第三章 ゆうちゃん
「今年は、大切な人と一緒に、憧れの『アメリカンパーク』で最高のクリスマスを」
お城をバック、巨大なクリスマスツリーが点灯する。人々は歓喜の声を上げて、顔を見合わせて微笑み合う家族連れや、互いに寄り添い合う恋人たちの姿がアップで映し出される。
毎年この時期に合わせて、どのチャンネルでも流れるテレビのCM、それをぼんやり見つめながら、自分には関係がないかなと、慌てて目を逸らしてみる私。最近ネットで読んだアンケート結果では、今年のクリスマスに予定のない人が、七割を占めると紹介されていた。平日のど真ん中だし、昔ほどクリスマスを特別視している人が少ないということなのかも知れないけれど、煌びやかな電飾の明かりや賑やかな音楽に触れていると、否が応でも心が浮き立ってしまってそわそわしてしまう。
そんな私に追い打ちをかけたのは、いつきからの電話だった。
「私ね、彼氏ができたんだ。同じ大学の人なんだけど、クリスマスに『アメリカンパーク』に行くことになったんだ」
いつきの幸せに満ちた表情が思い浮かんでしまうほどの、甲高い声だった。
「あっ、そうなんだ……いつき、よかったじゃん」
あえて、明るく振る舞おうとしている自分がいるのが、なんだかもどかしい。どうせ、いつきのことだから、クリスマスを前に慌てて彼氏を作ったのだろうけど、そのことには触れないでおく。
「優里は、今年のクリスマスはどうするの?」
嫌味っぽく聞こえたけれど、私は感情をぐっと押し殺して、
「特に予定はないかな……」
と、答えてみる。だって、それは本当のことだったから。
「そっかぁ。それじゃ、『アメリカンパーク』に行ったら、優里にお土産を買ってくるよ。ほら、前に一緒に行ったときに、優里、クリスマス限定の『シャドウ』のぬいぐるみが欲しいって言ってたでしょ」
「えっ、うん……でも、せっかくの彼氏とのデートなのに、なんだか悪いよ」
「いいのいいいの、気にしないで。私と優里との仲じゃない」
「えっ、うん……」
一体、どんな仲なのかと、このときばかりは、いかにも仲良しの友達面をしてみせるいつきのことを疎ましく思ったが、だけどすぐに昂った感情が引いていった。いかにも、いつきらしいなと思えたから。いつきは、私と違って、悪気なく感情を前面に出すタイプなのだ。それでいて、これまでに色々と失敗を繰り返してきて、結局は泣きながら私のところに戻ってくる。子供みたいと言えばそうかも知れないが、そんないつきの性格に憧れている自分がいるのも確かなことだった。何しろ、これまでに異性と手を繋いだこともなかった私だったから。
今回こそ、いつきがそうならなければいいなと祈ってみる私。
「優里に大切な人ができることを、クリスマスツリーに向かって、ちゃんとお願いしておくからね」
と、嬉しそうに話すいつきに向かって、
「素敵なクリスマスを過ごしてきてね」
と、電話越しに微笑みかける私だった。
いつきからの電話の用件は、それだけだった。嬉しさのあまり、彼氏ができたことを私に報告したかったのだろう。ある意味で、なんでも包み隠さずに話してくれるところが、いつきと付き合っていて、心地よく感じるところではあったのだが。
電話を終えた後、私は待ち受け画面に戻ったスマホを、ぼんやりと見つめていた。
「優里に大切な人ができることを、クリスマスツリーに向かって、ちゃんとお願いしておくからね」
さっき、いつきが電話の中で何気なく漏らした言葉だった。
「私の大切な人かぁ……」
そう呟きながら、クリスマスイブの夜に願い事をするとそれが叶うと言う、パーク内のクリスマスツリーの前で、恋人と肩を寄せ合ういつきの姿を思い浮かべていた。
その週の日曜日、寝坊ができると、朝遅くまで布団にくるまっていた私は、マナーモードにし忘れていたスマホの着信音で目が覚めた。画面には、母の名前。「旅行先で、どうしたんだろう?」と思って、電話に出てみた。
「優里、眠たそうね。まだ寝ていたの?」
私が電話に出た声を聞いて、一番に母が言った。
