最終話 もう妻は戻らない
それから、ユウキは何度も夏希に気持ちを伝えた。
もちろん、仕事に支障が出るようなことはしなかった。
業務中は部下として接し、指示には素直に従う。
それでも、二人きりになると、彼は臆することなく好意を伝えてきた。
「主任、今日も素敵ですね」
「はい。セクハラ」
「セクハラが怖くて愛は伝えられませんよ!!」
「…分かったから、仕事をしなさい」
そんなやり取りを、夏希とユウキは毎日繰り返していた。
最初は困惑していた。
次に、呆れるようになった。
そして、いつしか、ユウキが声をかけてくることを、待つようになっていた。
朝、出勤して彼の姿を見かけると、なぜか嬉しくなり、駆け寄って『おはよう!!』と背中を叩く。
仕事の報告に来れば、いつもより少しだけ会話が長くなることを期待してしまう。
そんな自分に気づくたび、夏希は心の中で首を振った。
何を考えているのだろう。
自分は既婚者だ。
夫を愛している………はず。
ユウキの好意に応えるつもりなどない。
そう思っていた。
だが、毎日寝室へ入ると、夏希は思い知らされる。
二人は、もう何年も、夫婦として大切なものを失ったままなのだと。
同じベッドに入っても、互いに触れようとはしない。
隣にいるのに、距離がある。
見いない壁が、夏希には見え始めていた。
手を伸ばせば届くはずなのに、その手を伸ばすことさえ考えなくなっていた。
夏希は、期待することをやめていた。
最初の内こそ『今夜こそ、抱きしめてくれるかもしれない』、『今夜こそ、女として求めてくれるかもしれない』賢二が『夏希、治ったよ。俺と夏希の子を作ろう』と言ってくれるかもしれない。
そんな淡い期待を抱くたびに、何も起こらない夜が過ぎていく。
その繰り返しに、疲れてしまったのだ。
そして、期待しなくなれば、傷つくことも少なくなる。
そう思った。
期待を捨てることは、何も感じなくなることではなかった。
寂しさだけは、積もりあがっていく。
冷たいベッドの中。
夏希は一人、自分自身を慰める。
思い浮かべた顔は…。
★☆★
次の日の夜のことだった。
ユウキを思い浮かべて、欲望を満たしてしまったことに後ろめたさを感じる夏希。
夕食を終え、二人でリビングにいたとき、夏希は賢二の横顔を見た。
テレビを眺めている、いつもと変わらない顔。
「ねえ、賢二」
「ん?」
賢二が、こちらを向いた。
「……私のこと、好き?」
賢二は、驚いたように顔を上げた。
「え?」
「だから、私のこと、好きなの?」
「何だよ、急に」
「いいから、答えて」
夏希は、賢二の目を見つめた。
自分でも、どうしてそんなことを聞いたのか分からなかった。
ただ、聞かずにはいられなかった。
自分は今でも、彼に愛されているのだろうか。
女として、妻として。
それを確かめたかった。
いや、日に日に大きくなっていくユウキへの想いに、歯止めをかけて欲しかった。
賢二は、困ったように笑った。
「好きだと思うよ」
その言葉は、昔と変わらなかった。
優しくて、誠実で、疑う余地のない言葉。
賢二は嘘をついていない。
きっと、本当に自分を好きなのだろう。
だが『夏希が好きだ!!』と言い切ってほしかった。
優しく『思うよ』なんて言ってほしくはなかった。
夏希の胸は、少しも温かくならなかった。
「……そっか。思うか」
夏希は笑った。
「ごめんね。変なこと聞いて」
賢二は、ほっとしたように笑い返した。
「どうしたんだよ。何かあったのか?」
「何でもない」
夏希は、そう答えた。
本当は、何でもなくはなかった。
どうして、好きだと言い切って、強引にでも抱きしめてくれないんだろう。
自分がどんな気持ちでその質問をしたのか、分かってくれないのだろう。
そんな思いが、喉まで込み上げてきた。
自分がまだ賢二にとって特別な存在なのだと、感じさせてほしかった。
言えばよかった。
だけど、言えば、また賢二を苦しめてしまうことが分かっている。
