12
「王太子殿下から、正式な面会の申し入れですか?」
エレノアは、朝食後に届けられた一通の書状を手に、眉をひそめた。
差出人はアルベルト王太子。
宛先は、聖女セレスティア。
内容は、聖女としての今後の活動について意見を交わしたい、というものだった。
表向きは、実にもっともらしい。
しかし。
「どう考えても、わたくしとのことを問いただしたいのでしょうね」
「おそらくは」
マリアが紅茶を注ぎながら、あっさりと答えた。
「王太子殿下も懲りませんね」
「そうですわね」
エレノアは書状を机に置いた。
以前の彼女なら、アルベルトからの面会など、淡々と断っていただろう。
しかし、今回は違った。
セレスティアが呼び出される。
その事実が、どうにも気に入らなかった。
「わたくしも同行いたしますわ」
「よろしいのですか?」
「ええ。セレスティアを一人で行かせる理由もございませんもの」
マリアは、にこりと微笑んだ。
「まあ」
「……何ですの?」
「いえ。最近のお嬢様は、ずいぶんと積極的になられたなと思いまして」
「当然ですわ。これは外交上の問題ですもの」
「外交、でございますか」
「そうですわ」
「王太子殿下との面会に、そこまで熱心になられるのですね」
「当然ですわ!」
エレノアは胸を張った。
マリアは何も言わなかった。
ただ、たいへん楽しそうに紅茶を注いでいた。
〜〜〜
その日の午後。
王宮の応接室には、アルベルト王太子と側近が待っていた。
先に到着していたセレスティアは、エレノアの姿を見つけると、ぱっと表情を明るくした。
「エレノア様!」
「お待たせいたしましたわ、セレスティア」
「いえ。来てくださってありがとうございます」
「当然ですわ」
エレノアは隣に腰を下ろした。
セレスティアは少しだけ頬を赤くする。
二人の様子を見ていたアルベルトは、わずかに眉を寄せた。
「エレノア。君まで来るとは思わなかった」
「わたくしが来てはいけない理由でもございますか?」
「いや、そういうわけではない。ただ、これは聖女との公的な面会だ」
「でしたら、なおさら問題ございませんわね。わたくしも公爵家の人間ですもの」
「そうか」
アルベルトは咳払いをした。
「では、さっそく本題に入ろう。セレスティア殿。先日、隣国の公爵家からの縁談を断ったと聞いた」
「はい」
「理由を聞かせてもらいたい」
「お断りしたかったからです」
「それだけでは理由にならないだろう」
「わたくしは、結婚したい相手がいるのです」
セレスティアは、隣に座るエレノアを見た。
その視線に気づいたエレノアは、少しだけ姿勢を正した。
アルベルトの表情が曇る。
「やはり、エレノアのことか」
「はい」
「なぜ、そこまで彼女にこだわる?」
「こだわる、ですか?」
セレスティアは少し考えた。
そして、穏やかな声で答えた。
「エレノア様と一緒にいると、わたくしは聖女でなくてもよいと思えるのです」
「何?」
「誰かの期待に応えるためではなく、ただのセレスティアとして笑っていられる。そんな時間をくださる方なのです」
アルベルトは理解できないという顔をした。
「それならば、私だって君を尊重できる。聖女としての君を大切に扱うこともできる」
「ありがとうございます。ですが、それはわたくしが望んでいることとは違います」
「何が違う?」
「アルベルト殿下は、わたくしを聖女として見ていらっしゃいます」
セレスティアは微笑んだ。
「エレノア様は、わたくしを一人の人間として見てくださいます」
その言葉に、エレノアは小さく目を見開いた。
自分がそんなふうに思われていたとは、知らなかった。
「なるほど」
アルベルトはエレノアへ視線を移した。
「エレノア。君はどうなんだ?」
「どう、とは?」
「セレスティア殿のことだ。君は本当に彼女と結婚するつもりなのか?」
「まだ、そのような返事はしておりませんわ」
「ならば、私にもまだ可能性があるのではないか?」
その瞬間。
セレスティアの表情が、ほんの少しだけ曇った。
エレノアはそれを見逃さなかった。
「殿下」
「何だ?」
