1-7. 聖女の手のひら
「導師様……!! ありがとうございます……ありがとうございます……!!」
「いえ、私もノエルさんが無事で……本当に安心しました。一体どうなることかと……」
穴の底から引き上げられると、ずぶ濡れのノエルを抱えたその両親が、『エリナ』と名乗るその少女に向かってひれ伏すみたいに何度も頭を下げた。
エリナがまるで奇跡のようにノエルの腕を治してみせた、あの後。
結局ヨシヤは、ノエルを抱えたままエリナと一緒に水の中でけっこうな時間を待たされた。
なんでも、盗賊を阻むための木柵やら何やらでロープを使い果たしていたらしい。
人を引き上げられるようなまとまったロープの束がなかなか見つからなかったのだ。
ぐったりとした息子を抱え、膝を屈する夫婦……そして、黒い僧衣の少女が人垣の中にいた。
有為子の顔をした、エリナを名乗る少女が。
一体こんなところで何をやっているんだ?
ヨシヤは故郷の砂浜で見た日蝕を、鐘の音を思い出した。
まさか、有為子まで一緒にこっちへ飛ばされてきたっていうのか?
じゃあどうしてエリナなんて名前を名乗ってる?
導師様っていうのは何のことだ?
それに、少年の骨折を一瞬にして治してみせた妙な力は……?
「……なあ、有為子」
ヨシヤは名前を呼びかけた。
彼女は振り返らなかった。
ヨシヤは震える足に手を突いて立ち上がった。
「有為子なんだろ?」
一歩、また一歩近付く。
彼女を囲む人垣の間をすり抜けるように。
「おい!」
少女の肩へ手を伸ばした。
その瞬間、間髪入れずそばに付き従っていた無骨な甲冑の男が、信じられない機敏さでヨシヤの腕を掴んで止めた。
「イッッッテ!!!!!」
少女は、驚いてヨシヤの方へ振り返った。
ノエルの救出劇に沸き立っていた村人たちまでも、一斉に静まり返った。
ガントレットの硬い指先がヨシヤの腕に食い込む。
だがそんなことはどうでもよかった。
ヨシヤは痛みに細めた目で彼女の方だけを見つめていた。
「っつ……おっ、俺だよ、 お前の兄貴だよ! お前……こんなとこで何やってんだ!? エリナって……そんな名前名乗ってんのか!?」
少女は、頭が真っ白になったみたいに目でヨシヤを見て立ち尽くした。
強張った口が震えたため息と共にほんの少し開いた。
「兄……様……?」
か細い声が彼女の漏れた。
まるで、頭の中で果てしなく長い時間の旅をさまよっているみたいに見えた。
かと思うと、甲冑の男の方へちらりと視線を移した。
「なあ有為子、お前、この人たちに導師様なんて呼ばれてんのか……? 一体何があったのか……」
「……アンドレア。離してあげなさい」
アンドレア。
それがこの甲冑の男の名前らしかった。
彼は黙したままヨシヤの腕からその手を離した。
「……私は、エリナと申します。この村から街道を南へ進んだ先の、テノハ寺院の導師です。幼少の頃はカベレナ街区の施設で育ちました」
そう言い終わる頃には彼女はほとんど落ち着きを取り戻していた。
「ウイコ様というのは……人違いではないでしょうか」
「ええ……? そ、そんな……馬鹿な……」
ありえない、そんなはずがない。
目の前の少女の顔をまじまじと見た。
さらさらした短い黒髪が片方、耳にかかっている。
華奢な肩に低い背丈。
洞窟の暗がりから引き上げられ、こうして明るい場所で眺めてみて改めて、とても別人とは思えなかった。
……やはりどこからどうみたって有為子だ。
この世界にやって来る前、ちょうど隣にいた妹の姿そのものだった。
戸惑うヨシヤをよそに、彼女はどうしても別のことが気になったようだった。
その視線はヨシヤの右手の方を見ていた。
「あら……」
「な、何か……?」
彼女はヨシヤの右手を両手でそっと掴んで、それを顔の前まで持ち上げた。
その手は小さかった。
可愛らしい少女の手と言ってしまうことだってできたかもしれない。
しかしよく見ると、皮膚は分厚くガサついていて、指の節目は太くゴツゴツとして見えた。
自分の手の方が綺麗なんじゃないかと思ったほどだ。
「……気付かなくてごめんなさいね」
気付かなくて? 何を?
少しして、それが人差し指の付け根についた非常に些細な擦り傷のことを言っているのだと分かった。
エリナはその両手でヨシヤの右手を包み込むと、恭しく目を伏せた。
「……慈しみ深き聖者ナラカよ。あなたが私を愛すように、私もこの者を愛します。その深き愛によって、この者を罪の苦しみからお救いください」
ノエルの腕を治したときと同じ聖句だと分かった。
エリナは目を伏せたまま、しばらくヨシヤの手を握っていた。
「おお……」
村人たちはため息をついて、みんなでエリナに向かって祈るような姿勢を取った。
両手の親指を交差させ、伸ばした他の四本の指の先を合わせる。
そういう形に組み合わせた両手を顔の前に当て、ほんの少し頭を下げるというのが彼らの祈りの所作だった。
何か、自分がとても神聖な儀式の中に放り込まれてしまったかのような気分がした。
エリナはそっと、ヨシヤの右手を覆っていた手を離した。
すると擦り傷は跡形もなく消えてなくなっていた。
「ええ? うっそぉ……」
ヨシヤは目を丸くした。
擦り傷のあった場所を執拗につねったり擦ってみたり、果ては引っ掻いてみる。
「あっ、あまり乱暴になさらないでくださいね」
「だ、だって……」
結局、ヨシヤが想像したみたいに人の肌を模したシールが傷のあった場所から剥がれてくる、といったようなことはなかった。
正真正銘、傷が治癒していたのだ。
ヨシヤはぽかんと口を開けた。
「とにかく、一緒に火に当たりましょう。体調を崩してしまいますよ」
エリナは甲冑の男を伴って、山道を下って村へ向かっていった。
その綺麗に伸びた背筋が、小柄な彼女を何か不釣り合いに大人びて見せていた。
このとき初めてヨシヤは、彼女が本当に有為子ではないのではないかと思い始めている自分に気付いた。
おかしな言い方だが、エリナをエリナだと思うようになっていった。
「……あんな美人の妹さんがいるのかい。うちの息子に紹介してくれないかしらね」
太った中年女性がいきなり縁談を持ちかけてきたものなので、ヨシヤは「地元遠いんですよね」と誤魔化した。