自分が欲しいものを伝えることが、いつしか夫を追い詰めることと同じになっていた。
夏希は、賢二に背を向けた。
「……おやすみ」
「おやすみ」
賢二は、いつものように答えた。
そして、二人は寝室へ向かった。
同じベッドに入り、互いに背を向ける。
互いに愛情を抱えたまま。
互いに、相手が何を求めているのか分からないまま。
夏希は目を閉じた。
涙は出なかった。
ただ、胸の奥がひどく冷たかった。
賢二は何も気づいてはいなかった。
夏希が言った『おやすみ』が『さよなら』と同じ意味だということを。
★☆★
翌週の昼休み。
夏希は、倉庫の外にある自動販売機の前にいた。
冷たいお茶を買い、蓋を開ける。
暑かった。
今年の夏は、異常なほど気温が高い。
倉庫内は空調が十分に行き届かず、作業員たちはこまめな水分補給を求められていた。
「主任」
振り返ると、ユウキが立っていた。
「どうしたの? ユウキ君」
「えっ!?」
名前で呼ばれ、ユウキは少し驚いていた。
その顔を見て、思わず夏希も笑ってしまった。
「今の、いい笑顔でしたよ。なにがあったかは知りませんけど、なんか吹っ切れた感じがして。じゃあ、俺も、ちょっと、いいですか?」
「仕事の話?」
「違います」
「だったら駄目」
「三分だけ。改めて、決意表明!!」
「………何よ。一応、聞いてあげるわ」
夏希は『面倒ね!!』という顔をしながらも『ときめき』を感じる。
ユウキは、一度だけ深呼吸した。
「俺、諦めませんから」
夏希は、眉をひそめた。
ひそめたふりをする。
「………何を?」
「何をって、主任のことですよ」
「本当に強引なのね」
「はい。きっぱりと断られるまでは可能性があると思ってるんで!!」
あまりにも堂々としているので、夏希は呆れてしまった。
「結婚してるのよ。家庭を壊す気?」
「本気で家庭を、結婚生活を守りたいなら、きっぱり断るはず。そうしないってことは、俺にもチャンスはあるはず!!」
「旦那がいるの。………好きな人がいるのよ」
そう言いながら、夏希の胸は痛んだ。
好きな人がいると、すぐにそう言い切れない。
ユウキは、夏希の表情をじっと見つめていた。
「じゃあ、なんでそんな顔をするんですか? さっき、いい笑顔って言いましたよね。でも、旦那さんの話になると、また、いつもの憂い顔に戻ってしまった。はっきり言います。旦那さんとの関係。うまくいってないんじゃないですか?」
夏希は息を呑んだ。
「関係ないでしょ!!」
ユウキは、何も言わなかった。
ただ、焦りまくる夏希の顔を見つめているだけ。
その沈黙が、夏希には苦しかった。
「だから、なんなのよ」
「いえ」
ユウキは視線を落とした。
「もし、主任が本当に幸せなら、僕だって身を引きますよ。でも、俺には主任が無理をして、一人きりで寂しさを抱え込んでいるようにしか見えないんです。そんなの、ほっとけるわけないじゃないですか!!」
夏希の胸が、強く締めつけられた。
ユウキの言葉が夏希に突き刺さる。
自分がいちばん望んだ言葉を、ユウキが、あまりにもあっさりと口にしたからだ。
寂しい。
夏希は、唇を噛んだ。
「………これは私自身の問題!!」
焦りを悟られないように、夏希は言葉を荒げる。
「そうですね。でも、愛しい人が寂しそうな顔をしているのに、心配しない男がいますか? いませんよ!! 少なくとも、俺は放っておけない。寂しくならないように、強く抱きしめます!!」
ユウキは言い切る。
夏希は、何も言えなかった。
ユウキも、それ以上、何も言わなかった。
ただ、頭を下げて、持ち場へ戻っていった。
残された夏希は、冷たいお茶のボトルを握りしめた。
結露した水滴が、指先を濡らしていた。
寂しいのなら、放っておけない。
強引にも思えるその言葉が、いつまでも耳から離れなかった。
夏希は、空を見上げた。
夏の太陽は、容赦なく照りつけていた。
自分は、何をしているのだろう。
どうしたらいいというの?
