11.予兆(11/42)
十ヶ月が経過した。
日に日に大きくなったマリエルのお腹に、命の不思議さと愛おしさを感じて過ごした日々だった。
身重の彼女は、まもなくということで村長の屋敷に引きこもりだ。
ただ――
マリエルはすっかり痩せこけていた。
健康的な肌の艶も失って、美しい金髪が色あせている。
腕も枯れ木のように、ほっそりとしてしまった。
妊娠するとそうなるのだろうか?
ベッドの上の彼女は、会いに行く度に「大丈夫だよ」「心配いらないよ」「うん、ほら、わたしって元々身体が強くなかったから」「生命魔法学もこうなると役に立たないね。けどログ君が来てくれるだけで元気になれるの」と、笑ってくれた。
彼女の左手の薬指で、指輪が緩くあそぶようになっていた。
「ねえログ君。お願いいいかな?」
「なんだって言ってくれ。リンゴだって剥くし、欲しいものがあれば下の街まで行ってくる」
フォート村から一番近い街道沿いの街までは一日がかり。まあ、さしたる距離でもない。
「あのね……指輪、ゆるくなっちゃったんだ。なくさないようにしたいから、チェーンとか革紐でネックレスみたいにできないかなって……」
「あ、ああ。そうだな。村の人達にちょうどいいものがないか、聞いてみるよ」
マリエルが眉尻を下げる。
「悲しそうな顔しないで。大丈夫だよログ君。もうすぐ赤ちゃんに会えるんだから、格好いいパパでいてほしいな」
「もちろんだ」
「それに指輪だって、元気になってもりもり食べて、手も足もすぐに元通りになるよ。むしろ食べ過ぎちゃって太って入らなくなったらどうしよ?」
「その時は運動をしっかりやらないとな。俺も一緒に付き合うから」
「うん! あっ……今、お腹を蹴ったよ。ほら、耳を当ててみて」
俺は彼女のお腹にそっと耳を寄せた。
マリエルの体温を感じる。そこにトントンと心音ともつかない何かがあった。
「ああ、生きてるんだな。俺達の子が」
「早くパパに会いたいって」
「ママにもだろ?」
「うん……そうだね」
儚げに笑う彼女が、どこか見ていて痛ましかった。
嬉しいはずなのに。幸せなはずなのに。
どうしてこんなにも、心がざわつくんだろう。
マリエルの体力が戻るまで、彼女の指輪を通す金のチェーンを買いに俺はその日のうちに山を下りた。
戻ってきた俺を待っていたのは――
マリエルとの永遠の別れだった。
助産師や村長が言うには、元々マリエルは出産に耐えられる体力が無かったらしい。
マリエルは自分の命を賭して娘を産んだ。
元気な赤ちゃんだった。
ああ……なんで俺はこんな時に、山から降りてしまったんだ。
村の誰もが俺を責めたりはしなかった。
それが逆に辛かった。
彼女の死に目に会えなかった。もっとずっとそばにいて、近くにいて、励ましていれば彼女は生きていたかもしれない。
いや、そんなことは俺の妄想だ。だが、もし感情魔法学じゃなく、生命魔法学を俺が修めていれば、何かできたかもしれないのに。
俺は産まれたばかりの娘とともに、マリエルの葬儀を行った。
棺に収められたマリエルは、俺が思っているよりも、ずっと小柄だった。
いつも背伸びでもしていたんじゃないか? それとも、あの飄々とした雰囲気に俺が呑まれていたから、彼女が大きく見えていたのかもしれない。
もう、喋らない。笑わない。あの体温を感じることもできない。
娘と二人、俺達は取り残された。
ああ……残酷すぎる。
この子は母親を知らずに育つのか。
おくるみに包まれた腕の中の我が子に語りかける。名前はマリエルが残してくれたものだ。
「なあ、マナ……お母さんに挨拶してくれ。最後のお別れだ」
きっとぼんやりとも見えていないだろう。
マナ・ルミナスは泣いた。目一杯、大きな声で。天国に届くように。
心にぽっかりと穴が開く。本当に……ぽっかりと。
それでも、俺がしっかりしなければいけない。立ち止まることを、マリエルは許してくれやしないさ。
守らなければいけないものが、この腕の中にある。
俺の胸元には、自分のものとマリエルのもの。二つの指輪を通したチェーンがペンダントのように揺れていた。
