第1話 セックスレス
すいませんが、作者のNTR性癖全開です。
苦手な方は読むのをお控えください。
四日連続投稿。完結です。
賢二は、夏希の寝顔を見るのが好きだった。
眠っているときの夏希は、普段の彼女からは想像できないほど無防備だ。
職場では誰よりも大きな声で指示を出し、間違ったことをする人間には容赦なく意見する。曲がったことが大嫌いで、納得できないことがあれば、相手が上司であろうと臆することなく反論する。
そんな妻、夏希が、今は賢二の隣で静かに寝息を立てている。
何年も一緒に暮らしているのに、賢二は時折、こんな女性が自分の妻であることを不思議に思う。
夏希は美人だった。
誰が見ても、そう思うだろう。
大きな瞳に、意志の強さを感じさせる目元。笑えば少しだけ幼さが残り、怒れば周囲の人間が思わず口をつぐむ。三十八歳になった今も、彼女には人目を引く華やかさがあった。
それに比べて、自分はどうだろう。
背丈も容姿もごく平凡。人付き合いは苦手で、会議で意見を求められても、間違ったことを言わないようにと考えすぎてしまう。結局、口にするのは当たり障りのない意見ばかりだった。
賢二は、会社で事務職として働いている。
一方、夏希は同じ会社の倉庫部門で、在庫管理と出荷業務を取り仕切る責任者、主任を務めていた。
仕事のできる夏希と、目立たない自分。
そんな二人が夫婦なのだから、周囲から意外だと言われることもあった。同僚からは『お前の羨ましい所は嫁さんだけだな』と、よく言われていた。
もっとも、二人を幼い頃から知っている人間なら、違う感想を抱くかもしれない。
賢二は、子供の頃から気の弱い少年だった。
運動は苦手。口喧嘩も苦手。嫌なことをされても、やめろと言えずに俯いてしまう。
小学校では何人かの男子に目をつけられ、持ち物を隠されたり、からかわれたりすることが日常茶飯事だった。
泣き虫だったわけではない。
ただ、怖かったのだ。
やり返せば、もっとひどいことをされる。先生に言いつければ、卑怯者だと笑われる。
そうやって何もできずにいるうちに、賢二はいつしか、嫌なことがあっても黙って耐えて、やり過ごすようになっていた。
そんな賢二を、いつも助けてくれたのが夏希だった。
「ちょっと!! 何やってんのよ、あなたたち!!」
小学六年生の夏。
校庭の隅で、賢二が数人の男子に囲まれていたときのことだ。
夏希はランドセルを背負ったまま、勢いよく駆け寄ってきた。
「賢二のものを返しなさいよ!!」
「うるせえな。お前には関係ないだろ」
「関係あるわよ!! 嫌がってるのが分からないの?」
夏希は一歩も引かなかった。
男子たちが睨みつけても、怯むことなく睨み返す。
結局、相手が悪態をつきながら立ち去るまで、夏希はその場を動かなかった。
そして、賢二の前に立ったまま、腰に手を当てて言った。
「賢二も、嫌なことは嫌って言いなさいよ!!」
「……ごめん」
「なんで謝るのよ。あなたは何も悪くないでしょ」
その言葉を、賢二は今でも覚えている。
自分は何も悪くない。
夏希がそう言ってくれると、本当にそうなのだと思えた。
それからも、夏希は何度となく賢二を助けてくれた。
中学生になっても、高校生になっても。
賢二が何かに失敗して落ち込めば、夏希は怒りながらも励ましてくれた。賢二が自分を卑下すれば、そんなことを言うなと叱ってもくれた。
夏希はいつだって、賢二の味方だった。
やがて二人は、恋人になった。
告白したのは夏希からだった。
高校を卒業する直前の、冬のことだ。
「あなた、卒業したら私と付き合うのよ。いいわね!!」
あまりにも夏希らしい言い方だった。
賢二は、冗談を言われたのかと思った。
「………え?」
「だから、付き合いなさいって言ってるの‼」
「でも、俺なんか………」
「またそれ? うつ向かない!!」
夏希は露骨に顔をしかめた。
「私は賢二が好きなの。賢二は私が嫌いなの?」
「そんなことないよ!! 好きだと思う」
「じゃあ、いいわね」
夏希はそのまま、少し背伸びをして、賢二に口づけをした。
嬉しかった。
ずっと好きだった女の子が、自分を選んでくれたのだから。
だが、その喜びの奥には、小さな棘が残った。
本当に、自分でいいのだろうか。