どうして、彼の言葉に、こんなにも心を揺さぶられてしまうのだろう。
心の中が、かきむしられる気がした。
答えは、分かっていた。
ユウキのことを思い浮かべて自分を慰めたあの夜から…。
夏希の心の中では、ユウキへの愛情が少しずつ育ち始め、今、花を開かせつつあることを。
★☆★
九月下旬になっても、午後の倉庫は、息苦しいほどの真夏の暑さに包まれていた。
頭上の換気扇が重たい音を立てて回っている。それでも熱気は逃げず、棚に並ぶ段ボール箱も、金属製のラックも、触れれば熱を帯びているのがわかるほどだった。
夏希は額の汗を拭い、小さく息を吐いた。
「もう、嫌になるくらい暑いわね……」
「本当ですね。外にいるほうが、まだ涼しいんじゃないですか?」
「ユウキ君!! 異常気象よ。異常気象!!」
「俺に言っても、どうにもなりませんよ。受け入れましょう。主任」
「はあ………四階に、古い部品が残っていたはずなの。ちょっと確認してくるわ」
「えっ!? ムッチャ暑いですよ。熱中症で倒れても誰も気づきませんよ。俺も行きます」
「いいわよ。ここを片づけておいてくれれば」
「でも、主任一人じゃ大変でしょう。それに、本当に危ないです」
ユウキは、手元の書類をまとめながら真剣に言う。
「こんなに暑いんです。二人で少しでも早く終わらせたほうがいいですよ」
「ありがとう」
「主任に倒れられたら困ります…俺が!!」
さらりと言われ、夏希は思わず笑った。
ユウキも、嬉しそうに笑い返す。
ほんの些細なやり取りだった。
それなのに、夏希の胸には、柔らかなものが広がった。
彼と話していると自然に笑顔になる。
確実に、夏希の心の中のユウキが無視できない存在になっている。
「じゃあ、お願いしようかしら。ユウキ!!」
「はい。任せてください………夏希さん!!」
ユウキが少しはにかんだ笑顔で名前を呼ぶ。
夏希の心が大きく傾いた瞬間だった。
★☆★
四階は、普段ほとんど人が立ち入らない場所だった。
生産が終了した製品の予備パーツや、古い機械の交換部品などが、棚ごとに整理されている。
小さな窓はあるものの、風はほとんど入ってこない。
明かりも少なく薄暗い。
階段を上がってきた夏希は、熱気に顔をしかめた。
「やっぱり、ここは暑いですね」
「そうね。探し物をして早く降りましょう」
夏希は書類を確認しながら、棚の番号を追っていく。
二人で手分けして探すと、目的の部品は思ったより早く見つかった。
「あ、これじゃないですか?」
ユウキが棚の上段を指さした。
「あら、本当。ありがとう」
「いえ。夏希さんの役に立てたなら、それで十分です」
「また、そういうことを言う」
「本心ですよ」
その声は、冗談めかしてはいなかった。
夏希が顔を上げると、ユウキは真剣な眼差しでこちらを見ていた。
「……何?」
「夏希さんって、最近、よく笑うようになりましたよね。本当、ここ最近ですけど」
「………私のこと、よく見てるわね。やっぱり、あなたには隠しきれない…か」
「やっと正直に話してくれましたね。嬉しいです」
ユウキは笑顔を見せた。
「ユウキ君のおかげかもね」
思わずそう言って、夏希は思わず赤面する。
「…夏希さんは、もっと自分のことを大切にしていいと思います」
「どういう意味?」
「いつも誰かのために頑張ってるじゃないですか。仕事でもそうだし、困ってる人がいたら放っておけないし。不器用そうで誤解されるかもですけど、本当は優しすぎるんだと思います」
「優しいかは分からないけど、昔からだから今さら変えられないわ」
「だから、好きなんですけどね!!」
あまりにもまっすぐな言葉だった。
夏希は、すぐに返事ができなかった。
「………ユウキ君、私」
「困らせたいわけじゃないんですよ」
彼は、夏希の目を見つめたまま続けた。
夏希もユウキから視線を逸らせない。