「わたくしとの婚約を破棄なさったのは、殿下ですわ」
「それは」
「そして、その場でセレスティアに求婚なさったのも殿下です」
「そうだ」
「そのセレスティアに断られたからといって、今度はわたくしに戻ってこられるのですか?」
アルベルトは言葉に詰まった。
「違う。私はただ、もう一度君と話し合いたいだけだ」
「話し合うことなら、以前にも何度もございましたわ」
エレノアは静かに続けた。
「わたくしは殿下の隣に立つために、礼儀作法も政治も外交も学びました。王妃となるために必要だと言われたことは、すべて身につけようと努力いたしました」
「それは知っている」
「いいえ。殿下はご存じなかったのだと思いますわ」
エレノアの声は、少しも荒れていなかった。
だからこそ、その言葉は重かった。
「殿下は、わたくしが何を好きで、何を嫌いで、何を望んでいたのか、ご存じでしたか?」
アルベルトは答えられない。
「わたくしが王宮の庭園よりも領地の農園を好むことをご存じでしたか? 華やかな舞踏会より、商人たちの帳簿を眺める方が楽しいことをご存じでしたか?」
「……」
「わたくしは、殿下の婚約者として必要な役割を果たそうとしていただけです。殿下も、わたくしをその役割を果たす人間として見ていらしたのでしょう」
エレノアは一度、息をついた。
「ですから、もう戻るつもりはございません」
沈黙する、アルベルト。
そしてエレノアは隣に座るセレスティアを見た。
セレスティアは、心配そうにこちらを見つめている。
その顔を見た途端、エレノアの胸の奥が少し温かくなった。
「わたくしは、今の生活が気に入っておりますの」
「今の生活?」
「ええ。好きな時間に本を読み、領地のことを考え、庭の薬草を育て、セレスティアとお茶を飲む。とても充実しておりますわ」
「セレスティアと、お茶を?」
「はい。とても楽しい時間ですの」
アルベルトは、何かを言おうとして口を閉じた。
そして、今度はセレスティアへ向き直った。
「君は本当に、エレノアと結婚したいのか?」
「はい」
「王族や教会から反対される可能性もある。聖女としての立場もある。簡単なことではないぞ」
「承知しております」
「それでもか?」
「それでもです」
セレスティアは迷わなかった。
「わたくしは、誰かに決められた人生ではなく、自分で選んだ人生を歩みたいのです」
「……」
「そして、その隣にいてほしい方がエレノア様なのです」
その言葉を聞いて、エレノアは思わずセレスティアの手元を見た。
彼女の指先が、わずかに震えていた。
緊張しているのだろう。
エレノアはそっと手を伸ばした。
そして、テーブルの下でセレスティアの手を握った。
セレスティアが驚いてこちらを見る。
エレノアは小さく微笑んだ。
大丈夫ですわ。
言葉にはしなかったが、そんな気持ちを込めた。
セレスティアの指先から、少しずつ力が抜けていく。
その様子を見ていたアルベルトは、複雑な表情を浮かべていた。
「君たちは、本当にそういう関係なのか」
「殿下」
エレノアは、少しだけ声を低くした。
「わたくしたちの関係を、殿下に認めていただく必要はございませんわ」
「何?」
「わたくしが誰を大切に思うかは、わたくしが決めます」
エレノアはセレスティアの手を、もう一度しっかりと握った。
「そして、セレスティアが誰を選ぶかも、セレスティア自身が決めることです」
静寂が落ちた。
やがてアルベルトは、深く息を吐いた。
「分かった。今日のところは、これ以上何も言わない」
「ありがとうございます」
「ただ、エレノア」
「何でしょう?」
「君がそこまで誰かを大切にする姿を、私は初めて見た」
エレノアは少し考えた。
「そうですわね。殿下の前では、そういう姿を見せる機会がございませんでしたから」
それは責める口調ではなかった。
ただの事実だった。
アルベルトは、返す言葉を見つけられなかった。
〜〜〜
王宮を出た後。
馬車に乗り込んだ二人は、しばらく無言だった。
先に口を開いたのはセレスティアだった。
「エレノア様」
「はい?」
「先ほどは、ありがとうございました」
