第2話 歪んだ性癖
最初の一年は、まだ希望があった。
夏希は、賢二が疲れているのだと思っていた。
仕事が忙しいのだろう。
責任のある仕事を任され、気苦労も増えているのかもしれない。
だから、無理に求めることはしなかった。
賢二もまた、いつか元に戻れると思っていた。
しかし、いざ二人きりになると、あの夜の記憶が蘇った。
期待に満ちた夏希の眼差し。
それに応えられなかった自分。
気遣うように微笑んだ、妻の作り笑顔。
それらが頭をよぎるたび、賢二は自分の身体を意識してしまった。
そして、意識すればするほど、身体は思いどおりにならなくなった。
やがて賢二は、妻に触れることそのものを恐れるようになった。
触れれば、期待させてしまう。
期待させれば、応えなければならなくなる。
応えられなければ、また夏希を悲しませてしまう。
だったら、最初から何もしなければいい。
(………回復したら)
そんな考えが、いつしか当たり前になっていった。
一方、夏希も最初のうちは待っていた。
二人で映画を観ているとき、そっと肩を寄せてみる。
寝る前に、いつもより少しだけ甘えた声で話しかけてみる。
何気ないふりをして、賢二の手を握ってみる。
賢二は、そのたびに優しく応じてくれた。
笑ってくれる。
手を握り返してくれる。
髪を撫でてくれることだってあった。
だから、夏希は思った。
愛されている。
まだ、大丈夫。
けれど、夜になると、二人の間には見えない壁ができた。
賢二は疲れたと言って、早く眠るようになった。
夏希も、無理に誘うことをやめた。
互いを思いやっているつもりだった。
それなのに、二人の距離は少しずつ開いていった。
そうして一年が過ぎ、二年が過ぎた。
気がつけば、二人が身体を重ねなくなってから、三年近くが経っていた。
賢二も夏希も、三十八歳になっていた。
★☆★
夏希は、鏡の前で自分の身体を見つめることが増えた。
決して、自分に魅力がないとは思っていなかった。
同僚の女性から、肌がきれいだと褒められることもある。服を選ぶのも好きだったし、年齢に合わせた手入れも欠かさなかった。
それなのに、夫は自分を求めない。
裸を見ても、以前のように目を輝かせることがない。
抱きしめられることも、キスをされることも、いつの間にかなくなっていた。
ある晩、夏希は寝室の鏡の前に立ち尽くしていた。
入浴を終え、下着姿のまま髪を乾かしていたときだった。
鏡の中の自分を見つめる。
胸元。
腰の線。
何年も前、賢二が愛おしそうに触れてくれた体。
今では、それが自分自身のものであることさえ、どこか不確かに感じられた。
女としての自分は、まだここにいる。
誰かに触れられたいと思う気持ちも、消えてはいない。
ただ、いちばん触れてほしい人が、触れてくれない。
「……私、何やってるんだろ」
誰もいない部屋で、声が漏れた。
涙が出そうになった。
けれど、泣かなかった。
泣いたところで、何も変わらない。
それに、賢二を責めることなどできなかった。
仕事から帰れば、食事の支度を手伝ってくれることもある。休日には一緒に買い物へ行き、夏希の好きな店にも付き合ってくれる。
誕生日には、忘れずにプレゼントを用意してくれる。
そんな賢二を、どうして責められるだろう。
だが、子供ができず年を重ねる焦りと不安。
何よりも、賢二に愛されたい。
女として求められたい。
好きだと言われるだけではなく、その言葉を信じられる賢二の男としての力強さが欲しい。いつしか強引にでも求められたいという願望。
そんな願いを抱く自分が、ひどくわがままな女に思える日もあった。
子供が欲しい。
賢二との子供を産んで、二人で育ててみたい。
自分に似た子供が生まれたら、きっと賢二は困ったように笑うだろう。
賢二に似た子供なら、きっと自分が守ってあげたくなる。
想像するだけで、胸が温かくなった。
同時に、その想像が叶わないかもしれないという恐怖に、押し潰されそうになった。
夏希は、鏡の中の自分から目を逸らした。
その夜も、賢二は先に眠っていた。
夏希はベッドに入り、夫の背中を見つめた。
隣に愛する人がいる。
そのことが、こんなにも寂しいなんて知らなかった。
今日も夏希は、賢二に見つからないように、涙をこらえる夜であった。
★☆★
賢二には、誰にも言えない秘密があった。
それは、夏希を愛していないということではなかった。当然、愛人や浮気相手がいるわけではない。
むしろ、その逆だった。