「俺は夏希さんが好きです。年上だからとか、結婚しているからとか、そういうことを理由に、気持ちまでなかったことにするつもりはありません」
「前にも言ったけど、私は、あなたより十六歳も年上よ」
「はい」
「結婚もしている」
「それも知っています」
「それでも?」
「それでもです」
「……私は、そんなにいい女じゃないし、もうすぐ三十九になる。胸もお尻も垂れてるかもしれないわよ。本当に若い子と比べると歳だし、なにより可愛げもない。それに、本当に私は、あなたが思っているような人間じゃないかもよ?」
「それは、俺が決めることです。俺は人間として………夏希さんが好きだ」
ユウキが、一歩近づいた。
「俺が好きなのは、夏希さんだ。不器用かもしれないけど、真っ直ぐで飾らない夏希さんが好きだ」
さらに一歩近づいた。
「……………」
「それに、無理して強がらなくてもいいです。俺が守るから!! 夏希さんは甘えてくれていいんだ」
胸の奥が、きゅっと締めつけられた。
本当は、誰かに甘えたかった。
疲れたときには、疲れたと言いたかった。
寂しいときには、寂しいと口にしたかった。
ただ、強引にでも抱きしめてくれる人がいてほしかった。
そんな気持ちを、ずっと胸の奥に押し込めていた。
幼い時から…。
「……あなたって、強引で自分勝手ね」
「そうですか?」
「ええ。でも…」
「でも?」
「………嫌いじゃないわ」
ユウキの瞳から、目をそらせなかった。
そこには、自分を求める男性がいる。
そして、夏希は、その気持ちを嬉しいと感じていることを確信する。
勇気を出して、夏希も一歩前に出る。
迷いは見られない
ユウキも、さらに一歩前に出る。
二人の距離が一気に縮まる。
ユウキが腰に手を回して、夏希の体を引き寄せ抱きしめられる。
夏希がユウキの胸に頬を寄せると、鼓動が高鳴っているのが分かる。
「………ユウキ」
「夏希さん」
二人の間に、沈黙が落ちる。
空調の届かない四階には、遠くで回る換気扇の音だけが響いていた。
ユウキの手が、夏希の頬にそっと触れた。
汗で濡れた肌を、指先が優しくなぞる。
夏希の反応を確かめるように、彼はじっと夏希の顔を見つめていた。
夏希もユウキの背中に手を回した。
「………愛してるわ」
自然と口から出た言葉に、夏希自身が驚いた。
ユウキの目が見開かれて、夏希を強く抱きしめる。
若い男の体温。
力強い腕。
自分を包み込むような力強い抱擁。
二人の視線が絡み合う。
互いの顔が、自然と近づいていく。
どちらかが誘ったわけでも、言葉で確かめたわけでもなかった。
ただ、もう少し近づきたいという気持ちが、二人を同じ方向へ動かしていた。
そして………唇が重なった。
触れるだけの口づけだった。
唇が離れたあとも、二人はそのまま、目を離さない。
若さの残る輪郭。
まっすぐな眼差し。
自分を見つめるときの、力強い瞳。
その一つひとつが、どうしようもなく愛おしく思えた。
「……夏希」
それまでの遠慮がちな声とは違った。
ユウキは、夏希の目をまっすぐに見つめ、力強く名前を呼んだ。
「夏希!!」
その声には、もう迷いも遠慮もなかった。
まるで、腕の中にいる女は自分の女だと主張するように名前を呼ぶ。
夏希の鼓動が激しくなり、ただ名前を呼ばれただけなのに、全身が熱くなる。溜まりに溜まっていた夏希の感情が堰を切ったように流れ出した。それは濁流のように、過去の思いをかき消していく。自分でも信じられないほど、これまで大切にしてきた思いが空虚に感じられた。
これまで彼は、年上の既婚者である自分に、礼儀を守り、一定の距離を置いて接していた。
だが、今は違う。
目の前の青年は、自分を一人の女として見つめている。
人妻であることも、年上であることも、関係ないかのように。
ただ、夏希という女性を求めていた。
夏希の心が幸福感で満たされる。
ずっと、こんなふうに求められたかったのかもしれない。
遠慮されるのではなく。
