第3話 揺れる思い
夕食の支度をしようと寝室の前を通りかかったとき、ふと、夏希の足が止まった。
扉が少しだけ開いていた。
中から、かすかな物音がする。
賢二が帰ってきているのだろうか。
声をかけようとして、夏希は何気なく扉の隙間から中を覗いた。
そして、動けなくなった。
賢二が、一人でいた。
夏希には、その光景がすぐには理解できなかった。
賢二は自分が帰ってきたことにも気づかず、目を閉じていた。
何かを想像しながら、自分自身を慰めている。
夏希は、息をすることさえ忘れていた。
どうして。
そんな言葉が、頭の中に浮かんだ。
どうして、私とは何年も触れ合おうとしないのに。
どうして、私では駄目なのに。
賢二が誰かを想像し、一人で欲望を満たしているという事実が、夏希には信じられなかった。
これまで何度も、自分に原因があるのではないかと考えてきた。
年を取ったからだろうか。
身体つきが変わったからだろうか。
女としての魅力が、なくなってしまったのだろうか。
そんな考えを振り払おうとしても、夜になるたび、隣で眠る賢二の背中を見るたび、同じ疑問が胸の中に浮かんできた。
それでも、賢二を信じていたかった。
いつか、また昔のように抱きしめてくれる日が来るかもしれない。
そう思って、ずっと待ってきた。
けれど、今、目の前にある光景は、そんな夏希の期待を静かに打ち砕いていった。
賢二には、欲望がある。
それなのに、自分には向けてくれない。
つまり、自分はもう、賢二にとって女ではなくなってしまったのだろうか。
それとも、夫の気持ちそのものが、もう自分から離れてしまったのだろうか。
考えれば考えるほど、胸が苦しくなった。
何か言わなければ。
そう思った。
どうしてなのか、聞きたかった。
私のことを、もう好きではないのかと。
女として見られなくなったのかと。
問い詰めたい気持ちは、確かにあった。
だが、声が出なかった。
もし、本当にそうだと言われたら。
もし、賢二の気持ちが自分から離れてしまったのだと、はっきり告げられたら。
自分は、その言葉を受け止められるだろうか。
夏希は、唇を強く噛んだ。
目の奥が熱くなる。
それでも、涙はこぼさなかった。
ただ、そっと扉から離れた。
足音を立てないように廊下を歩き、リビングへ戻る。
買い物袋を置き、しばらくその場に立ち尽くした。
何を買ってきたのかさえ、思い出せなかった。
夕食を作らなければ。
賢二が帰ってきているのなら、いつもどおりに食事を用意しなければ。
そう考えて、夏希は買い物袋に手を伸ばした。
けれど、指先が震えていた。
結局、その日は何を作ったのか、ほとんど覚えていない。
賢二が寝室から出てきたときも、夏希はいつもどおりに振る舞った。
「帰ってたのね。夕飯、できてるよ」
自分でも驚くほど、普通の声だった。
「あ、ああ……ありがとう」
賢二は、どこか落ち着かない様子だった。
夏希と目を合わせようとしない。
その態度を見て、夏希の胸がまた痛んだ。
何かを隠している。
自分に知られたくない何かがある。
そのことだけは、嫌でも分かった。
けれど、夏希は何も聞かなかった。
聞く勇気がなかったのだ。
いつもどおりに食事をし、いつもどおりに会話を交わす。
賢二が笑えば、夏希も笑った。
それまでと、何も変わらない夜だった。
ただ一つ、夏希の心の中だけが、以前とは違っていた。
賢二を見つめるとき、あの光景が頭をよぎり、心が酷く傷んだ。
それでも、夏希は自分に言い聞かせた。
賢二は、まだ自分を大切にしてくれている。
きっと、そうに違いない。
もしかしたら、自分で処理していたのは、最近、治って欲望が戻ってきたのかもしれない。ただ、少しだけ不安で、試していただけなのかも?
