11
その噂を耳にしたのは、月光草の栽培記録をまとめていた午後のことだった。
「お嬢様。少々よろしいでしょうか?」
マリアが紅茶を運んできた。
「何ですの?」
「王都で少し気になる噂が流れているようです」
「噂?」
「はい。どうやら、聖女セレスティア様に縁談が持ち上がっているとか」
わたくしのペンが止まった。
「……縁談?」
「ええ。相手は隣国の公爵家のご子息だそうです。聖女様との婚姻を希望して、王宮に打診があったとか」
「…………」
わたくしは、ゆっくりとペンを置いた。
「そうですの」
「はい」
「それは、よいお話なのではありませんか?」
「お嬢様?」
「セレスティア様は美しく、聡明で、優しく、王国中から信頼されているお方ですもの。縁談が持ち上がるのも当然ですわ」
「そうですね」
「隣国の公爵家であれば、身分も申し分ないのでしょう?」
「そのようです」
「なるほど。大変結構なことですわね」
わたくしは、再びペンを手に取った。
しかし。
文字が書けない。
なぜだろう。
先ほどまで問題なく書けていたのに。
「お嬢様」
「何ですの?」
「ペン先が紙に触れておりませんよ」
「……」
見れば、確かにペン先は紙から浮いていた。
わたくしは、静かにペンを置いた。
「マリア」
「はい」
「その縁談について、もう少し詳しく教えていただけますか?」
「やはり気になりますか?」
「情報収集は大切ですわ」
「左様でございますか」
マリアは、にっこりと笑った。
その笑顔が、どうにも気に入らない。
◇
マリアの話によると、縁談を申し込んだのは隣国アウレリア公国の公爵家らしい。
相手は二十代後半の公爵家嫡男。
領地経営に優れ、外交にも明るく、容姿も整っているという。
しかも、過去に婚約歴はない。
「申し分ない方ですわね」
「そうですね」
「聖女様にふさわしいお相手なのでは?」
「お嬢様は、そう思われますか?」
「当然ですわ」
わたくしは紅茶を口に運んだ。
少し冷めている。
……いや、紅茶の温度など今はどうでもよい。
「それで、セレスティア様は何と?」
「まだ正式なお返事はされていないようです」
「そうですか」
「王宮も、聖女様のお気持ちを確認してから判断するとのことです」
「なるほど」
わたくしは、窓の外を見た。
庭園の月光草は、今日も元気に育っている。
セレスティア様がくださったもの。
あの方と一緒に研究したもの。
そして、あの方が訪ねてくださるたびに、花が美しく開く。
……。
もし、セレスティア様が隣国へ嫁がれたら?
月光草の栽培について、相談できなくなる。
植物園にも、一緒に行けなくなる。
食事も、散策も。
そして、あの笑顔も。
「…………」
わたくしは、慌てて首を横に振った。
いけません。
これは、あくまで植物研究の問題ですわ。
研究協力者が遠方へ行ってしまうのは、非常に困る。
それだけです。
決して、それだけではないような気もするけれど。
今は考えないことにしよう。
◇
その日の夕方。
セレスティア様から手紙が届いた。
『エレノア様。
近いうちにお会いできませんか?