「そっ、そんなことはないよ。レポートを書いていて、ちょっと疲れたから休憩をしようと思っていただけ」
そう答えて、とっさに否定してみせる私。電話を取ったときに見たマホの画面には、『10:35』の時刻が表示されていて、もしもまだ寝ていたなんて答えようものなら、電話越しに母からうるさく言われるのが目に見えていたからだった。
どうやら、私の芝居は成功したようで、母は私の寝坊を咎めることなく、用件を話し始めた。母の要件というのは、ポストに出し忘れていたハガキがあるから、代わりに出しておいて欲しいとのこと。友達と二泊三日のバス旅行に出かけているだけだから、帰ってきてからポストに投函すればよいものを、母によると、それは高校の同窓会の出欠確認のハガキで、締め切りが三日後なのだという。最近の郵便事情を考えると、確かに母が帰ってきてから投函したのでは間に合わないかも知れない。なにしろ、母が通っていたのは遠く離れた四国の高校なのだから。母が、そんな大事なものを出し忘れていたなんて信じられなかったが、年末の片づけや買い出しに追われていたのだろう。だから私は、母からハガキをしまっている場所を聞くと、そのまま電話を切ったのだった。
仕方なく布団から這い出た私は、忘れないうちにハガキを手元に置いておこうと、母から告げられた整理ダンスへと向かう。整理ダンスは両親の寝室の中にあって、私が中学生の頃に一度入ったきり、そこに足を踏み入れたことはなかった。
「えっと……整理ダンスの上から二番目の抽斗」
頭の中がまだぼんやりとしているので、忘れないように何度も口ずさむ。
父は、朝早くから休日出勤に出かけたようで、父の布団が無造作にめくれていて、私は母に代わってそれをきれいに直す。そのくらいのことは、父が自分でやればいいと思うが、母のことだから、仕事で疲れて帰ってきた父のために、毎日そんな作業をやっていたのだろう。
冷蔵庫の中には、母が留守にしている間の食事が、きっちりと分けられていて、母が冷蔵庫の扉に残したメモに沿ってそれらを温めるだけで、母の手料理を食べることができた。
そういう意味では、この家は母がいるからこそ、成り立っているのだとも言える。少し細かいところがあるけど、それに、口うるさく言われてイラっとしてしまうことも日常茶飯事だったけど、そんな母がいなければいないでなんだか心もとない。
せめて、旅行に行っている間くらいは、母に代わって家のことをやろうと思った。掃除に洗濯、食事の用意、あっ、それと母が毎月欠かさずやっているお墓参りも。
整理ダンスは、寝室の奥にあった。言われた通り、上から二番目の抽斗を開けてみる。服が入っているのかと思ったが、そこには銀行の預金通帳や印鑑、届いた手紙やカード類が、きれいに整理されていた。母の大事なものを、ここにしまっているのだろう。これなら、泥棒が家に押し入ったとしても、まさかこんなところに通帳が入っているとは思わない。
問題のハガキはすぐに見つかった。『ご欠席』の『ご』の文字を線で消して、丸で囲んでいる。いくら高校の同窓会と言っても、そのためにわざわざ四国まで帰れないのだろう。
ハガキを見つけてしまえば、あとはこの部屋に用はなかった。元通りに抽斗を閉めようと腕に力を入れたとき、ふと抽斗の中のものが目に留まった。掌に乗りそうな、桐の箱。よく見れば、二つあるようだった。
「なんだろう?」
と、とっさに思ったのは、単なる好奇心からだった。
「アクセサリーか、イヤリングかな……桐の箱にしまってあるなんて、なんだかお洒落……」
取り出してみたのは、表に私の名前と生年月日が印字された桐の箱。
「えっ、私の名前? 誕生日?」
恐る恐る蓋を開けてみると、乾燥剤の袋と、スルメのようなものが出てきた。蓋の裏面には、『由来』の文字とともに、『まわりの人々の心のよりどころ、そんな優しい大人に育つことを願って』と印字されている。
「あっ」
っと、声を出した。「へその緒だ」と続ける。今までに学校の保健の教科書の中でしか見たことがなかったけれど、私が母のお腹の中にいたときに、母と私とを繋いでいた命のバトン。今にもちぎれてしまいそうな頼りないものだけれど、母の温もりを全身で感じながら、母から生きる希望を貰っていた証。