気遣われるのでもなく。
自分は守るのではなく、守られたいのだと気づく。
「ユウキ」
「夏希」
お互いの気持ちを確かめるように、自然と名前が口からこぼれてくると、二人の唇が、再び重なった。
今度は、先ほどよりも深く長い口づけだった。
目を閉じ、夢中になる夏希とユウキ。
なにもかもが頭の中から消えていく。
仕事中で倉庫の中ということも、年齢のことも、まだ子供を授かっていないことも。
そして………賢二のことさえも。
彼は、どんな顔をしていただろう。
思い出せない。
代わりに、目の前のユウキの顔が鮮明になっていく。
頬に触れる指。
耳元に届く声。
自分を抱きしめる腕。
そして、あの力強い呼び声。
「夏希!!」
その響きが、何度も心の中によみがえる。
まるで、心の中にあった空白を、彼が一瞬で埋め尽くしてしまったかのようだった。
もっと近くにいたいと思った。
彼に触れたい。
彼に抱きしめられていたい。
彼の目に映る自分を、もっと見ていたい。
彼に………求められたい。
自分がこんなにも心の底から誰かを求めることができたのだと、夏希は初めて知った。
夏希は、再びユウキの胸に顔を埋める。
力強い鼓動は、さらに力強く感じられて、まるで自分の鼓動と共鳴しているように思えた。
温もりに身を委ねながら、夏希は目を閉じた。
何度も何度も繰り返される口づけ。
夏希は目を閉じ、ユウキの温もりを全身で感じながら、その口づけを受け止めた。
ユウキもまた、彼女を大切に抱きしめながら、何度も唇を重ねた。何度も何度も。
唇が離れても、すぐに二人はお互いを求めて唇を重ねる。
深く、深く、互いの気持ちを確かめるように。
夏希には、もう迷いはない。
口づけは、二人の間にあった最後の遠慮を溶かす。
夏希の心は、ユウキへの思いで満たされていた。
この人のそばにいたい。
この人に見つめられていたい。
この人に、女として求められていたい。
その願いが、胸の中いっぱいに広がって、賢二への思いは過去のものへとなったのだった。
★☆★
その頃、賢二は四階へ向かっていた。
古い部品について、以前から取引のある顧客から問い合わせが入ったのだ。
すでに生産が終了している製品だったが、倉庫に在庫が残っている可能性があった。
賢二は確認のため、保管場所を目指していた。
階段を上がり、四階の通路に出る。
人の気配はなかった。
普段からほとんど使われない場所だ。今日も誰もいないのだろう。
そう思いながら、目的の棚へ向かおうとした。
そのときだった。
通路の奥から、人の声が聞こえた。
聞き覚えのある声。
賢二は、足を止めた。
夏希の声だった。
どうして、四階なんかに? こっちにも古い部品の発注があったのか。
疑問を抱きながら、音を立てないように近づいていく。
棚の陰を抜け、通路の角に差しかかったとき。
賢二の目に、信じられない光景が飛び込んできた。
夏希が、若い男に抱きしめられていた。
相手は、職場の新人社員、確かユウキという名前の男。
二人の距離は、あまりにも近かった。
夏希の手は、ユウキの背中に回されている。
ユウキもまた、彼女を大切なもののように抱きしめていた。
賢二は、動けなくなった。
何が起きているのか、理解できなかった。
いや、理解したくなかった。
夏希が、あの夏希が。
幼い頃からずっと、自分のそばにいてくれた夏希が。
自分を守り、支え、人生を共に歩んできた夏希が。
別の男の腕の中にいた。
声をかけなければ。
そう思った。
夏希、と呼べばいい。
二人を引き離し、何をしているのかと問い詰めればいい。
夫として、当然のことをすればいい。
けれど、喉が動かなかった。
足も動かなかった。
ただ、自分の体が反応していることに驚愕する。
ただの想像だけではなく、現実、目の前で最愛の女性、妻の夏希が他の男と抱き合っていても、激しく反応してしまう自分の体。
