百八拾参 安太郎さんの手記(8)
「ふふふ。貴様もなかなか食えない奴だ。それともとんだ食わせ者とでも言うべきかな?」
中身は空っぽのくせに、毬栗頭を一生懸命働かせようとしているらしい。
「貴様の魂胆は分かっている。その手には乗らないからな。いいか、今まで態と小出しにしてきたが、貴様のことで貴様自身が知らないことがある。それを教えてやろうじゃないか」
じっと耳を澄ましていると、
「目を開けろ!」
と、いきなり髪の毛を掴まれ、ぐいと頭を起こされた。赤黒く光る井脇の顔が、眼前にある。
しかしすぐに私から離れ、椅子に深く凭れ掛かった。
「ふー」
と一息吐く。
しばらくこちらを睨み付けた後、
「宮崎龍介を知っておるな?」
と尋ねた。
「あの稀代の女たらしだ。ふー。平民の癖に華族のお姫様を射止めたんだからな。ふー。それもとびっきりの別嬪と来ている。ふー。知らぬとは言えまい」
どうやら「ふー」を思い出したらしい。
知るも知らぬも、宮崎龍介は東京帝国大学の同期であり、新人会を一緒に作った仲でもある。その後、白蓮事件で新人会は除名されてしまったが、私とはそれからも連絡を取り合っていた。
心の中に微かなさざ波が立つのを覚えたが、顔には表さず、私はじっと井脇を見据えた。
「昭和12年7月――盧溝橋事件があって間もなくだ」
相手は私の視線を逸らすかのように、机の上の書類に目を落とす。
「宮崎は近衛首相の特使として、南京の蒋介石に会おうとした。和平工作を行おうとする近衛さんの密書を携えてな。ふー。ところが、事前に陸軍に察知されてしまい、神戸港で憲兵隊に捕まってしまったのだ。ふー。近衛一派の企てはあえなく潰えてしまった」
ここまで言うと、井脇は顔を再び上げた。顔の皮膚はますます赤黒く光沢を帯び、眼球も血走っていた。
「ところが、ところがだ――」
いったん口を閉ざすと、なおも鋭く睨みつけてきた。
「我々の調べによると、その後ちゃんと蒋介石本人に会った日本人がおるのだ。宮崎の代わりにな。ふー。それが貴様だ」
私は苦しい息を吐きながらも、静かに相手を見返した。
彼の言ったことは事実である。しかし、それが何だというのだ。私は何かの法律を犯したわけではないのだから。
「無論、我々はそんなことで貴様を検挙したりはしない」
井脇は、私の心の内を見透かすかのように言った。
「首相から託された任務を忠実に遂行しただけだからな。ふー。まさか治安維持法に問う訳にもいくまい。ふー。しかし、憲兵隊に貴様を引き渡すことはできる。俺の言いたいことは分かるかな?」
すると、それまで黙っていた夏川が、机の上に両手を置いて割って入った。
「井脇さん、踏み込み過ぎだ。このことは、円山課長が触れる手筈に――」
「黙っておれ!」
井脇が、拳を握り固めた腕を振り上げた拍子に、太い前腕部が夏川の顔に当たる。
夏川はのけぞり、思わず口元を押さえた。指の隙間から血が一筋流れだす。夏川は、それを乱暴に手で拭った。ニヤリと笑い、再び竹刀を手にする。
入口に向かって静かに竹刀を構えていたかと思うと、イヤーっという大音声を上げて振り下ろした。
井脇は顔を後ろに向け、その様子を冷めたような目つきで見ていたが、
「小僧、尋問の邪魔をするんじゃない」
と低く唸るように言った。
夏川は、大人しく入口近くにあった椅子に腰掛け、竹刀を抱くようにして腕組みをした。脚も組んで、お手並み拝見と言うような顔をしている。
「ふん」
井脇はそう鼻を鳴らすと、またこちらのほうを振り返った。
「俺たちは、きちんと法律に基づいて取り進めるが、憲兵隊は違うぞ。ふー。貴様の身柄を確保するやいなや、すぐにぶち殺すかもしれん。ふー。奴らにとっては、貴様ごとき非国民は人間じゃない、虫けら以下だ。ふー。一刻も早く駆除すべき存在なんだ。分かるか?」
すっかり勝ち誇ったように、唇の端を歪めて笑っている。
この作品はフィクションであり、実際にあった事件や実在する人物・団体等とは一切関係がありません。