「お母さん、これを大事に取ってくれていたんだ……」
と、感慨深く呟いた。そして、両親が『優里』という私の名前に込めた想いを噛みしめる。これまで、自分の名前の由来なんて、考えたことがなかった。母の名前が『優愛』だから、そこから『優』の文字を取って、名づけたくらいにしか思っていなかった。だけど、そんな思いが込められていたなんて……なんだか、私の身体がふわっと浮いて、大いなるものに抱かれているような、穏やかな気持ちになった。
どれほどの時間、私はその桐の箱の中身と対面していただろうか、ふと我に返った私は、用事があってこの整理ダンスの抽斗を開けたことを思い出した。
「あっ、いっけない。ハガキを出すんだった」
早くしないと、一日に一回の集配が来てしまう。私は、持っていた桐の箱を、慌てて元の場所に戻す。戻すときに、もう一つあった桐の箱の表の文字が見えた。『優人』という聞き慣れない名前。
ほとんど無意識に、私はその箱を取り出すと、蓋を開けていた。中には、私のものと同じように、乾燥剤の袋と、干からびたへその緒が入っている。やはり、蓋の裏には『由来』の文字と、『まわりの人々を温かい気持ちにさせる、そんな優しい人に育つことを願って』という言葉が印字されていた。
「えっ、『優人』って……誰?」
とっさに首を傾げる私。『優人』なる人物に、心当たりはなかった。父の名前は『義郎』だし、もうだいぶ長い間会っていない父方の従弟がいたが、彼の名前は『颯太』、『優人』とは一文字も被っていない。もっとも、母が従弟のへその緒を保管しているはずはないだろうけど……。
ふと思ったのは、母が再婚していたらということ。前にテレビで見た刑事ドラマでは、突如現れた、母が生き別れた息子と、主人公の男性とを巡って、事件が繰り広げられるというストーリーが展開されていた。最後に二人の異父兄弟が互いの境遇を知り、わかり合えたところで、ドラマは幕を引いたのだったが、もしかしたら私には兄弟がいるのではないかという、疑念が芽生えたのは確かなことだった。
だけど、一方で、そんなことがあるはずはないとも思う。母に、興味本位で父との出会いのことを聞いたことがあったが、母は、見合いだったとはっきり答えていた。父も母も、異性と交際した経験のない中での見合いだったから、交際を始めた後も、手を繋ぐまでに半年もかかってしまったことを、私の目の前で顔を赤らめながら語っていたくらいだった。だから、母が再婚だとは考えにくい。
となると、この『優人』というのは、一体誰なんだろう。見てしまった以上は、気になる。母が旅行から帰ってきたら、それとなく聞いてみよう。頼まれたハガキを探していたときに、たまたまへその緒を見つけたと言い訳すれば、母は正直に話してくれるに違いない。
母の返答次第では、自分の出生に関わる重大なことになるかもしれないが、このときの私は、まだそこまで深くは考えていなかった。
「あら、優里ちゃん、来てくれたの。ちょうどよかったわ」
母から託されたハガキをポストに出しに行ったついでに、祖父の家に行ってみると、祖母が玄関のカギを閉めるところだった。
「こんな花しか、咲いていなかったけどな」
家の庭から顔を出した祖父が手にしているのは、家のまわりに植えていた菊の花。
「おばあちゃんたち、これからどこかに出かけるの?」
「ちょうど裏の墓参りに行くところだったのよ。せっかくだから、優里ちゃんも一緒にどう?」
祖母が明るい声で言ったので、私はグッドタイミングとばかりに、首を縦に振った。母に代わって墓参りをしようと思って、ここにやって来たのだった。
自転車を、祖父の家の敷地に停めて、そこから祖父たちと一緒に歩いて向かう。目的地の墓は、祖父の家の前の道を少し田んぼの方に行ったところにある、ひと際大きなクスノキが鎮座しているそのたもとにあった。
あたりの田んぼは藁が敷かれて、すっかり冬を迎える準備を終えている。小春日和を思わせるような温かい日ざしのもと、田んぼの向こうに見えるのは、今、私が住んでいる住宅街がある丘。