「何のことでしょう?」
「手を握ってくださったことです」
「ああ」
エレノアは自分の手を見た。
「緊張していらっしゃるようでしたので」
「はい。とても緊張していました」
「そうでしたの」
「でも、エレノア様が手を握ってくださった瞬間、安心したのです」
セレスティアは、握られていた手をそっと見つめた。
「嬉しかったです」
「それなら、よかったですわ」
エレノアは微笑んだ。
しばらくして、セレスティアが小さく尋ねた。
「エレノア様は、わたくしのことを大切に思ってくださっていますか?」
「もちろんですわ」
即答だった。
セレスティアの目が大きくなる。
「もちろん、ですか?」
「ええ。先ほども申し上げましたでしょう?」
「はい……!」
セレスティアは嬉しそうに笑った。
その笑顔を見て、エレノアはなぜか胸がくすぐったくなった。
「ですが、セレスティア」
「はい?」
「わたくしは、まだ恋愛というものがよく分かっておりません」
「承知しております」
「ですから、今後も少しずつ教えていただけると助かりますわ」
セレスティアは、しばらく固まった。
「エレノア様」
「はい?」
「それは、わたくしにとって、とても大切なお言葉です」
「そうなのですか?」
「はい。わたくし、これからも頑張れます」
セレスティアは、両手で自分の頬を包んだ。
どうやら、嬉しさを抑えきれないらしい。
エレノアは首を傾げた。
(恋愛とは、なかなか不思議なものですわね)
〜〜〜
その夜。
公爵邸に戻ったエレノアを、マリアが出迎えた。
「お帰りなさいませ、お嬢様。王太子殿下との面会はいかがでしたか?」
「特に問題はございませんでしたわ」
「それは何よりです」
「ただ、少し疲れましたわね」
「では、お茶をお持ちいたします」
「お願いしますわ」
エレノアは自室へ戻り、机の上に置かれた月光草を眺めた。
以前よりも、少しだけ花が開いている。
今日、セレスティアと手を握ったことを思い出す。
彼女の手は温かかった。
震えていた指先。
安心したように緩んだ表情。
そして、あの笑顔。
「また会いたいですわね」
ぽつりと呟いた。
その瞬間。
月光草が、淡く光った。
「まあ」
エレノアは目を細めた。
「あなたも、そう思いますの?」
もちろん、花は答えない。
けれど、エレノアはその花を見つめながら、少しだけ笑った。
〜〜〜
その頃、王宮では。
アルベルトが一人、窓辺に立っていた。
「私は、何を見ていたのだろうな」
側近は答えなかった。
アルベルトは、かつての婚約者を思い返す。
いつも完璧で、礼儀正しく、何を頼んでもそつなくこなす女性。
だからこそ、彼女が何を望んでいるのかなど、考えたこともなかった。
彼女は自分の隣にいるものだと、勝手に思っていた。
「殿下。今後はいかがなさいますか?」
「しばらく、何もしない」
アルベルトは窓の外を見た。
「彼女が今、幸せそうに見えたからな」
それが本心なのか、諦めなのか。
本人にも、まだ分からなかった。
ただ一つ確かなことがある。
彼は初めて、エレノアが自分の知らない顔で笑う姿を見たのだった。
そして、その笑顔を引き出しているのは、自分ではない誰かなのだ。
〜〜〜
翌朝。
エレノアのもとに、一通の手紙が届いた。
差出人はセレスティア。
封を開けると、そこには短い文章が綴られていた。
『昨日はありがとうございました。
次のお休みに、またお会いできませんか?
今度は、わたくしからエレノア様をお誘いしたい場所がございます。
できれば、二人きりで』
エレノアは手紙を読み終えると、しばらく考え込んだ。
「二人きり」
背後から、マリアの声がした。
「お嬢様?」
「次のお休み、予定を空けておいてくださいませ」
「まあ。セレスティア様からのお誘いですか?」
「ええ。二人きりで行きたい場所があるそうですわ」
「それは楽しみですね」
「そうですわね」
エレノアは手紙を大切に畳んだ。
そして、誰にも聞こえないくらい小さな声で呟いた。
「楽しみですわ、セレスティア」
その頬は、ほんの少しだけ赤くなっていた。