少しご相談したいことがございます。
セレスティア』
「…………」
わたくしは手紙を見つめた。
相談。
もしかすると、縁談のことだろうか。
そうだとすれば、わたくしに何ができるだろう。
セレスティア様の人生は、セレスティア様自身が決めるべきだ。
わたくしが口を出すことではない。
それは分かっている。
分かっているのに。
「マリア」
「はい」
「すぐにお返事を出してくださいませ」
「どのように?」
「いつでもお越しください、と」
「承知いたしました」
マリアは手紙を受け取った。
そして、少しだけわたくしの顔を覗き込んだ。
「お嬢様」
「何ですの?」
「セレスティア様が遠くへ行かれるのは、お嫌ですか?」
「……」
「お嬢様?」
「そ、それは!」
わたくしは背筋を伸ばした。
「研究協力者がいなくなるのは困る、と申し上げているのです!」
「はい」
「それだけですわ!」
「左様でございますか」
マリアは、いつものように微笑んだ。
……本当に腹立たしい。
◇
翌日。
セレスティア様が屋敷を訪れた。
「エレノア様!」
「ようこそお越しくださいました」
わたくしは、いつも通りに迎えた。
いつも通り。
そう、いつも通りだ。
少なくとも、そう見えるように努力した。
「今日は、少しお話がありまして」
「はい。お手紙に書かれていたご相談でしょうか?」
「ええ」
セレスティア様は、少し困ったように笑った。
「実は、隣国から縁談のお話をいただいているのです」
やはり。
わたくしは、カップを持つ手に力を込めた。
「そうですの」
「はい。王宮にも正式な打診があったそうです」
「お相手は公爵家のご子息だとか」
「ご存じだったのですね」
「ええ。王都では噂になっておりますもの」
わたくしは、できるだけ平静を装った。
「それで、セレスティア様はどうなさるおつもりですか?」
「お断りするつもりです」
「……え?」
思わず聞き返してしまった。
セレスティア様は、少し驚いたように瞬きをした。
「わたくしは、結婚を望んでおりませんから」
「そ、そうなのですか?」
「はい」
「ですが、お相手は立派な方だと伺っておりますわ」
「そうですね。お会いしたことはありませんが、評判はよいようです」
「それならば」
言いかけて、わたくしは口を閉じた。
それならば、何だというのだろう。
良い相手なら、結婚すればよい。
そう言えばいいだけではないか。
しかし、言葉が出てこなかった。
「エレノア様?」
「……いえ」
セレスティア様は、わたくしの顔をじっと見つめた。
「もしかして、気になっていらっしゃいますか?」
「何がですの?」
「わたくしの縁談です」
「い、いえ! 特に!」
「本当ですか?」
「もちろんですわ!」
即答した。
少し早すぎたかもしれない。
セレスティア様は、何やら嬉しそうに微笑んだ。
「実は、わたくしも一つだけ気になっていたことがあるのです」
「何でしょう?」
「エレノア様は、わたくしが誰かと結婚してしまったら、どう思われますか?」
「…………」
困った。
非常に困った質問である。
「それは」
わたくしは考えた。
セレスティア様が誰かと結婚する。
その相手が、別の誰かになる。
そして、わたくしとは今までのように会えなくなる。
手をつなぐことも。
食事をすることも。
あの優しい笑顔を、わたくしだけに向けてもらうことも。
……。
「寂しいですわね」
気づけば、そう答えていた。
セレスティア様が息を呑んだ。
「エレノア様」
「もちろん、セレスティア様の幸せが一番です。ですが、今までのようにお会いできなくなるのは……少し寂しいと思います」
言いながら、自分でも驚いていた。
こんなことを口にするつもりではなかったのに。
セレスティア様は、しばらくわたくしを見つめていた。
そして、そっと微笑んだ。
「ありがとうございます」
「何がですの?」
「エレノア様が、わたくしと会えなくなることを寂しいと思ってくださったことです」
「そ、それは」
「わたくしも同じです」
セレスティア様は、わたくしの手に自分の手を重ねた。
「わたくしは、エレノア様と一緒にいたいのです。だから、縁談はお断りします」
「……」
「でも、エレノア様にそのための責任を感じてほしくはありません。わたくし自身が選んだことですから」
その言葉を聞いて、胸の奥が少しだけ軽くなった。
この方は、いつだってわたくしに選ばせてくださる。
そして、ご自身の選択も大切にしている。
「セレスティア様」
「はい?」
「ありがとうございます」
「どういたしまして」
わたくしは、重ねられた手を見つめた。