冬でも葉を落とさないクスノキの下は、時折吹き抜けるひんやりとした風が、土や線香の匂いを運んできている。
祖父の家の墓は、いくつか無造作に建っている墓石のうちの一つだった。辛うじて『先祖代々之墓』と彫られた文字が読める墓石は、長年の風雨にさらされて、角が丸みを帯びている。テレビのCMで見かけるような、意匠を凝らしたデザインの現代的な墓石とは、また違った趣を感じさせている。
祖母が、持っていたビニール袋を広げて、墓石のまわりを掃除し始めたのを見て、私も落ちているゴミや落ち葉を拾っては、袋に入れていく。単に線香を立てて手を合わせるだけでなく、きっと母も、こうやって墓のまわりをきれいにしていたのだろうと思った。
いざ、墓のまわりの掃除を始めてみると、思っていた以上にゴミや落ち葉が堆積していることに気づく。頭の上のクスノキの葉は、カサカサと音を立てながら風に揺れているが、四方から吹き付ける風が、知らぬ間にそれらを運んでくるのかも知れない。ちょうど今いる場所は、周囲よりも少し低くなっているので、飛んできたものが地面のくぼみに引っかかって堆積しやすいのだ。
そうやって、墓のまわりを掃除していたら、母が毎月一回、必ずここに来ていた理由がわかったような気がした。身体がだいぶ悪くなってきた祖父母に代わって、嫁いだ先の先祖代々の墓をきれいにしていたのだ。几帳面な母のことだから、きっとそうに違いないと思った。
祖母と二人で掃除しただけあって、あたりは随分きれいになった。祖父が立てた線香から立ち上っていく煙を見つめながら、祖母と並んで手を合わせる。手を合わせていた時間はわずかだったかも知れないが、優しい風が私の全身を包み込むようで、なんだかここにずっと留まっていたい気分だった。
「よし、そろそろ帰るとするか」
「そうですね。今日は、優里ちゃんも来てくれて、ご先祖様はきっと喜んでいますよ」
祖父に続いて祖母がそう話したのを聞いて、私は二人に向かって、「うん」と頷いてニッコリ微笑み返した。
祖父たちに続いて田んぼの中の道を歩き始めたとき、墓石の後ろに、ゴミや落ち葉を入れたビニール袋を置き忘れていたことに気づいた。
「おじいちゃん、おばあちゃん、先に行ってて。忘れ物をしちゃった」
そう言って、私は慌てて袋を取りに戻る。墓石の後ろにまわって袋を手に取ったとき、ふいに墓石に刻まれた文字に視線が向かった。
『平八郎 昭和四十七年八月二十五日没 享年八十五』『しず枝 昭和五十年二月五日没 享年八十七』……
先祖代々の墓と呼んでいるくらいだから、このお墓には私のご先祖様が揃って眠っているのだろう。私の祖父が八十歳で、祖母が七十八歳だから、ここに刻まれている『平八郎』と呼ぶ人は、祖父の祖父、つまり、私の曾祖父に当たる人だろうか。もちろん、私は会ったことはないけれど。
「えっ、どういうこと?」
そこに連なっている名前の最後の部分に視線を留めた私は、思わず声を出してしまった。
『優人 平成二十三年十二月二十八日没 享年六』
「えっ、優人?」
見覚えのある名前だった。
「それに、平成二十三年って……」
それほど前のことではない。平成って何年まであったんだったかな、今が令和八年だから、ざっと計算してみて十五年前。今、私は二十歳だから五歳の頃。
「えっ、五歳?」
享年で数えるときは、数え年で数えるのだと、確か祖母から昔、聞いたことがあった。享年が六歳なら、五歳で亡くなったことになる。私が五歳のときに、『優人』は五歳で亡くなった。
「これって、どういうことだろう……」
いつしか、私の頭の中は、混乱していた。
「優里ちゃん、どうしたの。おじいちゃんなら、先に帰っちゃったわよ」
お墓の入口の向こうから、祖母の声が聞こえた。私がお墓に忘れ物を取りに戻ったきり、なかなか戻って来ないものだから、心配してそこまで見にきてくれたのだろうか。
「うん、おばあちゃん、今、行くよ」
私は、慌ててそう返事すると、もう一度だけ、墓石に彫られた『優人』の文字に目を遣ってから、墓を後にしたのだった。
