、素朴な品々だ。
「可愛らしいですわね」
「気になるものはありますか?」
「そうですね」
エレノアはしばらく眺めてから、淡い青色の小花を模した髪飾りを手に取った。
「これなど、素敵ですわ」
「よくお似合いになりそうです」
「そうでしょうか?」
「はい。エレノア様の髪に、きっと映えます」
セレスティアは店主に代金を支払った。
「セレスティア?」
「今日はわたくしからのお誘いですから。これくらいはさせてください」
「ですが」
「贈り物です。受け取っていただけませんか?」
エレノアは髪飾りを見つめた。
そして、そっと微笑んだ。
「ありがとうございます。大切にいたしますわ」
「よかった……!」
セレスティアの顔がぱっと明るくなる。
その様子を見ていた店主が、微笑ましそうに声をかけた。
「お二人は、とても仲がよろしいんですねえ」
「はい!」
セレスティアが即答した。
「大切な方なんです」
「まあ」
エレノアは一瞬、言葉を失った。
店主は楽しそうに笑う。
「それは何より。大切な人とのお出かけは、いつだって特別ですからね」
「そうですね」
セレスティアは、エレノアを見つめる。
「わたくしにとって、今日は特別な日です」
エレノアは、なぜか返事ができなかった。
しかしその胸の奥はなぜか温かい。
〜〜〜
帰りの馬車。
窓の外には、夕暮れの森が広がっていた。
エレノアは、手元の髪飾りを眺めていた。
「気に入っていただけましたか?」
セレスティアが尋ねる。
「ええ。とても」
「よかったです」
「セレスティア」
「はい?」
「今日は、素敵な場所へ連れていってくださって、ありがとうございました」
「いいえ。わたくしの方こそ」
セレスティアは、少しだけ迷うように視線を落とした。
「実は、少し怖かったのです」
「怖かった?」
「はい。ここは、わたくしにとって大切な場所ですから。エレノア様に気に入っていただけなかったら、どうしようと思っていました」
「そんなことを心配していらしたのですか?」
「はい」
エレノアは、少し考えた。
それから、セレスティアの手を取った。
「わたくしは、あなたが大切にしているものを知ることができて、とても嬉しいですわ」
「……!」
「あなたが好きな場所。好きな食べ物。昔の思い出。そういうことを、もっと知りたいと思いました」
セレスティアは目を見開いた。
「もっと、知りたい……?」
「ええ。あなたのことを」
馬車の中に、静かな沈黙が落ちた。
セレスティアは、握られた手を見つめていた。
「エレノア様」
「はい?」
「それは、わたくしにとって……とても嬉しいことです」
「そうですか」
「はい。わたくしも、エレノア様のことをもっと知りたいです」
「わたくしのこと?」
「ええ。好きな花も、好きな本も、苦手なことも。子どもの頃の思い出も。これから叶えたい夢も」
セレスティアは微笑んだ。
「全部、知りたいのです」
エレノアは少しだけ目を伏せた。
(不思議ですわね)
自分のことを知りたいと言われるのは、これまで何度もあった。
公爵令嬢としての能力。
王太子妃としての資質。
領地経営の手腕。
そういったものを知りたい人間は、いくらでもいた。
けれど、ただの自分を知りたいと言われたことは、あまりなかった。
「では、少しずつお話ししますわ」
「はい!」
「ただし、退屈な話もございますわよ?」
「どんなお話でも聞きたいです」
「本当に?」
「本当です」
セレスティアは、握られた手をそっと握り返した。
〜〜〜
その夜。
エレノアの部屋では、マリアが新しい髪飾りを眺めていた。
「まあ。素敵な髪飾りですね」
「セレスティアからいただきましたの」
「それはそれは」
「今日、彼女の大切な場所へ連れていってもらったのです」
エレノアは、今日の出来事を簡単に話した。
秘密の礼拝堂。
村の食堂。
市場での買い物。
そして、セレスティアが見せてくれた笑顔。
マリアは最後まで黙って聞いていた。
「お嬢様」
「何でしょう?」
「今日、とても楽しかったのですね」
「ええ。とても」
「セレスティア様といると、自然に笑顔になられるのですね」
エレノアは少し考えた。
「そうかもしれませんわ」
「以前より、ずっと表情が柔らかくなられました」
「そうでしょうか?」
「はい」
マリアは髪飾りをそっと机に置いた。
「お嬢様。セレスティア様のことを、もっと知りたいと思われたのですよね?」
「ええ」
「それは、どうしてでしょう?」
「どうして……?」
エレノアは考え込んだ。
なぜだろう。
彼女が何を好きなのか知りたい。
何を食べると喜ぶのか知りたい。
どんな景色が好きで、どんなときに寂しくなるのか知りたい。
彼女が笑っていると嬉しい。
彼女が悲しそうにしていると、放っておけない。
「分かりませんわ」
「そうですか」
「ただ、知りたいのです」
マリアは優しく微笑んだ。
「それなら、今はそれでよろしいのではないでしょうか」
「そうですわね」
エレノアは髪飾りを手に取った。
そして、鏡の前で自分の髪に当ててみる。
淡い青色の花が、金色の髪によく映えた。
「……似合いますわね」
「ええ。とても」
「明日、これをつけてみようかしら」
「ぜひ」
エレノアは鏡の中の自分を見つめた。
その顔は、いつもより少しだけ幸せそうだった。
〜〜〜
一方、その頃。
聖女の私室では、セレスティアが今日の思い出を日記に書き留めていた。
『今日はエレノア様と秘密の場所へ行きました。
わたくしの大切な場所を、エレノア様も大切に思ってくださいました。
そして、もっとわたくしのことを知りたいと言ってくださいました。
嬉しくて、胸がいっぱいです。
いつか、エレノア様にとっても、わたくしが特別な存在になれたら嬉しいです』
書き終えたセレスティアは、ペンを置いた。
「特別、か」
彼女は窓の外を眺めた。
月明かりが、部屋を優しく照らしている。
「いつか、エレノア様からも、わたくしを選んでいただける日が来るのでしょうか」
少しだけ不安になる。
けれど、今日のエレノアの言葉を思い出すと、自然と笑顔になれた。
「急がなくてもいいですよね」
彼女は日記を閉じた。
「だって、これからも一緒にいられるのですから」
〜〜〜
その頃、エレノアの部屋では月光草が淡く光っていた。
まるで、二人の心が少しずつ近づいていることを祝福するかのように。
ただし。
その変化に、当の本人だけは、まだ気づいていなかった。
――恋というものは、どうやら本人が一番気づきにくいようだ。




