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百八拾弐 安太郎さんの手記(7)

「死なせてははいけません」

 竹刀を取り戻しながら、夏川は言った。

「円山課長がそう仰ってませんでしたか? まずは、この男の気力を挫くことが先だと。本当に死なせてしまったら、肝心なことは何も聞き出せないままになりますよ」


「けっ」

 井脇は吐き捨てるように言った。

「どうぞ、お遊びをお続けください。ふー。私はションベンにでも行ってきますから」

 そのままぷいと出て行ってしまったが、それでも、外から鍵を掛けることだけは忘れなかった。


 上司が出ていった後、夏川は一人で素振(すぶ)りを始めた。

「あんたが言ったり書いたりしていることは、正しいかもしれない」

 暫くして手を休めると、唐突にそう言った。

「ただし、やり過ぎた。どうして、もっと上手く立ち回ろうとしないんだ。そんな人間は沢山居るだろうに」


「私を懐柔して、何か見返りがほしいのか?」


 夏川は竹刀を上段に構えると、大きな掛け声とともに空中に振り下ろした。その後も、すり足で前に出たり下がったりしながら、何度も素振りを繰り返している。


 やがて手を休めると、さっきの答えを返してきた。

「できればそう願いたい。人並みに出世したいんでね」


「だったら諦めたほうがいい。私から得られるものは何もない。君こそ、あとの二人と同じように上手く立ち回ったほうがいいんじゃないのか?」


「あんたの指図は受けない」

 バシンと私の腿を打つ。今度は手加減なしだった。


 丁度その時、井脇が帰ってきた。

「ふん、満更遊んでいたわけでもなかったか」

 椅子に腰掛けると、携えていた資料の束を机の上に置く。

「そいつを此処へ連れてこい。尋問の続きだ」


 命令されたとおり、夏川が私を椅子ごと彼の前に運んだが、資料ををぺらぺらとめくっているだけで、顔を上げようともしない。


 やがて資料の束を叩きつけると、机越しに顔を近づけてきた。煙草臭い息を吐きかけてきながら、「貴様は札付きの非国民だな」と言う。


 煙草は確か1日6本の配給制になっているはずである。それなのにこれほどまで息が煙草臭くなるということは、職業柄得た情報をネタに誰かを脅してせしめているんだろう。


「お前は帝大で吉野作造に大きな感化を受けた。ふー。其処からして大きな誤りだったのだ。ふー。民本主義だか何だか知らぬが、一歩間違えば我が国体を紊乱(びんらん)するような危険な考えだからな」

 ふーふー言いながら、首に掛けていたタオルで汗を拭う。


 私は黙ったままじっと聞いていた。

 そもそも警察は、彼らの言う間諜(スパイ)から、どの程度の情報を得ているのであろうか。


 或いは、曖昧な情報だけで私を捕まえたということも考えられる。有罪に持ち込むためには、具体的な事実を把握し、その証拠固めをすることが必要だ。そのために、鎌をかけてうっかり私が喋ってしまうのを狙っているのかもしれない。


 兎に角も、私から何を引き出そうとしているのか、それをしっかりと見極めなければならないだろう。


「お前は、同じように吉野から影響を受けた仲間と一緒に、新人会なるものを結成した。ふー。その後、京都学連事件に関連して逮捕されたようだが、逮捕されたのは、その一回きりだ。ふー。よくお前のような札付きの非国民を今まで野放しにしておいたものだ」


 私に何かを訊いている訳ではない。独り言だ。拷問で幾ら痛めつけられたって、精神までは弱っていない。下手なことを迂闊にこちらから喋ったりするものか。


「実はだな、ふー。それ以外にもお前を逮捕しようとしたことがあったんだ。ところが間の悪いことに丁度その矢先に、貴様は国粋主義者に襲われて大怪我を負ってしまった。それで検察の腑抜けどもが世間の目を気にして、お流れになっちまったんだ。

 それに恐らく、お前の学友どもが、政府や検事局で幅を利かせるようになったということもあるのではないのか? いや政府だけではない。軍隊の中にさえ、アカが紛れ込んでいるらしいからな」

 一気に核心部分に斬り込んできた。ふーを言うのもすっかり忘れている。


 成程、狙いはそれだったのか。政府や軍部の中枢は其処まで追い詰められているのだ。本土決戦や一億総特攻を叫ぶ限りは、自分たちの中に戦争の終結を主張するものがいては困るのだ。彼らにとっては、そういう輩は皆アカであり、敗北主義者であり、非国民なのだ。


「どうだ? お前は確実にそういう奴らと繋がっているはずだ。そいつらの名前を、一人でもいいから教えてくれないだろうか。そうすればお前は、此処から無事に出られるかもしれない」


 この低能の毬栗坊主め。そんなことで私が簡単に口を割るとでも思っているのだろうか。とにかく一言も喋ってはいけない。何か喋ったら最後、必ず其処に食い付いてくるはずだ。


 私は身体の痛みに顔をしかめ、低く呻いた。決して演技ではない。息が自然に荒くなる。今までは意地でも苦痛を現さないようにしていたのを、あえて私は()めたのだった。


 幾らでも私の肉体を痛めつけるがいい。そのほうが私にとって好都合だ。言葉を発する必要がないのだから――。お望みなら泣き声を上げてやってもいいし、奇声を発しながらのたうち回ってみせてもいい。

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