そのまま祖父の家に帰った私は、居間の炬燵に入っていた。祖父は、お墓から戻ってくるなり、その足で畑に向かったよう。祖母に、さっき見たことを確かめようと思ったが、祖母は近所の家に用事があると言って、出て行ってしまった。
そうして、また、留守番をすることになった私は、ぼんやりと部屋の中を眺めながら、混乱気味の頭の中を整理し始めようとしていた。
あの、墓石に刻まれた『優人』とは、一体誰のことだろう。『優人』なんて名前はそれほど珍しくはないけれど、両親の寝室の整理ダンスの中で見つけた、へその緒の箱に刻まれた名前とピタリと一致する。そもそも、他人のへその緒なんて、保管するものではないだろう。となると、『優人』は、母がお腹を痛めて産んだ子供に違いない。
墓石にその名前が刻まれていたことから、少なくとも母が生き別れた子供であるセンはなくなる。しかも、『優人』は私が五歳のときに、同じ五歳で亡くなっているのだ。私の異父兄弟のセンも、これでなくなるだろう。
ここまで考えたところで、私の脳裏に浮かびつつあるのは、『優人』が私と血の繋がった弟ではないかということ。しかも、同じ年に生まれた……。もしもそうだったとしたら、母が毎月のように墓参りに行っていた理由が見えてくる。二十八日の月命日に合わせて、母は手を合わせていたのだ。
ただ、どうしてもわからないことがある。仮に『優人』が私の双子の弟だったとして、私はどうしてそのことを覚えていないのだろう。『優人』が亡くなったとき、私は五歳だった。五歳なら、心身ともにある程度発達していただろうし、少しくらい弟と一緒に過ごした記憶が残っていてもよさそうなものだが……。
そのとき、ふと、いつきがいつか話していた言葉が蘇った。
「人間の心っていうのは私たちが思っている以上に複雑で、ずっと心の奥底にしまっていたものが、何かの拍子にふと、意識の中に現れたりするものなの」
『優人』が、どんな亡くなり方をしたのかはわからない。病気で亡くなったり、それとも不慮の事故に巻き込まれてしまったり……。実の弟が亡くなって、まだ五歳の私は、大変なショックを受けただろう。恋人を事故で亡くしたショックのあまり、それまでの記憶を一切失ってしまった女性の話を、本で読んだことがあった。私にも、同じような現象が起きたとは考えられないだろうか。五歳の頃と言えば、まだ丘の上の家に引っ越しする前のことだった。私が幼児期にこの祖父の家で過ごした記憶が一切ないことも、それで説明ができるのではないだろうか。
私が小学校に入ってすぐに、両親とともに丘の上に引っ越した。祖父母がすぐ近くに住んでいるのだから、一緒に住めばいいのにと、子供心ながらに思ったこともあった。それに対して母は、環境のいいところが見つかったからと話していたけど、もしかしたら悲しい記憶を呼び起こす場所を離れたかったのかも知れない。いや、母がと言うよりも、私がそうしないために……。だから、母は神経質なまでに、私にうるさく言っていたのだ。「危ないから、坂を下りておじいちゃんの家に行っては駄目よ」と。
もっとも、私は小学生の頃、母に無断でこの祖父宅に足しげく通っていた。そして、ここで、母が危惧したような事態になったことは一度もなかったのだが……。
祖母が出かける前に淹れてくれたお茶を、口に含んでみる。すっかり冷めてしまっていて、少し渋みが出ていた。
なおも、私は、考えを巡らせ続ける。
ただ、最近になって、私のまわりで不思議なことが起こるようになった。そう、鏡に映った男の子の姿を見るようになったこと。いつも私の前でニコニコ微笑んでいる、白のトレーナーにベージュのズボン姿の男の子。私には、その男の子には心当たりはなかった。だから、ホテルのパウダールームのところで初めて見かけたときは、隣の部屋に泊まっている子供が勝手に入ってきたのだと思ったのだったが。
私が、鏡に映った男の子を見たことをいつきに相談したとき、いつきはこんなことを言っていた。
