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霧のメサイア  作者: 川端矢次郎
第一章 聖女の手のひら
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1-3. 飛び込んだ聖女、暗がりのバプテスマ

 この村の人たちをヨシヤの世界へ連れて行ったとしたら。

 きっと、ペットボトルや信号機やスマホタッチ決済が何なのかなどについて、それこそ一から説明しなければならないのだろう。

 彼らにとっての自分がまさにそういう立場にあるのだ、という謙虚な気持ちが芽生えつつあった。




「……それはともかくだ。ハンスの家のガキが見当たらないんだ。今朝、盗賊どもを追っ返したときのドタバタでな」


「ノエルが!?」


 双子が目を丸くした。

 尻尾の先がピンと伸びる。

 

「林の方に逃げてくのを見たって話だから、攫われちゃいないはずなんだよ。導師様の指示で手分けして探してるんだが……」


 と、今度は後ろにいた細身の男が補足した。


「とにかく、ジナとラッカは家で大人しくしてるんだ。まったく、ヌシがいるかもしれないのに霧の近くをうろつくなんて……」


「そんな……! ボクたちもノエルを探すよ!」


 ジナがあくまで喰らいつくと、顔を見合わせた村人たちは、困ったような呆れたような様子だった。


「……そうかい」


 強いて追い払うこともないか……。

 そんな感じに、結局彼らはジナとラッカの手を引いていった。

 無理やり突っ返したばかりに、またあちこち動き回られるよりはマシだとでも思ったのかもしれない。


「あ、あの……よかったら、俺も手伝うっすけど」


 ヨシヤは村人たちのあとに着いていった。

 ヨシヤの頭にあったのは、これからこの世界でどう生活していくのか、ということだった。

 

 飯は? 寝床は?

 当座はこの人たちに頼るほかないじゃないか。

 せめて何か協力的な態度だけでも見せておかなければ。

 差し迫った危機感があった。

 さもなくば、姿を変える能力で食っていこうとしたら泥棒か詐欺師ぐらいしかないぞ。




 ノエルと呼ばれた少年はほどなくして見つかった。


 林の中でノエルの名を呼びながら練り歩いていると、何やら木々の中の窪んだ岩肌にほかの村人たちが集まっているのが見えた。


 窪んだ岩肌……遠くからはそのように見えた。

 近づいてみると、地面の下の暗闇へと続く穴だった。

 少年は暗い穴の底で、わずかに差し込んだ日の光に照らされて水に浮かんでいた。


「な、なんすかこれ……」

 

「『山の口』だよ。こっち側の斜面は地下に洞窟があってな……不幸中の幸いというべきか、雪解けの季節は水が溜まる」


「ロープは!?」


 ゴランが叫ぶ。


「さっきザックが取りに行った! 早く導師様を呼ばねえと……」


「まずいぞ、顔が水に沈んでる」


 その場の誰もが慌てふためいていた。

 だが、誰一人なすすべがなかった。

 少年はぴくりとも動く気配がなかった。


「ノエル……!」


 ジナが目に涙を滲ませて穴に身を乗り出すので、ヨシヤは背筋がヒヤリとした。


「おい、お前まで落ちるぞ!」


「で、でも……」

 

 ラッカがジナの首根っこを掴んで引き留める。

 二人の痛ましい表情に、これはいよいよとんでもないことになったなという実感が芽生えてきた。

 

 そんなとき。

 ヨシヤは不意に、木の枝に止まった小鳥の姿に目を奪われた。

 首をかしげる小鳥の顔がどこか呑気なものに見えた。

 

 ……鳥?

 そうだ、鳥だ。

 鳥になればいいんじゃないか。


 ヨシヤは脱ぎ捨てたコートをレジ袋と一緒にジナの胸元に投げ渡した。


「わっ! こ、これは……?」


「5万円もしたコートを汚せるかよ」


 ヨシヤは、木の枝の上で首をかしげる小鳥を見つめ返した。

 羽の大きさ、体毛の色、嘴の形……全てを舐め回すように観察する。

 

 そうだ、あの姿に。

 あの姿になってやるんだ。


 ……そう念じ続けると、気がつけばヨシヤは本当に小鳥になっていた。


「ウワーーーーーーッ!?」

 

 ジナとラッカはさっきぶりに仰天して腰を抜かした。


「どお? 鳥になってる?」


「ウワーーーーーーッ!?」


「よ、余所者の兄ちゃん……?」


 穴を囲む村人たちが唖然としていた。

 変身の瞬間を見ていなかった者もいて、彼らは何がなんだか分からず周りに視線を行ったり来たりさせた。

 


「俺に任せな」


 ヨシヤは穴へと飛び込むと、広げた羽が風を受け止めるのを感じた。

 羽ばたくことはとてもじゃないが難しかった。

 羽の動かし方なんて知らないからだ。


 しかし、小さな身体はゆるやかに降下していった。

 

 よし! 滑空はできる!

 ヨシヤが想定していた最悪の可能性は、まるで小鳥らしからぬスピードで……ちょうど人が落下するそのままの速さで真っ逆さまに叩きつけられることだった。

 

 見掛け倒しだからと落胆することはなかった。

 姿形が変わるだけでできることはいくらでもある!