葬儀の日の夜――
弔問者も波が引くように村に溶けて消え、俺はマナを寝台に寝かしつける。
数少ない手荷物の中から、俺は青いノートを取り出した。
共用研究室の日報だ。教授に処分しろと言われたけど、できずにずっと手元に残していた。
ページを開く。
そこには学生時代のマリエルがいた。
彼女との最初のやりとりを思い出す。
ああ、そうだったな。俺が管理品の在庫数を訂正したところから、俺達の関係性は始まったんだ。
ページをめくる。
今にもドアが開いて、彼女がひょっこり現れて「じゃじゃ~ん! どっきりでした」なんて言い出しそうな気がした。
それならどれほど、よかったか……。
しばらくすると――
ソンチョ村長が蒸留酒の瓶とグラスを二つ手にして、俺達の部屋を訪れた。
「付き合ってもらえんかの。そういう気分でもないじゃろうが」
「お気遣い……ありがとうございます」
俺とソンチョは応接室に場所を移した。
ソファーに対面して座る。この村に初めて来た時のことを思い出す。あの時は緊張していたが、今はもう何も感じない。
ソンチョは無言でグラスに酒をつぐ。
が、互いに口にすることはなかった。
俺の頬を涙が伝う。
もう出枯らしたと思ったのに。それでも、人間の身体の大半は水なのだ。
「マリエルはこうなることを知っていたんですか?」
グラスを手にしたまま、老人は悲痛な顔つきで頷いた。山男のようなどっしりとした身体が、小さくしぼんで見えた。
「ああ……そうじゃとも。ずっとずっと前からのぉ」
「ずっとずっと……前って」
「あの子には口止めされておったが……伝えねばなるまい」
グラスをテーブルに置いて老人は俺をまっすぐ見る。
覚悟、決意、並々ならぬ感情が魔法力の揺らぎとなって、感じられるほどだった。
「わしの娘……マリエルの母親も同じじゃった」
「以前にも、その話なら伺いましたが……」
「偶然ではない。ルミナスの血筋では必ず娘が産まれる。その娘に子供ができると、その子供は母親の全てを受け継ぐのじゃよ……」
全てという言葉で、何もかも察した。
「命も……ですか?」
「そうじゃ。精霊様の血を受け継いだ勇者の血族の宿命なのじゃ。この呪いは魔王を倒さなければ消えることはない。封印ではなく打倒。それがルミナス一族の悲願じゃ」
俺は立ち上がると巨漢に詰め寄り胸ぐらに掴み掛かった。
「知っていて! わかっていて見殺しにしたのか! マリエルを救う手立てはあったんじゃないか!?」
「殴りたければ殴れ。殺したいというのなら、この老いぼれの命はくれてやろう」
動じるどころか、俺はソンチョの眼差しに気圧された。
そうだ。死んだのはソンチョの血を分けた孫娘なんだ。娘を失い孫娘まで……その深い悲しみは、きっと俺以上だ。
手から力が抜ける。
「すみま……せん」
「いいんじゃ。それくらい本気で、お前さんがマリエルを愛してくれたのじゃからの」
腰砕けになってソファーに背中を預ける。
「俺は……マリエルに何もしてやれなかった。それどころか……俺がマリエルを好きになって……愛したから……あいつは……死んだんだ」
もし出会っていなければ。あの日、ノートにあんなことを書かなければ……マリエルはもっと長く生きられたのに。
ソンチョが悲しげな視線を向けた。
「自分を責めるでない。マリエルは、お前さんと出会えて幸せじゃった。本当に幸せ者じゃよ。ログ殿には自分が死んだことを、身体が弱かったからと、伝えて欲しい……と、遺言を残していてな。お前さんの心の負担にはなりたくないと……ずっと漏らしておった」
「…………」
返す言葉が何も出ない。今はマリエルが幸せであったと......祈ることしかできなかった。
ソンチョが背筋を伸ばし姿勢を正す。
「これが終わりでは……無い」
「まだ、これ以上、何があるっていうんだ?」
「封印されし魔王に復活の予兆があるのじゃ」
「なん……だと」
「今よりおよそ十六年後。勇者が施した封印を破り、魔王は復活する。運命を記す書……光の書と影の書――導きの書ライブラが、それを感知したのじゃ」
教会にあるあの本が?