「そうだったんだ……。優里に何があったのかはわからないけど、もしかしたらそのあたりのことに、何かヒントが隠されているかも知れないね」
そのあたりのこととは、私の両親が、急きょ、祖父たちが住む家を出て、丘の上に引っ越したことを指していた。それに関して、さっき私は、自分なりに推論を組み立ててみたのだったが、そのことと私が鏡を通して男の子の姿をみることと、どう関係があるというのだろうか。
「過去に起きた出来事やそのときに沸き起こった感情などが、鏡に映る自分の姿に投影して映るという現象」
いつきが、『投影』という心理学の用語を出しながら、心のメカニズムについて私に詳しく説明しようとしてくれていた。経済学部に在籍している私には、いつきが言わんとしていることが完全には理解できなかったが、簡単に言えば、過去に自分のまわりで起きたことやそのときに感じたことなどが心の奥深くに押し込められ、それから年数を経て、たまたまそのときと同じようなシチュエーションに出くわしたときに、目の前の光景に過去のシーンやそのときに抱いた感情などが重なって見えるということだろう。
つまり、私が鏡の中に、あの男の子の姿を見たのは、過去にも同じような出来事があったからではないだろうか。
例えば、公園の水道のシーンを考えてみると、祖父宅の近くにある児童公園なので、弟を連れてそこに遊びに行ったことが一度ならずともあっただろう。祖父の家にあったボールで遊んだかもしれないし、かくれんぼをしたかも知れない。そして、遊び終わった後、必ず手洗いをするように、母から言いつけられていたから、私は弟と一緒にあの手洗い場で手を洗っていた。そのときに、たまたま見た鏡に、先に手を洗って後ろで待っている弟を見ていたのかも知れない。
では、この祖父の家の奥の和室でのことは、どう説明ができるだろうか。私があの男の子を見たのは、化粧台の三面鏡を通してだった。あの部屋で私たち家族が暮らしていたのだとしたら、あの化粧台は母が使っていたものだろう。女の子の私にとって、母がいつも鼻歌を歌いながら化粧をしていたその化粧台に、興味を抱かないはずはなかった。きっと、母の真似をして、鏡の前に座って化粧をするふりをしたことがあっただろう。そのときに、弟が「お姉ちゃん、何してるの。遊ぼうよ」と声をかけてきたとしても、おかしくはない。
つまり、公園でのことも、奥の和室の化粧台でのことも、過去にそのようなシーンがあったのだ。弟が、鏡を通して、私に微笑みかけていた。そのときの様子が私の心の奥底に刻まれて、今になって私の意識の外に出てきたという訳。
それでは、あのホテルのパウダールームでのシーンはどうだろうか。あれも、同じように説明がつくような気がする。私は、『アメリカンパーク』に、ずっと前から行ってみたいと思っていた。子供の頃に、両親に連れて行ってもらって、楽しい経験をした記憶があったからではなくて、なんとなくいつかは行ってみたいと思っていた。だけど、本当は、まだ私が幼かった頃に、連れて行ってもらったことがあったのではないだろうか。家族四人での、楽しい旅行として……。
幼い頃のことだから、私は早く『シャドウ』と『ルナ』に会いたくて、早起きしたのかも知れない。私が起き上がったことに気がついて、横で寝息を立てていた弟も起き出した。私が、先に顔を洗って歯を磨いているのを、弟は私の後ろで、胸をワクワクさせながら眺めていたのかも知れない。
まさに、そのときのシーンが無意識のうちに心の中で蘇ってきて、あの朝、私の目の前に弟が現れたのだ。当時と変わらず、『シャドウ』と『ルナ』のトレーナーを着て、ニッコリ微笑みながら……。
冷静に考えてみれば、私が鏡に映る男の子、つまり弟の姿を見たのは、私の心の働きによるものだった。もちろん、鏡に映っていたのが弟だというのは、これまでの状況証拠を積み重ねて推測しただけのことだけど、どうして今になって、私の目の前に弟が現れたのだろうか。そもそも、私には、『優人』と呼ぶ弟が本当にいたのだろうか。