夏希を愛していた。
誰よりも、狂おしいほど愛している。
幼い頃から、ずっと。
彼女が笑えば嬉しかった。
彼女が悲しめば、何とかしてやりたいと思った。
彼女が自分以外の男と親しげに話していると、胸の奥がざわつくこともあった。
そんな自分を、賢二は情けないと思っていた。
夏希は、自分のものではない。
一人の人間であり、自分とは別の人生を持つ女性だ。
頭では、そんなことは分かっている。
それでも、彼女を失うことを想像するだけで、息が苦しくなった。
★☆★
最近、賢二には、自分でも受け入れがたい性癖に気づいた。
最初は、ほんの偶然だと思った。
きっかけは、夏希の帰りが遅くなった、ある夜だった。
男性社員と一緒に残業している。
夏希から届いた、何気ない連絡。
それを読んだ賢二は、一人で寝室にいた。
夏希は仕事ができる。
男女を問わず、周囲から頼られている。
それは、賢二もよく知っていた。
だが、もしも彼女が、自分より若く、容姿もよく、自信に満ちた男に言い寄られたら。
もしも、その男が、夏希を女として強く求めたら。
夏希は、どうするだろう。
もちろん、浮気などするはずがない。
賢二は、そう信じていた。
夫である自分を裏切るようなことをする人間ではない。
だからこそ、そんな想像をする自分が、ひどく卑しいものに思えた。
愛する妻が、他の男に奪われる。
そんなことなど、考えたくもないはずだった。
それなのに。
賢二は自分の性癖に気づいてしまった。
夏希が別の男に求められている所を想像するときにだけ、そんな光景を想像したときだけ、三年もの間、失われていた身体の反応が戻ってくることに。
賢二は愕然とした。
自分は、何を考えているのだろう。
愛する妻が、他人に抱かれるところを想像して喜ぶなんて。
そんな自分は、夫失格ではないのか。
嫌悪感にさいなまれる。
それなのに、自分が彼女に与えられなかったものを、別の男が与える姿を思い浮かべることでしか、欲望を感じられなくなっている。
最低だ。
そう思った。
自分自身が、ひどく気持ち悪かった。
だが、どれほど自分を責めても、欲望が消えることはなかった。
やがて賢二は、誰もいないときを見計らい、一人で欲望を処理するようになった。
想像するのは、いつも夏希だった。
自分の知らない顔を見せる夏希。
自分以外の男に、女として求められる夏希。
自分が与えられなかったものを、別の男から与えられている夏希。
想像の中の彼女は、賢二の知らない表情をしていた。
力強く求められると、夏希は自分には見せたことのない女の顔を覗かせて、男に甘えている。
そんな姿を思い浮かべると、罪悪感と強烈な嫉妬、そして救いようのない絶望感が入り混じり、言いようのない興奮が湧き上がてくる。
そして、終わったあとには、必ず自己嫌悪が訪れた。
何をしているんだ。
自分は、夏希を愛しているのに。
彼女が他の男に触れられるところなど、本当は見たくないはずなのに。
夏希に知られたら、どう思われるだろう。
気持ち悪いと思われるだろうか。
今までの愛情まで、すべて嘘だったと思われるだろうか。
幼い頃から、ずっと彼女を大切にしてきた。
彼女と結婚したかった。
彼女と一緒に生きていきたかった。
その気持ちだけは、何があっても本物だ。
それなのに、この秘密を知られれば、そのすべてまで否定されてしまう気がした。
それだけは、耐えられなかった。
だから賢二は、秘密を抱えたまま、いつもどおりの夫を演じ続け、夏希に知られないように醜い欲望を処理してきた。
夏希を愛している夫。
夏希を大切にしている夫。
ただ少し、身体の調子が悪いだけの夫。
夏希の前では笑い、何気ない会話を交わし、できる限り優しく接した。
彼女を悲しませたくなかった。
嫌われたくなかった。
何よりも、失いたくなかった。
その一方で、賢二は自分の本当の気持ちを隠し続けた。
誰にも知られないように。
夏希に気づかれないように。
そうして秘密を抱え込むたびに、賢二はますます自分を責めるようになっていった。
自分の欲望は、彼女への愛情と矛盾しているように思えた。
どうすればいいのか、分からなかった。
誰にも相談できないまま、賢二は今日も、何事もないように夏希の隣で眠る。
同じベッドで。
手を伸ばせば触れられる距離で。
それなのに、心の奥にある秘密だけは、どうしても彼女に近づけられなかった。
そして、その秘密が夏希を深く傷つける日が来ることを、賢二はまだ知らなかった。




