しるし(3)
「――そこの兄ちゃん、しるしつけられたな」
「えっ……どちらさまですか……?」
唐突にしゃがれた老爺の声が聞こえて、ニカは振り返った。ニカたちがいる堤防の下のところに、小柄な白髪の老人が両手を後ろにやって立っていた。
「しるし……?」
宇津季が警戒するようにやや目を細めて老人を見下ろした。
老人はそんな宇津季の様子を見て、やれやれとばかりにため息をつくと、片手をちょいちょいと振って「降りてこい」とジェスチャーする。
老人が地元の人間なのだろうということをなんとなく察した四人は、大人しく堤防から下へと降りる。
「このあたりは遊泳禁止にしても泳いだり、花火だのなんだのして浜を汚してく若者がいるんでな。こうして見回っとるんだ」
「ここ、昔は海水浴場だったらしいですね」
異世界先輩はアザのようなものがある右目の端が痛いのか、片目だけ少し細めながらも、海の家の残骸とでも言うべき朽ちた骨組みに視線を向ける。
老人は、そんな異世界先輩の言葉にゆっくりとうなずく。
「もともと泳ぐと『引っ張られる』って有名だもんで、地元の人間はだれも泳がない場所だったんだ。そこを金に目がくらんだ連中が海水浴場にしちまったら、案の定溺れる人間が続出して、今は元通りってわけだ」
「なるほど……そのような経緯があったんですね」
「……それでその、さっき言っていた『しるし』って、なんですか?」
老人と異世界先輩の会話に筒井筒が若干しびれを切らした様子で入る。
「そこの一番でっけえ兄ちゃんの顔に出たのがそうだよ」
見比べるまでもなく、この場でもっとも背が高いのは異世界先輩だ。
四人の視線が、異世界先輩に集まる。
続いて老人は言う。
「しるしってのは海神の嫁さんのしるしだよ」
「嫁……?!」
老人を除く四人の、おどろきに満ちた声が重なった。
しかしすぐに異世界先輩は老人へ矢継ぎ早に質問をぶつけて行く。
「……男でも嫁なんですか?」
「昔っからそのしるしは『嫁御のしるし』と呼ばれてるからな。男でも嫁は嫁。悪いこと言わねえからすぐ帰んな。で、しるしが消えるまでこの海には来ちゃなんねえ。できればもう二度と来ないほうがいい」
「その海神とはどんな神様なんですか?」
「名前なんて知らねえよ。海神って呼ばれてるからには海にいる神様なんだろう。虫の居所が悪いと、足を引っ張るって昔から言われてる」
「このままここにいたらどうなるんですか?」
「兄ちゃん……悪いことは言わねえから帰んな。言っただろ、『嫁御のしるし』だって。そりゃこのままだと海神に輿入れすることになるんだよ」
「神隠しに遭うってことですか?」
「さあな」
最後の老人の言葉は、明確な回答をはぐらかしたように聞こえた。
「いいからさっさと帰んな」
これ以上の質問は許可しないとばかりに、今度は片手でしっしと追い払うような仕草をしてから、老人は堤防沿いに歩いて行ってしまった。浜辺を見回っていると最初に行っていたので、その行動自体に不自然さはなかった。
「これって『神隠しコテージ』と繋がりがあるのかな?」
「コテージで客が消えた原因は、海神にあるってことですか?」
「なかなかいい線行ってると思わない?」
突如、潮のにおいがする強風が海のほうから防風林へと向かって吹き付ける。ゴーッという音が上空で響き渡り、斜めに立つ防風林の枝が震えるように揺れた。
「『帰れ』って言われちゃったけど、バイトで泊まり確定なんだよねえ」
「なんでそんなのんびりしてるんだ」
「出まかせの可能性もなきにしもあらず。あのおじいさん、若者は好きじゃないみたいな感じだったし」
「それにしては丁寧に説明してくれましたけどね……」
いつもの異世界先輩であればもっとはしゃいでいそうな気もしなくもないが、ニカの目には落ち着いているように映る。……不自然なほどに。
「……帰らないんですか?」
ニカがうっすらとした不安を抱いたように、宇津季もその様子だ。眉を下げて、控えめながらそんなことを言う。
異世界先輩は吹き付ける海風が強いせいなのか、黒い目を細めて宇津季を見た。
「気にならない? このままここにいたら私は神隠しに遭うのか」
「いや、そうなったらやばいだろ」
「でも『しるし』が出たのは私だけだから、私だけが消えるのかな? どう思う?」
「それは、嫌です」
宇津季がハッキリと言った。
異世界先輩はそんな宇津季の言葉を受けても、瞠目したりせず、いつも通りの微笑に目を細めているように見えた。
「……『しるし』が出たのは私だけだから、みんながいるなら大丈夫だと思って」
ニカの目には異世界先輩が薄ら笑いを浮かべて、取り繕った言葉を口にしたように見えた。
その証拠とでも言うように、異世界先輩は「風が冷たいから帰ろう」と不自然に話を打ち切った。




