ランジャー村の伝説
ネルはあの日、溺れていた俺を助けてくれた。それから、湖岸にある小さな小屋に毎日のように現れて、俺の足を治療したり、餌をくれたりした。
彼女は俺を膝の上に乗せると、人間について教えてくれた。
「クロ、私はね、本が好きなんだ。今度持ってきてあげる。一緒に読もう」
本……? 俺が首を傾げると、ネルは照れくさそうに笑った。
「本しか友達がいなかったから……でも、クロは友達だよ!」
俺が吠えると、ネルはまた笑った。
やがて、数日後には俺の足は完治した。朝からネルが小屋に来るのを待っていると、そこに現れた彼女はいつもより落ち込んでいる様子だった。
「クロ、おはよう。えっとね、干し肉なんだけど……お母さんに食べ過ぎだって言って殴られちゃった」
俺はネルの膝の上に乗って、話を聞いていた。彼女は頬のアザを魔法で治療すると、寂しそうに微笑んだ。
「私ね、どうやら家には居場所がないみたい。他の家族みんなは仲がいいのに、私だけがいらない子みたいな扱いを受けるんだ。なんでだろうね?」
彼女は視線を俺に向ける。
「そんなこと言っても、クロにはわからないよね。大丈夫、私はクロが友達でいてくれたらそれでいいよ……そうだ!」
すると、ネルがカバンから四角くて分厚い、紙を束ねたものを取り出した。
「これが本だよ。前に言ってたでしょ。お気に入りなんだ。『ランジャー村の伝説』っていう、この村について書かれた本だよ」
彼女は本をめくると、その内容を読み上げていった。
────かつて、この村は悪しき魔獣に苦しめられていた。作物を荒らし、人々を飢えさせていた魔獣を、人々は火の魔法を使って追い払ったという。
偉大な魔法の力により、村は救われた。
という内容らしい。しかし、ネルはこの物語の主人公や村の人達ではなく、魔獣に対して共感していたようだった。
「この物語の魔獣は、クロみたいにお腹が減っていたから作物を荒らしたんだよね? なのに悪者扱いされてさ……ちょっと私みたいじゃない?」
ネルは何かが書かれたメモを取り出すと、俺に見せた。
「これが、私なりにこのランジャー村の伝説をアレンジしたもの。この物語には続きがあるってことにしたんだ」
────村を離れた魔獣は、空腹で倒れてしまった。しかし、村で一番の嫌われ者だった少女が、自らの身体を差し出し、魔獣は飢えを免れたという。
ネルのメモに書かれていた物語の続きは、こういった内容だった。
「だから私は、クロに食べられたってなにも怖くないんだよ?」
彼女はそう言って笑った。しかし、そんなこと言われたって、食べるわけないだろ。恩人なんだから。むしろ、餌をくれたり治療してくれたりしてくれてありがとう。
俺はネルの腕に潜り込んで、その体温を感じる。そしてふと、思った。
俺が人間だったら、この気持ちをネルに伝えられるのにな。
◇
そんなある日、小屋の扉を強くノックする音で目が覚めた。そして、ネルの震えた声が響く。
「クロ!」
扉を勢いよく開けたネルは、まだぼんやりとしたままの俺に駆け寄ると、強く抱きしめて言った。
「朝起きたらね、家族が……! 誰も居なくなってて」
朝起きたら家族が? どういう状況なんだ。以前から彼女の家庭に問題があったのは知っていたが、まさか居なくなってしまうとは。
「どうしよう、クロ……私、これからどうすればいい? どうやって生きていけば……」
俺は何もできず、ただ泣いているネルの身体に寄り添っていた。どうしたものか……人間は一人では生きていけないものだから、きっとこのままでは彼女は────。
突然、小屋の扉がガチャリと開いた。そして、背の高い人影が、すっと室内に入ってくる。その瞬間、ネルの腕がくっと締まるのを感じた。
「誰……?」
ネルがそう言った途端、影はピタリと止まり、その場に座り込んだ。そして、優しい声色で言う。
「怖がらせてすみませんでした。あなたがネルと……その子は魔獣ですか?」
その女性は、そのまま怖がっているネルに事情を説明した。
「私はディアンタ。この村の市長です。ネルの家族に頼まれて、あなたたちを引き取ることになりました。今日からよろしくお願いします」
「引き取る……? 家族のみんなはどこへ行っちゃったの?」
「それがですね……原因不明の呪いにかかったので、治療のために街に行ったのです。その、多分しばらくは帰ってこれないでしょう」
「そ、そうだったの? そんな様子はなかったけど……」
ディアンタは、こちらに視線を向けると、首を傾げた。
「魔獣が人に懐いている……不思議ですね」
「魔獣じゃなくて、この子はクロ。私の唯一の友達だよ」
「そうでしたか。では、クロと一緒に新しいお家へ案内しましょう。この小屋に住むわけにもいかないでしょう?」
「そうだけど……前の家は?」
「残念ながら、前の家に住むのは難しいでしょう。ただ、あなたの荷物だけは運ぶのを手伝いましょう」
「クロは……一緒でいいんだよね?」
ディアンタは立ち上がって言った。
「安心してください。新しい生活が始まっても、クロとは一緒にいて大丈夫です。餌も用意しますよ」
「よかった……!」
ネルは俺を抱きかかえると、すっと立ち上がった。そして、涙を拭って言う。
「ディアンタさん! その……これからよろしくお願いします」
「もう家族同然なので、あまり気をつかわなくていいですよ。よろしくお願いしますね、ネル。それからクロ」
こうして、小屋での生活は終わった。森を離れてから一ヶ月ほど経ったか。俺は、すっかり人間への憎悪や恐怖は薄れ、むしろ尊敬すらするようになっていた。
そしてネルは、憧れの存在になった。