いや、それよりも……魔王復活……そんなことが起こるなんて……。
「魔王はどこに封じられているんですか?」
「わからぬ。が、復活した魔王を再び封印するか、それを倒せるとすれば……きっと成長したマナだけじゃ」
「マナにそんなことさせるっていうのか!?」
「勇者の血筋からは、誰も逃れることはできぬ」
俺もソンチョも家族を失い、再び家族を失おうとしている。
どうしてマナさえも差し出さなければいけないというのか。
おかしい。狂ってる。こんな世界は間違ってる。
ソンチョは続けた。
「マナはフォート村で勇者として育てることになるじゃろう。幸い、お前さんという魔法の師としては最適な人材もおる。これまで勇者の血筋が重ねてきた力を継承した子じゃ。なによりマリエルと婿殿の子……きっと強い勇者に育つじゃろ」
これじゃあマリエルは、強い子供を残すために死んだみたいじゃないか。
ソンチョは言う。
「十六年後、お前さん自身もその旅に同行せねばなるまい。この広い世界を巡り、かつての勇者がそうしたように仲間を集い、導かれし者達を束ねて魔王の所在を突き止め、それを倒す……それがマナの背負った宿命じゃ」
「普通の子供として、勇者でもなんでもない、ただの人間として……マナは生きられないのか?」
「そうしなければ今度こそ、世界は魔王によって滅ぼされるじゃろう」
そんなバカな話があるか。あってたまるか。マリエルが命をかけて産んでくれたのに。マナがいったい、何をしたっていうんだ。
まだしゃべることも、まともに何かを見ることもできないんだ。産まれたばかりで母親を失って、その顔も知らずに育って勇者になり魔王を倒せだって?
世界なんて勝手に滅べば良い。
もうここに、マリエルはいないのだから。
もう俺にはマナしかいないのだから。
「お前さんは……火事にあったマリエルがマリエルと知らずとも、火中に飛び込み助けに行ったそうじゃな」
「なんで今、そんな話を……」
「助けを求める人、救いを求める人がいれば、可能な限り最善を尽くす……そんなお前さんだから、マリエルは愛したのではないか?」
呼吸が止まった。
確かに……そうかもしれない。
世界なんてどうなってもいいと、見て見ぬフリができるなら、俺は王立魔法大学を無事に卒業して、ノーティス家の末席でそれなりの人生を歩んでいたに違いない。
マリエルが大学を辞めると言った時、彼女について行くと決めたのは……俺だ。
あの時も、マリエルは俺を巻き込まないようにしたかったんだと思う。
この村に来た時だって、俺は教会にある魔導書にすぐに自分の名前を書き記した。
思考を超えて身体が動く。昔から、ずっとそうだった。
天を仰ぐ。天井の先、屋根の向こう、空の果てに向けて呟く。
「マリエル……俺……やるよ」
再び前を向く。時間はかからなかった。いや、追い立てられるように、一分一秒も無駄にせず、俺は立ち上がった。
「村長。提案がある」
「なんじゃろうか?」
「十六年後、魔王復活まで待つ必要はない。俺が……マナに先んじて世界を巡る。マナの味方になりそうな人間を見つけて、仲間を増やす。成長したマナがたどる旅路を……先に行って偵察する……なんなら魔王の封印を見つけて……俺が倒す」
ソンチョが目を丸くする。
「な、な、なんとぉ!? し、しかし……良いのか? 旅立てばマナとは離ればなれに……」
「構わない! それが勇者の父親の役目だからだ。未来のマナの幸せのために、俺は俺の持つ全てを捧げる。マリエルが命でそうしたように、娘を守るためならなんだって……やってやる!!」
もうこれ以上、何も失わないために。
俺は独り、旅立つことを決意した。
そばにいてやれなくてごめんな……マナ。