そして、ほんの少しだけ。
自分から指を絡めた。
「……!」
セレスティア様が固まった。
「エ、エレノア様?」
「手をつなぐのでしょう?」
「は、はい!」
「でしたら、こうした方が歩きやすいかと思いまして」
「そ、そうですね!」
セレスティア様の顔が赤くなっていく。
……。
か、かくいうわたしも少しほてってきましたわね。
◇
その後、わたくしたちは庭園を散策した。
月光草の花は、今日も美しく咲いている。
「エレノア様」
「はい?」
「先ほどのことですが」
「先ほど?」
「わたくしが誰かと結婚したら、寂しいとおっしゃってくださいましたよね」
「……ええ」
「それは、わたくしが聖女だからでしょうか?」
「いいえ」
「では、なぜでしょう?」
わたくしは足を止めた。
なぜ。
なぜだろう。
聖女だからではない。
研究協力者だからでもない。
ただ、セレスティア様だからだ。
「セレスティア様だから、ですわ」
「!」
「わたくしは、セレスティア様と一緒にいる時間が好きなのです」
口にしてから、胸が少し熱くなった。
セレスティア様は、わたくしの手を握り返した。
「エレノア様」
「はい?」
「わたくし、今、とても嬉しいです」
「それは何よりですわ」
「でも、もう一つだけお願いしてもよろしいですか?」
「何でしょう?」
「わたくしのことを、セレスティアと呼んでいただけませんか?」
「……」
名前。
そういえば、わたくしはいつもセレスティア様と呼んでいた。
「様をつけずに、ですか?」
「はい。できれば、二人きりのときだけでも」
少し恥ずかしそうに、彼女が微笑む。
わたくしは考えた。
確かに、親しい間柄であれば名前で呼ぶこともある。
しかし、セレスティア様を呼び捨てにするというのは、少々勇気がいる。
「分かりましたわ」
「本当ですか?」
「ええ。では」
わたくしは、少しだけ息を吸った。
「セレスティア」
「…………!」
セレスティア様が、ぴたりと動きを止めた。
そして。
「もう一度、お願いします」
「え?」
「もう一度、呼んでください」
「セレスティア?」
「…………」
彼女は両手で顔を覆った。
「どうしましょう」
「何がですの?」
「嬉しすぎて、立っていられません」
「ええ!?」
わたくしは慌てて彼女の腕を支えた。
「セレスティア! 大丈夫ですか!?」
「はい……! 大丈夫です……!」
「本当に?」
「はい。ただ、今のわたくしは少し危険です」
「危険?」
「幸せすぎて、何をしてしまうか分かりません」
〜〜〜
その夜。
セレスティア様が帰った後、わたくしは自室で一人、今日のことを思い返していた。
縁談の話。
彼女が断ると言ったこと。
そして、わたくしが寂しいと口にしたこと。
……。
わたくしは、セレスティア様に誰かと結婚してほしくないのだろうか。
それとも、ただ一緒にいたいだけなのだろうか。
分からない。
ただ、彼女が隣国へ行ってしまうことを想像したとき、胸が苦しくなった。
そして、彼女が縁談を断ると聞いたとき、ほっとした。
「…………」
わたくしは、窓辺に置いた月光草を見つめた。
花は、いつもより明るく輝いている。
「あなたは、何でも知っているのかしら」
もちろん、植物が答えるはずもない。
けれど、その花を見ていると、なぜかセレスティアの笑顔が浮かんだ。
わたくしは、そっと花に触れた。
「また、会いたいですわね」
その瞬間。
月光草の花が、ふわりと開いた。
まるで、わたくしの言葉に返事をするように。
〜〜〜
一方、その頃。
王宮では、アルベルト王太子が報告書を読んでいた。
「隣国からの縁談を、聖女が断った?」
「はい」
「理由は?」
「詳細は不明ですが、聖女様ご自身が結婚を望まれていないとのことです」
「そうか」
アルベルトは、しばらく考え込んだ。
「ならば、私が直接話をするしかないな」
「殿下、以前も面会を断られておりますが」
「今度は公的な用件だ。断ることはできないだろう」
側近は、嫌な予感がした。
「殿下。まさか、聖女様に再び求婚なさるおつもりでは?」
「違う!」
アルベルトは立ち上がった。
「私は、彼女がなぜそこまでエレノアに執着するのかを知りたいのだ」
「……」
「そして、エレノアがなぜ私を拒絶したのかもな」
側近は、深いため息をついた。
どうやら殿下は、まだ何も理解していないらしい。
エレノアが求めているのは、王太子という地位でも、豪華な宝石でもない。
ただ、隣にいて安心できる相手。
そして、その相手はすでに決まっている。
もっとも。
本人だけは、まだそのことに気づいていないのだが。




