百八拾 安太郎さんの手記(5)
「いつもそういう風に大人しく口を閉じていれば、こんなことにはならなかっただろうになあ」
円山は嘲るようにそう言うと、再び耳掻きで雑炊を掬う……。その後も、同じことが執拗に繰り返された。
これが彼らの常套手段なのであろう。肉体と精神の双方を徹底的に痛めつけ、いたぶり、苦痛と恐怖、更に屈辱感を味わわせる。時に、甘いエサもちらつかせながら。
こうして相手を支配し、思いのままに操るのだ。よしんば、相手が自白したり、仲間を裏切ったりするまでに至らなくとも構わない。最後は半死半生、若しくは死体で放り出してやればいいのだ。同志へのいい見せしめにはなる。
その後、円山はお遊びにも飽いたのか、俺たちも昼飯にしようと言って、井脇と一緒に退出した。御丁寧に、外からガチャリと鍵を掛ける音がした。
一人だけ残された夏川は、
「不味いだろうが、ちゃんと食べて体力を温存しておいたほうがいい」
と言うと、部屋の隅に置かれた椅子に座り、腕組みをして目を閉じる。
私は食事のために両腕だけはいったん自由にしてもらっていたが、脚が折れたために後ろに傾いた木製の椅子に、胴体と両足を縛り付けられていた。その不安定な姿勢のまま、私はテーブルの上にあった雑炊のお椀を持ち上げ、力一杯、床に叩きつけた。
夏川がかっと目を見開く。ゆっくりと立ち上がり、こちらに近づいてくる。
てっきり殴られると思ったら、何も言わずに片付けを始めた。端正な横顔に暗い翳が差している。
片付けが終わると、こちらとは目も合わせずに言った。
「これは俺がやったんだ。あんたが言うことも聞かず、温和しく食べなかったものだから、俺が腹を立てて叩き割った」
それから元の位置に戻って座ると、
「とにかく、今のうちだけでも身体を休めておくんだ」
と言って、再び目を閉じる。
そのうち、井脇が昼食を終えて戻ってきた。円山課長は、その日はもう顔を出さなかった。自慢の白い麻の背広を汚されたので、着替えに帰ったのかもしれない。
「さて、再開することとしようか。ふー」
井脇がごつい手を揉みしだきながら、口を開く。
「貴様、何かの会合でほざいたそうだな。ふー。愚かな指導者たちのせいで、学徒たちが若い命を無駄に散らしているとな。ふー。全て分かっている。ふー。貴様が仲間と思い込んでいる奴らの中に、警察のスパイがいるんだからな。ふー」
内通者がいることは、薄々感づいていた。だからこそ、自分は此処に連行されたのであろう。それが誰かは分からなかったが、責める気にはならなかった。
人間は誰だって我が身が可愛い。家族が愛しい。そのうえ、弱い存在だ。私だって何も変わらない。
然し、私は既に父と母を不幸のどん底に陥れてしまった。更に、清さんと奈美さんという二人の女性をも――。
それだけではない。奈美さんは、私のせいで心を病み、早くに亡くなってしまったのだ。私には、今の為政者たちを批判する資格はない。
私はただ無力なだけでなく、愚かで卑怯な人間なのだ。これ以上、生き恥をさらして何になろうか。私は死を覚悟している。死より怖いものは何もあるまい。
私は何も喋らない。同志を裏切ることもない――。
改めてそう決心すると、相手の出方を待った。
「相変わらず黙りか」
井脇が大きく息を吸い込んだ拍子に、開襟襯衣の釦が、弾け飛んでしまった。
「一つ忠告しておこう。ふー」
気にもとめる様子もなく言う。
「円山課長だがな、あの人の息子さんはガダルカナルで亡くなったんだ。ふー。せめてあの人の前に居る時だけは、殊勝に振る舞うんだな」
それなら何故、こんな馬鹿な戦争をいつまでも辞めようとしない指導者たちに、怒りの矛先を向けないのだろうか。私たちのような一般市民を弾圧して何になるのだ。
すぐにそう思ったが、口には出さなかった。
その後、お決まりの尋問が始まったが、自供しようがすまいが、どうせ同じことだろう。既に私の罪状は定まっているのだから。
私は頑なに押し黙ったままだった。
怒り狂った井脇から、平手打ちや鉄拳を何発も浴びせられたが、私が口を割ることはなかった。