夏希は裸になり、思い切って賢二の背中に抱きついた。
「賢二、愛してるわ」
優しく手を賢二の胸に当て、少しずつへ下へ。
祈るように反応を確かめる。
だが、賢二の身体は何の反応も示さなかった。
夏希は愕然とした。
賢二は驚いたように彼女の手を振りほどいた。
「ごめんなさい。……もう、いいわ」
その瞬間、夏希の中で何かが壊れた。
★☆★
そうして日々を重ねるうちに、賢二への気持ちが、変わり始めていることにも気づかないふりをした。
以前なら、賢二の帰りが遅いだけで心配になった。
休日に一緒に出かければ、それだけで嬉しかった。
何気ない会話を交わすだけでも、彼と夫婦になれた幸せを感じていた。
少しずつ。
本当に、少しずつ。
だが、確実に感情が薄くなっていく。時間の経過とともに、賢二に向けていた愛情も、ほんのわずかずつ削られていく。
そして夏希自身、その小さな変化が、いつか二人の関係を大きく変えてしまうことになるとは、まだ思っていなかった。
★☆★
翌朝、夏希はいつもどおりに起きた。
顔を洗い、化粧をし、仕事着に着替える。
鏡の前で髪を整えながら、昨夜のことを思い出した。
胸の奥が、ずきりと痛む。
あの光景が、何度も脳裏によみがえった。
夏希は、きゅっと唇を結んだ。
期待をして抱き着いた時の賢二の表情が忘れられない。
昨夜、あれから何かを言うことはできなかった。
問い詰めることも、泣いてすがることも。
ただ、何も見なかったふり、何もなかったこととして平常心を装った。
………お互いに。
夏希は、鏡の中の自分に笑いかけてみた。
いつもどおりの顔だった。
少し目が腫れている以外は、自分は何も変わっていない。
(大丈夫!!)
そう、自分に言い聞かせる。
会社へ行こう。
仕事をしていれば、余計なことを考えずに済む。
夏希は鞄を手に取り、玄関を出た。
賢二とは、顔を合わせなかった。
同じ家に住んでいるのに。
長年連れ添った夫婦なのに。
たった一つの出来事で、こんなにも心が遠く感じられてしまうものなのだろうか。
もしかして、私は賢二に不満があったのかもしれない。
今まで見て見ぬふりをしていただけかもしれない。
自問自答しながら、夏希は、駅へ向かう道を歩きながら空を見上げた。
八月、酷暑日。
雲一つない空が、どこまでも青い。
その青さが、今の自分にはひどく無神経なものに思えた。
★☆★
倉庫の仕事は、いつもどおり忙しかった。
入荷した商品の確認。
在庫数の照合。
出荷予定の調整。
作業員への指示。
夏希は、目の前の仕事に集中した。
仕事をしている間だけは、余計なことを考えずに済む。
少なくとも、そう思いたかった。
「主任、ここの数量が合いません」
「伝票を確認して。昨日の入荷分と混ざっている可能性があるから」
「分かりました」
部下たちが動き回る。
フォークリフトの警告音が響き、段ボールを運ぶ音や、伝票をめくる音が絶え間なく聞こえてくる。
いつもと同じ職場。
いつもと同じ仕事。
それなのに、夏希の心だけが、どこか別の場所に置き去りにされているようだった。
「主任」
声をかけられ、夏希は顔を上げた。
そこに立っていたのは、入社して間もない男性社員だった。
ユウキ。
二十二歳。
若く、背が高く、整った顔立ちをしている。
それでいて笑顔は人懐っこい。いわゆる陽キャ。
上司の夏希にも気軽に話しかける。
仕事を覚えるのも早く、もはや夏希の部下の中では頼れる存在になっていた。
「これ、確認お願いします」
「ああ、ありがとう。そこに置いておいて」
「はい」
ユウキは書類を置いたものの、すぐには立ち去らなかった。
「主任、今日、元気ないですね。心配です」
夏希は眉を上げた。
「そう?」
「はい。いつもより、ちょっと怖くないです」
「ちょっと、どういう意味よ」
思わず睨むと、ユウキは笑った。
「一応、褒めてるんですけどね」
「どこがよ」
「いつもは、間違えたらすぐ怒られるじゃないですか。でも今日は、怒る元気もない感じがして。僕は怒った時の主任の顔が好きなんですよ!!」
「……あなたねえ」
夏希は呆れたように息を吐いた。
普段なら、こんな冗談を言うユウキを軽く叱っていたかもしれない。
けれど、今日は不思議と腹が立たなかった。
「仕事に戻りなさい」
「はいはい」
「はい、は一回」
「はい!! 主任殿!!」
ユウキは笑いながら、持ち場へ戻っていった。
その後ろ姿を見送り、夏希は小さく息をついた。
若い。
そして、真っすぐだ。
自信に満ち溢れていて、他人に自分がどう見られているかなど、あまり気にしていないように見える。
(ずいぶん違うなぁ。賢二もあんなふうに…)
ふと、そんなことを考えてしまい、夏希は自分に驚いた。
比べるつもりなどなかった。
ユウキは部下だ。
