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霧のメサイア  作者: 川端矢次郎
第一章 聖女の手のひら
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1-4. カモメの声、風にまぎれ

 ──緩やかに浮き沈みするフェリーの甲板から足を下ろすと、故郷の小さな港町だった。

 日差しはコートの上から熱く、耳を打つ凍てついた潮風が止むと、カモメの声がしていた。


 彼女の姿は桟橋の先にあった。

 黒いセーラー服の上に薄水色のダウンコートを羽織った少女が、待合所の壁に背をもたれていた。


 俯いたまま左右の足を所在無げに組み替えたりするそんな様子を、ちょっと立ち止まって見ていたいような気がした。


 


「……兄さん」


 有為子(ういこ)

 ちょうど1年ぶりに顔を合わせた妹が顔をこちらに向けた。

 低いところでその両手を握り合わせた。


「寒かったろ。待合所に居てくれればよかったのに」


「……って思うでしょ? さっきまで中に居たんだけど、暑すぎちゃって。ほら」


 有為子は壁にもたれた背を起こして手を差し出した。

 握り返すと指先までが暖かく、近付くと灯油の匂いがした。


 来月から高校生になるにしては相変わらず華奢だと思ったが、片耳にかけた短い髪は妙に彼女を大人びて見せた。

 雪みたいに冷たく清潔な可憐さだった。


「それより制服! この間届いたんだ。んふふ」


 有為子はこちらへ腕を広げ、小さく身体を回したりしてみせた。

 来月から彼女が入学する高校の制服である。


「どお? 何かコメント欲しいんですけど」


「毎日見てた制服をお前が着てると、なんか妙な感じするな」


 そしてヨシヤの母校の制服でもあった。

 この地方ではトップクラスの難関校、地元学生の憧れの的だ。


 この春休みの僅かばかりの間、真新しい制服は彼女にとって勝ち取った栄光の象徴である。

 見せびらかすようにわざわざ制服に袖を通して船着き場までの迎えを買って出た有為子をヨシヤはいじらしく思った。


 そしてその制服は、ほどなくして春色の輝きを失い、ありふれた生活の一部へと成り下がるのだ。

 ヨシヤはそれを既に知っている。


 


「ヨシヤくん。しばらくぶりだね」


 青銅の柵に囲まれた古めかしい一軒家に上がると、見覚えのない眼鏡をかけた父がリビングのソファーに腰掛けて待っていた。


 去年より少し太ったか?

 それでもまだ痩せこけて見える。


 手に持った本に栞を挟んでセンターテーブルに置く。

 眼鏡を外してケースにしまい込んだ。

 老眼鏡のようだった。


「……母さんは?」


「仕事が長引くみたいでね。夕飯までに帰れるかもちょっと分からないって」


「マジか……」


 あの人が帰って来いとうるさいから来たのに……。

 ヨシヤは肩透かしを喰らった気分だった。


「ヨシヤくんも座ったらどうだい。ほら」


「……ん、そうだね」


「私、コーヒー淹れてくるね。兄さんはお砂糖だけだったっけ」


「おう、悪い。頼むわ」



 

 腰掛けたソファーの座り心地はどこか他人の家みたいに感じられた。

 物心ついたときから座っていたはずなのに。

 

 そもそもリビングの異様な広さにヨシヤは圧倒されていた。

 東京のアパートの六畳間に慣れきった身体は、やけに高い天井の下でぎこちなかった。

 

「……しかしヨシヤくん、なんとなく雰囲気が変わったね」


「ストレートパーマをかけたんだ。前は癖っ毛だったろ」


「ああー、それでねぇ」


 父は大袈裟に頷いたりしてみせた。


「…………」


 時計の針の音がカチカチと鳴っていた。

 時刻はまだ3時前だった。

 キッチンの方からお湯が沸く音がする。


「……勉強の方はどうだい?」


「んん……まずまずって感じ。落第はなさそう」


「ほう」


「…………」


 マグカップにお湯の注がれる音が静かだった。

 ポットを傾ける有為子の丁寧な手つきが見えてくるようだった。

 

「バイトとかはしてるんだったかな。お金の方は大丈夫かい?」


「まあまあかな。あったらあっただけ使っちゃうから貯金とかはアレなんだけど……」


「ふむ」


「…………」


 有為子がお盆にマグカップを乗せてキッチンから出てきた。


「……彼女とかはできたりしたかい?」


「ああ、できたよ」


 テーブルにカップを置く拍子に有為子の手元が狂って、一筋のコーヒーが縁から伝い落ちた。


「オッ……なんだなんだ、やるじゃないかキミィ!」


 絶妙にぎこちない手付きで肩を叩いてくる父に、ヨシヤは冷めた気持ちになった。

 父がこうした腰の引けた親密さを見せるたび、ヨシヤは余計によそよそしい気持ちになるのだった。


 彼はヨシヤの母の再婚相手だった。

 有為子はその連れ子である。


 


 ヨシヤは実の父親とあまり会話した覚えがなかった。

 いつも家の外でぶらついていて、息子と顔を合わせようともしなかった。

 

 母は自分の店を持っていて金回りもよかったが、経営そのものが上手くいっていたかは怪しかった。

 よく国会議員の祖父に金の無心の電話をしているのを目にした。

 無神経で適当な人柄の母が、そういうときだけやけに小声だった。


 ヨシヤは布団の中で父と母の口喧嘩をよく聞いた。

 争いは日に日にエスカレートしていき、ある日を境に急に静かになった。

 そして父は出ていった。


 1週間後、再婚相手を紹介された。

 それが今の義父である。

 

 ヨシヤは母の無神経さに呆れた。

 別に、元から他に男がいたことなどどうでもいい。

 だが息子に隠そうとは思わなかったのか。

 あなたの息子は、これからこの男と暮らすことになるというのに。


 ヨシヤは義父と話すのが気まずくて仕方なかった。

 それは義父の人柄だけに原因があるとも言い切れなかった。

 

 有為子だけはきっと、この結婚のしょうもない汚らしさを知らないはずだった。




「まあ、ちょっと前に別れたんだけどさ」


「……どうせ兄さんのことだから、たくさん無神経なことして愛想つされたんじゃないの」


お盆を抱えて背を向けたまま有為子が茶々を入れてきた。


「見てきたみたいに言うじゃん……」


「違うんだ?」


「やめて……」

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