 水面に足がつくと同時に変身を解いた。

 ちゃぷん、と身体が水に浸る。

 少し遅れて、タートルネックのセーターと綿のパンツに水が染み渡っていく。


「ウッッッッウォ!!!!つめッッッッッてェ!!!!!」


「おじさーーーーーん!!!!!」


「お兄さんだろォ!?」


 ヨシヤの汚い絶叫と双子の慟哭が洞窟に響き渡った。

 ヨシヤはブルブル震えながら犬かきでノエルのもとへたどり着いた。


 大急ぎで顔を水面から引き上げてやると、少年の髪から水が流れ落ちる。

 何度か身体を揺すってやると、ノエルは咳き込みながら口の端から水を吐き出した。


「ゴボッ……オ……ア、アアア……!!」


「よかった、生きてる……」


 ノエルは気の毒になるほど真っ青な顔で眉根を寄せ、震えた息を小刻みに吐き出していた。


「もう少しの辛抱だぞ。村の人がな、ロープ持ってきてくれてるところだからな」


 ヨシヤは励ますようにノエルの肩を叩いてやった。

 その反応は全く予想外のものだった。


「イッ……アアアアアアッ!!」


 引き裂かれるような悲鳴。

 ヨシヤは血の気が引いた。

 ノエルは息するだけで痛むみたいに細かい息を吐き続けた。


 暗がりの中で、急にヨシヤは冷静になり、注意深くなった。

 そうして自分が何を見落としていたのかに気付いた。


 ノエルの左腕が、ありえない方向へとねじ曲がっていることに。

 その腕は、パンパンに腫れ上がって紫色をしていた。


 


「おい……マジかよ」

 

 ノエルを抱えたまま、石みたいに固まった。

 おぞましさのあまりいっそ手を離してしまいたかった。

 だが、その拍子にこの子がどんな悲鳴をあげるかも分かったものではない。


 指一本たりとも動かせなかった。

 どうする? ロープを持ってきたとして、どう引き上げてやるっていうんだ?



 

 すると、にわかに穴の上が騒がしくなった。

 そのとき、ヨシヤは何故だろうか、雲の隙間から日が差してくる様子を連想した。


「導師様!?」


「この穴です!! 息子がここに!!」


 穴が縁取る丸い光の中に、勇ましいまでの勢いで人の影が乗り出してきた。


「中へ飛び込まれた方!! 聞こえますか!?」

 

 女性の声だった。


「え!? あ、ああ!」


「私はエリナ!! テノハ街区から参りました、導師のエリナと申します!!」


 導師様。

 この村に来て何度か聞いた名前だった。

 

 ヨシヤは意外に思った。

 導師様と聞いて、勝手に壮年の男性の姿を想像していたからだ。


 それは少女のようにも、妙齢の貴婦人のようにも聞こえる不思議な声だった。


「ノエルさんのご様子は!?」


「あ、ああ! 生きてる! でも腕が折れてて……このままじゃ引き上げられねえ!」


 穴の上の様子がどよめき立った。

 ヨシヤは、子供は一旦置いておいてひとまず自分だけ引き上げてもらう口実はないものかと考え始める頃合いだった。

 予想外の水の冷たさでそろそろ限界がきていた。


「……足は着きますか!?」


「いいや、着かない!けっこう深いぞ!」


「分かりました!! 少しだけ離れていてくださいねッ!!」


「え?」


 ヨシヤが素っ頓狂な声をあげるのとどちらが早かっただろうか。

 光を遮っていたその影が、あろうことか、身体を丸めて穴の中へと飛び込んできたのだ。

 

 あまりに一瞬の出来事だった。

 すさまじい水飛沫があがった。

 何かのアトラクションじみた勢いの水を顔面に受け、ヨシヤはぱちくりと瞬きをした。

 

 暗い水の底から泡がぶくぶくと弾ける。

 それを追いかけるようにして、黒い影が浮かび上がってきた。

 



「ぷはぁ」


 小柄な少女が、水面から顔を出した。

 黒く艶やかな短い髪から水が滴り落ちる。

 暗闇に溶けるような漆黒の僧衣は、強いて言うのなら、修道服か何かに似ているとヨシヤは思った。


 エリナ。

 導師エリナ。

 ヨシヤは少年を抱えたまま、彼女から目が離せなかった。


「ノエルさん。もう大丈夫ですからね」


 慈しみに満ちた声。

 エリナはヨシヤの向こうから、ノエルの身体にそっと両手を添えた。

 そして穏やかにその目を伏せた。


 幼い少年を挟んですぐそこにエリナがいた。

 間近に見て、余計に華奢な肩だと思った。

 こんな小さな肩で人を救おうというのか。

 そんなことを思った。


 

 

 エリナは、とても小さく息を吸った。


「慈しみ深き聖者ナラカよ」


 そうして何かを唱え始めた。

 妨げてはならない何かが始まった、とヨシヤは思った。

 自分の前髪から落ちた水滴が水面を鳴らしたことさえ畏れ多く思った。


「──あなたが私を愛すように、私もこの者を愛します」


 ヨシヤは、それが聖句だと気付いた。

 それを何ら唐突なものと思わなかった自分に、またヨシヤは驚いた。

 澄んだ声は、響く限りそこにあるもの全てを清らかにしていくようだった。

 

「その深き愛によって、この者を……罪の痛みからお救いください」

 

 水が、岩が、暗闇が、日の光が彼女の声を聴いていた。

 そうだ、私はずっと清らかになりたかったのだと、全ての者に思い出させる。

 そんな声を。


 ノエルの顔からは、苦しみの相がさっぱり引いていた。

 そして信じられないことに……折れていたはずの少年の腕は、まるで最初から何事もなかったかのように綺麗に治っていた。




 空気と混ざり合った水飛沫が、頭上から差し込むわずかな日の光と助け合って虹を作った。


 エリナは伏せた瞼を静かに開けた。

 そして、少年の無事を心の底から喜ぶように頬を緩ませた。

 

 ヨシヤは、なんて綺麗な子なんだろう、と思った。


 その次の瞬間。

 心臓が嫌な音を立てた。



 その顔は、この世界にやって来る前に隣にいたヨシヤの妹。

 有為子(ういこ)と全く同じ顔だった。

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