それ以上でも、それ以下でもない。
だが、少しだけ気になる存在。
夏希は、そんなユウキの後ろ姿を見送りながら、仕事へ戻るのだった。
★☆★
昼休み。
夏希は休憩室で一人、弁当を食べていた。
食欲はあまりなかったが、食べなければ午後の仕事に差し支える。
そう考えて、箸を動かしていた。
「主任、隣、いいですか?」
顔を上げると、ユウキが立っていた。
「別にいいけど」
ユウキは向かいではなく、夏希の隣に座った。
そして、自分の弁当を広げながら、何気ない調子で尋ねてきた。
「主任って、結婚してるんですよね」
夏希の箸が止まった。
「……そうだけど」
「旦那さん、どんな人なんですか? 同じ会社の人って聞きましたけど」
「どうしてそんなこと聞くの?」
「気になるからです」
「何それ」
夏希は苦笑した。
「普通の人よ。優しくて、真面目で……」
そこまで言って、言葉が止まった。
優しくて、真面目で。
それは本当だ。
けれど、今は。
夏希は、箸の先に視線を落とした。
「……いい人よ」
結局、それだけしか言えなかった。
ユウキは、夏希の横顔を見つめていた。
「主任」
「何?」
「俺、主任のことが好きです。付き合ってもらえないですか?。」
夏希は、危うく箸を落としかけた。
「………は?」
「好きなんです。付き合ってください!!」
ユウキは、冗談を言っている顔ではなかった。
「いやいや、ちょっと待ちなさいよ。あなた、何言ってるの?」
「そのままの意味です。いわゆる、一目惚れってやつです。ここに配属された時に主任を一目見て、運命の人だと思いました」
あまりにも強引で、迷いのない返事だった。
夏希は、呆気に取られた。
「あなた、いくつよ」
「二十二です」
「私は三十八」
「知ってます。僕には歳は関係がありません。それに、働く大人の女性。素敵です!!」
ユウキは、少しだけ身を乗り出した。
「好きという感情はとめられませんから。主任が相手にしてくれなくても、俺は勝手に主任を好きでいます」
夏希は言葉を失った。
こんなふうに、真っすぐで、それでいて強引に、好意を伝えられたのは、いつ以来だろう。
いや、初めてかもしれない。
賢二からも、こんなハッキリ気持ちを伝えられたことはない。
いつも…『好きかもとか、好きだと思う』と、曖昧な表現。
だが、この二十二歳の青年は、何のためらいもなく、曖昧にせず、ストレートに好意を伝えてくる。
夏希は戸惑ったが、不思議と悪い気はしなかった。
「………悪いけど、そういうのは困るわ」
「はい」
「私は、あなたの上司だし」
「分かってます」
「だったら……」
「付き合ってください、とは言いました。でも、今すぐ答えを出してほしいわけじゃありません」
ユウキは、まっすぐに夏希を見つめた。
「ただ、俺が主任を好きだってことだけは、知っておいてほしいんです」
夏希は、何も言えなかった。
その目に、からかいの色はなかった。
若さゆえの無謀さはあるのだろう。
自分がどんなに無謀なことを言っているのか、本当に理解しているのかも分からない。
それでも、彼の言葉には、嘘のない熱があり、賢二にはない、男としての強引さを感じる。
夏希は、どうしていいか分からなくなり、視線を逸らしてしまう。
「………仕事に戻りなさい」
「はい」
ユウキは素直に立ち上がった。
休憩室を出ていく直前、彼は振り返った。
「主任」
「何よ」
「今日は少しだけ、目が腫れています………辛いことがあったのなら相談してください。年下で頼りないと思うかもしれませんけど、俺は主任の力になりたいんです」
そう言って、ユウキは休憩室を出ていった。
扉が閉まった。
夏希は、しばらく動けなかった。
頬が熱かった。
恥ずかしかったからだろうか。
いや、それだけではない。
胸の奥に広がった感情に、自分自身が戸惑っていた。
(………綺麗。本当に? 二十二歳の子から見ても?)
そんな言葉を、最近の自分は聞いていなかった。
夏希は、弁当箱の蓋を閉じて考える。
(自分は何を期待しているのだろう。ユウキの言葉に、何を求めているのだろう。私は彼のことを………)
ほんの一瞬だけ、胸の奥が温かくなり、鼓動が高鳴った気がした。
夏希は立ち上がり、弁当を片づけた。
仕事に戻ろう。
今は、それだけを考えよう。
そう自分に言い聞かせながら、休憩室を出た。
しかし、仕事中にも、無意識にユウキの表情と言葉を思い出してしまう。
強引なまでの告白をされて、心のどこかに小さな火が灯ってしまったことを、夏希は否定できなかった。
その火が何を意味するのか。
これから自分がどうなってしまうのか。
まだ、夏希には分からなかった。
ただ確実に言えるのは、夏希の心の片隅には、今まで部下の中の一人のユウキという青年が、意識する異性へと変わったという事実であった。




