10
どれほどそうしていただろう。
やがて、セレスティア様が顔を上げた。
目元が少し赤くなっている。
「申し訳ありません。お召し物に涙が」
「お気になさらないでくださいませ」
「でも」
「大切な方が泣いているのに、服の心配をする方がおかしいでしょう?」
そう言ってから、わたくしは固まった。
……。
……大切な方?
今、わたくしは何と言った?
セレスティア様も、目を丸くしている。
「エレノア様」
「な、何でしょう?」
「今、わたくしのことを」
「そ、それは、その!」
しまった。
勢いで口にしてしまった。
しかし、嘘ではない。
セレスティア様は、わたくしにとって大切な方だ。
それは、間違いない。
「……大切な方、と申し上げましたわ」
「…………!」
セレスティア様の顔が、みるみる赤くなった。
「本当に?」
「ええ」
「わたくしが、エレノア様にとって?」
「そうですわ」
「大切な方」
セレスティア様は、何度もその言葉を繰り返した。
そして。
「わたくし、今なら空を飛べそうです」
「飛ばないでくださいませ!」
「ふふっ」
彼女は、涙を拭いながら笑った。
いつもの笑顔だった。
けれど、今まで見たどの笑顔よりも、近くに感じられた。
◇
その後、セレスティア様は帰る時間になった。
玄関まで見送りに出る。
「今日はありがとうございました、エレノア様」
「こちらこそ。お話ししてくださって、ありがとうございました」
「また、お会いしてもよろしいでしょうか?」
「もちろんですわ」
「次は、月光草の様子を見に来てもよろしいですか?」
「ええ。ぜひお願いいたします」
セレスティア様は嬉しそうに微笑んだ。
そして、少しだけためらったあと、わたくしの手を取った。
「今日は、もう一つだけお願いしてもよろしいでしょうか?」
「何でしょう?」
「お別れの前に、もう一度だけ抱きしめていただけませんか?」
「……」
わたくしは、少し驚いた。
けれど、断る理由はなかった。
「ええ。もちろんですわ」
わたくしは、もう一度彼女を抱きしめた。
今度は、先ほどよりも少しだけ自然に。
「ありがとうございます」
「どういたしまして」
離れると、セレスティア様は幸せそうに微笑んだ。
「次にお会いできる日が楽しみです」
「わたくしもですわ」
その言葉を聞いたセレスティア様は、またしても真っ赤になった。
……。
最近、セレスティア様はよく赤くなる。
体調が悪いのだろうか。
少し心配ですわね。
◇
セレスティア様が帰った後。
わたくしは自室に戻り、椅子に座った。
「…………」
何となく、先ほどの出来事を思い返す。
セレスティア様を抱きしめた。
彼女が泣きそうだったから。
安心してほしかったから。
そして、彼女が笑ってくれたとき、わたくしも嬉しかった。
……。
何でしょう。
胸の奥が、まだ温かい。
「お嬢様」
マリアが紅茶を持ってきた。
「はい?」
「セレスティア様は、無事にお帰りになりました」
「そうですか」
「それにしても」
「何ですの?」
「先ほどは、随分と大胆でいらっしゃいましたね」
「……!」
わたくしは固まった。
「ま、マリア! 見ていたのですか!?」
「玄関の近くにおりましたので」
「いつから!?」
「お嬢様がセレスティア様を抱きしめたあたりからでしょうか」
「最初からではありませんの!」
「申し訳ございません」
マリアは少しも申し訳なさそうではなかった。
「ですが、お嬢様」
「何ですの」
「セレスティア様を抱きしめたとき、どのようなお気持ちでしたか?」
「それは」
わたくしは考えた。
彼女を安心させたいと思った。
離れたくないとも思った。
そして、もう一度抱きしめてほしいと言われたとき、嬉しかった。
「温かかったですわ」
「それは、よろしゅうございました」
「それに、もう少し一緒にいたいとも思いました」
マリアの目が、少しだけ大きくなった。
「まあ」
「な、何ですの?」
「いいえ。何でもございません」
マリアは微笑んだ。
「お嬢様。少しずつ、ご自身のお気持ちが分かってきたのではありませんか?」
「そうでしょうか」
「ええ」
わたくしは、窓の外を見た。
夜空には、月が浮かんでいる。
庭園の月光草は、今夜も美しい花を咲かせているだろう。
その花を見るたびに、セレスティア様を思い出す。
そして、彼女に会いたいと思う。
……。
これは、いったい何なのでしょう。
まだ答えは出ない。
けれど、一つだけ分かっていることがある。
わたくしは、セレスティア様に笑っていてほしい。
できることなら、その笑顔を一番近くで見ていたい。
その願いが何という名前なのか。
わたくしは、まだ知らなかった。
◇
一方、聖教会。
自室に戻ったセレスティアは、ベッドの上に座り込んでいた。
「…………」
両手で頬を押さえる。
顔が熱い。
心臓が落ち着かない。
「エレノア様に……抱きしめていただきました」
もう一度、呟く。
そして、枕に顔を埋めた。
「大切な方、とおっしゃってくださいました……!」
聖女として、数々の奇跡を起こしてきた彼女。
どれほどの人々に感謝されても、これほど胸がいっぱいになったことはなかった。
やがて、彼女は枕から顔を上げた。
「わたくし、もっと頑張れそうです」
そう呟いて、幸せそうに笑った。
ただし。
翌朝、聖教会の関係者たちは驚くことになる。
聖女様が朝から妙に機嫌がよく、いつも以上に治癒魔法の成功率が高かったからだ。
「聖女様、本日は何か良いことでもございましたか?」
「はい!」
「それは、どのようなことでしょう?」
「秘密です!」
セレスティアは、満面の笑みで答える。
その笑顔は、王国中に希望を与えるほど美しかった。
そして本人は、まだ知らない。
自分が抱きしめられたことを思い出すたびに、月光草の花がさらに強く輝いていることを。
どうやら、植物の方が人間よりも正直らしい。