夏希は昔から自分を守ってくれた。弱い自分を放っておけなかっただけではないのか。幼馴染としての情を、いつの間にか恋愛感情だと勘違いしているだけではないのかと。
そんな疑念は、付き合い始めてからも、結婚してからも、消えることがなかった。
夏希は、賢二のそんな気持ちに気づいているのか、いないのか。いつも堂々としていた。
「私があなたと結婚したかったの。誰に何を言われたって、関係ないでしょ。愛してる!!」
結婚式の日、夏希はそう言った。
賢二は、自分が世界でいちばん幸せな男だと思った。
そして、いつか自分も夏希に胸を張れる男になりたいと思った。
彼女を不安にさせない男に。
彼女を幸せにできる男に。
残念ながら、三十八歳になった今でも、賢二はその願いを叶えられずにいた。
隣で眠る妻の髪に、そっと指を伸ばす。
触れる直前で、手が止まった。
起こしてしまうかもしれない。
そんな理由をつけて、賢二は手を引っ込めた。
自分でも、情けないと思う。
妻に触れることさえ、ためらってしまう。
それが、今の自分だった。
★☆★
夏希は、三十五歳を過ぎた頃から、自分の年齢を意識するようになった。
それまでは、子供について深く考えたことはなかった。
いつかは欲しい。
賢二との子供なら、きっと可愛いだろう。
そんな漠然とした願いはあったものの、仕事も楽しかったし、二人で過ごす毎日にも満足していた。
休日には一緒に出かけ、気に入った店で食事をする。家にいるときは、くだらないテレビ番組を見ながら笑い合う。
それだけで十分に幸せだった。
子供を持つことは、いつか自然に訪れる未来の一つ。夏希は、どこかでそう考えていたのかもしれない。
ところが、三十五歳の誕生日を迎えた頃、後輩から妊娠の報告を受けた。
続いて、会社の同僚が産休に入った。
親戚の集まりでは、年下の従妹が二人目を妊娠したと聞かされた。
おめでたい話のはずだった。
友人にも、同僚にも、従妹にも、心から祝福の言葉を伝えた。嬉しそうにお腹を撫でる姿を見れば、こちらまで幸せな気持ちになった。
それなのに、家に帰って一人になると、胸の奥がざわついた。
自分たちには、まだ子供がいない。
来年でいい。
仕事が落ち着いたら。
もう少し貯金が増えたら。
そうやって先延ばしにしているうちに、時間だけが過ぎていた。
もちろん、今は三十五歳を過ぎたからといって、手遅れというわけではない。それは夏希にも分かっていた。
それでも、以前と同じ気持ちではいられなかった。
自分の身体が、少しずつ衰え始めていると実感するようになってきた。
子供が欲しいと思ったときに、必ず授かれるとは限らない。
いつか、と思っていた未来が、いつまでも待っていてくれるわけではない。
そう考えると、いても立ってもいられなくなった。
賢二との子供が欲しい。
自分たちの子供を、この腕に抱いてみたい。
その願いが、日を追うごとに大きくなっていった。
★☆★
結婚記念日の夜、食事を終えたあと、夏希は向かいに座る賢二に声をかけた。
「ねえ、賢二」
「ん?」
「私たちもいい歳だし、そろそろ、子供のことを真剣に考えない? 最近、疲れたとか、気分じゃないとかでご無沙汰だし…」
賢二は箸を置いた。
ほんの一瞬、表情が曇ったように見えたが、それもすぐに消えた。
「………うん。そうだね」
「そうだねって、他人ごとみたい!!」
思わず、声が強くなった。
「私たち、もう三十六なのよ。若い頃とは違うんだから」
「分かってるよ」
「本当に分かってる?」
口にした直後、夏希は後悔した。
賢二が悪いわけではない。
自分だって、この歳まで本気で子供のことを考えたことがなかった。子供が欲しいと思いながら、仕事や日々の生活を優先してきたのは自分も同じだ。
それなのに、焦る気持ちをどうにもできず、目の前の夫にぶつけてしまう。
「………ごめん。責めてるわけじゃないの」
「うん。分かってる」
賢二は、いつものように笑った。
「大丈夫だよ。俺も、子供は欲しいと思ってるから。お金も貯まったし、いいと思う」
その言葉を聞いて、夏希はほっとした。
賢二も同じ気持ちでいてくれる。
そう分かっただけで、少し安心できた。
ただ、夏希は気づかなかった。
夫が笑顔の裏で、どんな思いを抱えていたのか。
いや、気づこうとしなかったのかもしれない。
賢二は、自分を責めていた。
夏希の願いを叶えてやりたい。
