18.誘惑(18/42)
月明かりが照らす夜。
営業後の酒場の一階奥。ベアトリスの部屋をたずねた。
ドアをノックすると「開いてるよ」と声がする。
カーテンは閉められ、魔力灯の薄明かりが部屋を暖色に染めている。
珍しく、甘い香が焚かれていた。
ベアトリスは……薄絹のような寝具姿でベッドの脇に腰掛け俺に微笑み掛ける。
気丈な彼女しか知らない人間なら、驚くだろう。
柔和で優しく、甘えるような顔だ。
潤った少し厚めの唇が開く。
「やっと二人きりだね。最近は繁盛しすぎて……今日はちょっと早めに店じまいしたのさ」
「用件は?」
「とりあえず座りなよ」
彼女はベッドの横をぽんぽんと手のひらで軽く叩く。
その仕草は、どことなくマリエルを思い出させた。
ベアトリスの隣に腰を下ろすと、彼女は俺に肩を寄せる。
「あのさ……ログ。英雄になるのもいいんだけど……良かったらこの街でさ……ずっと……暮らすってのはどうだい?」
「お前には世話になったし感謝してる」
「つれないねぇ……」
彼女の手がズボンの上から俺の太ももを優しく撫でた。耳元にふっと吐息が掛かる。甘い香が鼻孔に染みこむ。
「俺からもちょうど、話すことがあったんだ」
「なん……だい?」
彼女に顔を向けると、作り笑顔だった。瞳の奥に悲しい揺らめきがある。魔法力の波動が検知できるくらい、大きな感情だ。
「明日には旅立つ」
ベアトリスの瞳がじわりと潤んだ。
「やっぱり……そうなんだね」
元々、いつでも旅立てるよう準備はしてきた。王国中を巡るなら十六年では足りないかもしれない。
一カ所に長く留まるつもりは無い。
ベアトリスが俺の胸に顔を埋めるように密着する。
ふわりと……彼女の匂いがした。
「行っちまうんだね」
「それが……英雄だからな」
マナのための旅だとは、誰にも言えない秘密だ。英雄というのも方便である。
ベアトリスがそっと上を向いた。
吐息がかかるくらい、お互いの顔が近づく。
「アタシじゃ……駄目かい? 田舎で何も無い街だけど、アンタを喜ばせてあげるくらいなら……アンタが望むことで、アタシにできることなら、なんだってやってあげるよ! 好きに……なっちまったんだ」
「俺なんかを?」
「そうだよ。誰もできないことをやってのけた。最初は街の人間みんながアンタを白眼視してたし、アタシだってそうだったよ。変な奴が来たって……けどね、アンタは本物の英雄だったんだ。高額な報酬も称賛も何も求めない。なのに、ダンジョンの魔物はやっつけちまうし、困り事は魔法で解決してくれた。フォレストエッジはずっと寂れてたけど、今じゃこの辺りでも一番の活気だよ。全部……アンタのおかげだ。そんなアンタをずっと……隣で見てきたんだよ? こんなに格好いい男……放っておけるわけないだろ?」
俺はベアトリスの顎をそっと指で掴むと、クイッと上げた。「あぁん……」と、彼女の口から艶めかしい吐息が漏れる。
そうか――
ベアトリスには、悪いことをしたな。本当に……。
「こんなことをさせて申し訳ない。俺が態度をハッキリさせなかったから誤解させたな」
そっと指を離す。
「ちょ、ちょっと! どうして!? 英雄色を好むって……」
まさか、こういった誘いがあるとは想定外だった。
俺は自身の胸に手を当てる。上着の布越しに、手のひらに二つの指輪がそこにチェーンに繋がれ揺れているのを感じた。
「ベアトリス。俺は誰か一人の英雄にはならない。王国を……世界を救う……それがログ・ノーティスという男の運命だ」
「アンタって……本当にバカみたい。けど、そんなバカに惚れちまった、アタシが一番バカだよ」
彼女は大粒の涙をぽろぽろ落とすと、ベッドの枕に顔を埋めた。
ここで妙な優しさを見せるのは、さらに彼女を傷つけるだろう。
「日の出とともに街を出る。見送りは必要無い。世話になった」
ベッドから腰を上げる。立ち上がり、部屋を出ようとすると、背後から抱き留められた。
「ねえ……今夜一晩だけでいいからさ……アタシだけの英雄になっちゃくれないかい? ずっと一緒にいたいなんて、もう言わないからさ」
「すまない……」
俺はマリエルを思い出そうとする。が、その貌はぼやけたままだ。
それでも、彼女を裏切るようなことはできない。
ベアトリスが緩やかな細腕の拘束を解いた。