立ちすくみ、動けなくなる。
そのとき、ユウキが夏希の顔をのぞき込んだ。
夏希もまた、彼を見上げた。
二人の視線が絡み合う。
そして、唇が重なった。
賢二の頭の中が、真っ白になった。
時間が止まったようだった。
音が遠のく。
自分の呼吸さえ、聞こえなくなる。
夏希が、男とキスをしている。
自分の妻が、目の前で。
その事実だけが、何度も頭の中で繰り返された。
血の気が引き、よろけそうになる。
足が棚にぶつかりそうになり、慌てて口元を押さえる。
見つかってはいけない。
なぜ、そんなことを考えたのか、自分でもわからなかった。
怒鳴ればいい。
問い詰めればいい。
夏希の名前を呼べばいい。
なのに、賢二は隠れていた。
棚の陰に身を縮め、息を殺していた。
まるで、自分がそこにいることを知られたくないかのように。
いや、本当は違った。
見つかるのが怖かったのだ。
夏希に気づかれたら、彼女はどんな顔をするだろう。
驚くだろうか。
慌てるだろうか。
それとも………
賢二は、その先を考えることができなかった。
再び、二人の姿に目を向ける。
夏希は、ユウキの胸に顔を寄せていた。
彼の腕の中で、安心したように目を閉じている。
その表情を、賢二は知っているはずだった。
幼い頃から、何度も見てきた顔なのだから。
だが、今の夏希は、自分の知らない女のように見えた。
いつの間にか、自分に向けられなくなった笑顔。
夏希が、もう一度ユウキを見上げた。
その瞳には、先ほどまでの迷いが薄れていた。
ユウキが何かをささやく。
夏希は小さく笑った。
その笑顔を見た瞬間、賢二は悟った。
自分は、もう長い間、あんなふうに夏希を笑わせていなかったのだと。
幼い頃、いじめられていた自分を守ってくれた少女。
いつも強くて、まっすぐで、誰よりも頼もしかった夏希。
自分は、そんな彼女にずっと甘えてきた。
そばにいてくれることを当たり前だと思い、彼女が何を感じ、何を求めているのか、真正面から向き合うことを避けてきた。
失うはずがないと思っていた。
夏希は、ずっと自分の隣にいてくれるのだと。
目の前にいる妻は、自分の知らない場所へ行こうとしている。
それを引き止める言葉さえ、賢二には見つからなかった。
夏希は、再びユウキの胸に顔を埋めた。
賢二は、唇をかみしめた。
声は出なかった。
いや、出せなかったのだ。
二人が口づけを交わしている姿を見て、激しく反応して興奮してしまっている自分がいる。
しかも、ここで声を上げれば、夏希は自分の存在に気づくだろう。二人が抱き合い、口づけを交わしている姿を、賢二が陰から見ていたことも知られてしまう。
夏希の性格を、賢二は誰よりもよく知っている。
曲がったことが大嫌いな夏希。
理由もなく、自分以外の男と口づけを交わすはずがない。
賢二は思い浮かべる。
こうなる予兆はあった。
自分のことだけしか考えず、夏希の気持ちに向き合ってこなかったこと。
(こうなったのは………俺のせいだ)
弁解する余地などない。偶然ここへ来たのだと説明したところで、隠れて見ていた事実は変わらない。
夏希の目に、今の自分はどう映るのだろう。
情けない夫。卑怯な男。それとも、もう顔も見たくない存在だろうか。
声をかけることもできず、立ち去ることもできない。賢二は棚の陰に身を潜めたまま、二人の姿を見つめ続けるしかなかった。
夏希は、賢二がすぐ近くにいることなど知らず、ユウキの腕の中で目を閉じていた。
その姿を見ているのが、苦しかった。
それでも、目を逸らすことができなかった。
賢二は自分のシャツが汗で濡れていることも気づかずに、いつ終わるとも分からない、二人が口づけを交わす姿を見つめている。
そして、三十八年もの間、変われなかった自分を悔やむのであった。
終わり
お読み下さり、ありがとうございました。
できましたら、評価ポイントを押してくださると幸いです。