子供を抱かせてやりたい。
彼女が思い描いている未来を、一緒に実現したい。
それなのに、自分は何もできていない。
夏希が悪気なく口にした言葉が、賢二の心に少しずつ積み重なっていった。
最初は、小さな重石だった。
だが、それは日に日に重くなっていく。
妻の期待に応えなければならない。
夫として、きちんとしなければならない。
自分がしっかりしなければ、夏希を幸せにできない。
そんな思いが、賢二を追い詰めていった。
★☆★
その日の夏希は、いつもより積極的だった。
久しぶりに、二人きりでゆっくり過ごせる休日の夜。
もともと勝ち気で、性欲は強いほうだったのだが、今日は一段と激しく求めてきた。
夏希は賢二に身を寄せ、唇を重ねた。
結婚したばかりの頃なら、それだけで賢二の胸は高鳴った。
好きな女性が、自分を求めてくれる。
それは、何年経っても変わらない喜びのはずだった。
夏希は、賢二の反応を確かめるように顔を覗き込んだ。
「ねえ……今日は、ちゃんと頑張ろうね」
その言葉を聞いた瞬間、賢二の身体が強張った。
実は、最近、若い頃とは明らかに体の反応が鈍っているのを感じていた。バレないようにと、理由をつけては、夏希からの誘いを断っていた。
夏希もうすうす感じていたのかもしれない。
(今日は………頑張ろう)
頭の中で、その一言が何度も繰り返される。
子供を作るために。
最愛の妻、夏希の願いを叶えるために。
夫として、男として、きちんとしなければならない。
そう思えば思うほど、心と体が離れていった。
夏希は、賢二の異変に気づかないまま、さらに体を寄せた。
自分を求めることにためらいのない仕草。
いつもより、さらに熱っぽい眼差し。
本来なら、そのすべてが愛おしいはずだった。
だが、その夜の賢二には、夏希の一挙一動が期待の表れに思えてしまった。
期待に応えなければならない。
失望させてはいけない。
これ以上、夏希を待たせてはいけない。
考えれば考えるほど、焦りが膨らんでいく。
心臓が早鐘を打った。
どうにかしなければ。
今日こそは、うまくやらなければ。
そう自分に言い聞かせるほど、身体は思いどおりにならなくなっていった。
夏希が、賢二の体が反応していないことに気がつき、不安そうに眉を寄せた。
「………賢二?」
「ご、ごめん」
賢二は目を逸らした。
「ちょっと、疲れてるみたいだ。……………勃たない」
夏希は黙った。
ほんの数秒の沈黙だった。
しかし、賢二にはひどく長く感じられた。
「そっか」
やがて、夏希は笑顔になった。
「じゃあ、今日はやめようか」
責めるような口調ではなかった。
むしろ、気遣うような優しい声だった。
だが、明らかに作り笑顔だった。
だからこそ、賢二は苦しくなった。
彼女を悲しませてしまった。
自分のせいで。
「ごめんな」
「いいわよ。謝らないで。辛いから…」
夏希はそう言って、賢二の頬に軽く口づけた。
それから、彼の隣に横になった。
背中を向けるでもなく、怒るでもなく、いつものように手をつないでくれた。
賢二は、その手を握り返した。
夏希は、まだ自分を責めていない。
嫌いになったわけでもない。
そう思うことで、賢二はどうにか気持ちを落ち着かせようとした。
しかし、目を閉じても眠れなかった。
隣にいる妻の温もりが、いつもより遠く感じられた。
★☆★
翌朝、夏希はいつもどおりに朝食を作り、いつもどおりに仕事へ出かけた。
賢二も会社へ向かった。
二人とも、その夜のことを口にしなかった。
夏希は、賢二が疲れていたのだと思うことにした。
三十六歳といっても、崖っぷちではない。次がある。
焦る必要はない。
そう自分に言い聞かせた。
賢二もまた、いつか元に戻れると思いたかった。
今度こそ大丈夫だ。
余計なことを考えなければいい。
夏希を愛しているのだから、きっと大丈夫だ。
互いに、相手を思いやっているつもりだった。
夏希は、夫を責めないようにした。
賢二は、妻を失望させないようにした。
けれど、二人とも本当の気持ちを口にすることはなかった。
あの夜のことに触れなければ、いつか忘れられる。
時間が経てば、自然に元に戻る。
そう信じたかった。
それが、最初のすれ違いだった。
そして、この夜を境に、二人は少しずつ、互いに触れられなくなっていった。