「もしかして……アンタ、他に好きな女がいるのかい?」
本来ならマリエルとの関係は秘匿すべきことだ。
だが、ベアトリスには納得が必要だろう。
「隠していてすまない。俺には……生涯を捧げると心に決めた相手がいる」
心の中にずっと。死が二人を別っても、なお残り続けているのだ。決して過去にはしたくない。
ベアトリスの声のトーンから緊張がフッと消えた。
「そう……だったんだね……わかったよ。本当に……今夜は悪かったね。忘れて……くれるかい?」
「ああ……今夜のことは無かったことにしよう」
「あは、アーッハッハッハ……アンタって本当にイイ男だよ」
振り返ることなく、俺は彼女の部屋を出た。
二階の自室に戻る。
この部屋で眠るのも、今夜で最後か。
俺はザックからライブラを取り出した。
女店主ベアトリスから誘いを受けたが、断った。彼女を泣かせてしまった。今夜のことは忘れてほしいと言われた。
不意にライブラが喋り出した。
『なぜベアトリスと関係を結ばなかったのですか?』
「俺にはマリエルがいる」
『貴方のことですから、てっきりベアトリスを抱き、そこで満たされた感情を魔法力増強の糧にするばかりと。性愛は非常に強い感情です。消却すれば相応にして相当な恩恵を得られたでしょう』
「お前には人の心は無いのか?」
『はい。本ですから』
俺はライブラを閉じるとザックの中に押し込んだ。
翌朝――
ベアトリスが起きる前に出発しようとしたのだが……。
彼女は営業時間前だというのに、酒場フロアのカウンターで俺を待っていた。
「おはようログ。出発するには良い朝だね」
目が充血している。泣きはらしたのか。思えば俺は、男であれ女であれ、よく人を泣かせがちだ。
「おはようベアトリス」
「次の街までは結構距離があるからね。サンドイッチを作っておいたよ。アンタが好きなキュウリのピクルスもたっぷり挟んでおいた特別なやつさ」
「ありがとう。助かるよ」
カウンター越しに小さな包みを受け取った。いつの間にか、俺はピクルスが好きになっていたようだ。
記憶に無い。となれば消却したのだろう。自分には存在しない記憶なのに、他者の方はちゃんと憶えているんだな。
「じゃあ……行くよ。世話になった」
「行ってらっしゃい。また気が向いたら帰っておいでよ。あの部屋は空けておくからさ」
無事生きてこの旅を終えられたなら、きちんと顔を出そう。何年後になるかは定かではないが。
ベアトリスがカウンターを出て店の玄関を開いた。
「ほら英雄さん。見てごらん。みんな朝っぱらから物好きな連中だよね」
目抜き通りを東に向かう道の左右に、フォレストエッジの住人達が総出でずらりと並んでいた。
盛大なお見送りだ。事前に何も言っていなかったのに。夜中のうちにベアトリスがふれて回ったのか?
「昨日の今日で……どうやったんだ?」
「アタシが声を掛ければこれくらいね。いや、違うか。アンタがしてくれたことが全てだよ。この街は救われたんだ。アンタのおかげでね」
沿道から俺の名を呼び、英雄と称え、別れを惜しみ、この街同様に次の街も救って欲しいと懇願の声が上がる。
身に覚えが無い。
見知った顔も一人もいない。なのに、全員が俺のしたこと称賛し、俺の名を呼んだ。
ライブラには記述されているから、何があったかは理解している。
が、感情が追いつかない。
ベアトリスが俺の隣に立って言う。
「ほら、手を振るとかして声援に応えなきゃ。アンタ英雄になるんだろ?」
偽りの英雄。仮初めの記憶。存在しない感情。
それでも――
俺は声を張った。
「英雄ログ・ノーティスは今日、旅立つ! 街の人々全てに感謝の意を表する!」
右拳を突き上げると、沿道はドッと湧き上がった。
自分がどう思っているかは、もう関係がないのだ。
わざわざ見送りに集まった人々に、英雄の背中を見せるのも俺の役目だ。
なぜなら――
マナへ。
もし困ったら、ログ・ノーティスの名を出すように。人を頼るのは悪いことではない。マリエルに似たお前なら大丈夫だと思うが、父親に似ていたならちょっと心配なのでここに記す。
お前の父親はお前が困った時に誰かが助けてくれるよう、その人達を先にたくさん助けておくから。だから、困った時には街の人々を頼りなさい。