祖母が帰ってきてから訊けば、正直に答えてくれるかも知れない。だけど、もしも、それが事実だったとしたら、今さら弟のために私にはどんなことができるのだろう。供養なら、いくらでもやりたい。だけど、弟が望んでいることは、そうでもないような気がして……。
私の足は、自然に奥の和室へと向かっていた。前に来たときに、ふと思い立って扉を開けて入った部屋。弟に関するものが、残されているかも知れないと思った。
そうやって入ってみた和室は、私が前に見た様子とほとんど変わっていなかった。変わったことと言えば、手前に置いてあった石油ストーブがなくなっていること。それは、さっきまで私がいた居間に置いてあった。
私が気になったのは、洋服ダンス。こないだは中を開けて、私がかつて着ていた服を手に取ってみただけだったが、その隣に吊るされていた青色の服を調べてみたいと思った。幼少期の私が着ていたにしては不自然な色合いだったし、五歳くらいの子供が着るにしては、ちょうどよい大きさの服のように思えたから。
洋服ダンスの扉を開けて取り出したのは、青色のパーカー。フードがついていて、テレビアニメのキャラクターをかたどったワッペンが胸のあたりにつけられている。ファスナーを外して裏地を調べてみたが、タグに名前は書かれていなかった。サイズは、私が前に見た赤色のジャンバーとよく似た感じだったし、テレビアニメに憧れて、私が着ていたものとも受け取れる。
続いて取り出したのは、赤のトレーナー。無地だが、タグには、『ゆうり』と書かれていたので、どうやら私が着ていた服に間違いはなさそう。他の服も調べてみたが、どれもが女の子が好みそうな服ばかりで、私の弟が着ていたと思しき服は残されていなかった。
仮に私に弟がいたとしても、弟が亡くなってから悲しみに暮れた母が、着ていた服を全部処分してしまったとも考えられる。私は親になったことはないけれど、もしも私が誰かの親だったとしても、母と同じことをしているのではないだろうか。自分がお腹を痛めて産んだ子供なのだ。その子供があろうことか、自分よりも先に亡くなってしまった。病気にしても、事故にしても、そのときに受けた悲しみはいかばかりのものだろう。
子供を失った母親が、子供の後を追って自殺をするという話を聞いたことがあった。母親にとって、自分が産んだ子供は、ある意味で分身のような存在でもあり、自分の生き方そのものなのだ。悲しみの淵にいる母親にとって、その子供が生きた痕跡を見るのは、耐えがたいものがあるだろう。だから、子供が生きていた痕跡を、無心になってゴミ袋に詰めるのだ。そんな母親の気持ちが、わからないでもなかった。
結局、気になって洋服ダンスの中を調べてみたものの、弟に繋がるものは見つからなかった。途方に暮れながら、洋服ダンスの扉を閉める私。閉めるとき、吊るされた子供服の奥に、白い袋が押し込まれているのが見えた。「何だろう?」と呟きながら、奥に腕を入れて袋を取り出してみる。服がパンパンに詰められた、半透明のスーパーのレジ袋だった。持ち手の部分が団子結びにされている。無造作に服が押し込まれているところ見ると、母が処分しようとしていて、ゴミに出すのを忘れてしまっていたのだろうか。
指に力を入れて、結び目を破ってみる。案の定、中から出てきたのは、子供服だった。新幹線のワッペンがついた緑の上着に紺のハーフパンツ、戦隊もののキャラクターの絵がプリントされたシャツなど、ざっと見ても十着は詰められているだろうか。どれも、男の子が好んで着そうな服ばかりだったので、やはり母がまとめて棄てようとしていたのだろう。だけど、引っ越しの慌ただしさに追われてしまって、ついに処分できなかったのだ。
とりあえず中身を順番に取り出していると、見覚えのある服が出てきた。『アメリカンパーク』のキャラクターの『シャドウ』と『ルナ』が、仲良く手を繋いで笑いかけているイラストがプリントされた白のトレーナー。鏡の中の男の子が着ていた服だった。裏地を見てみると、そこにはパークの公式のタグがついている。それがついていると言うことは、パークの中で購入したということ。それを弟が着ていたのかは、そのタグからはわからなかったけど、私が幼かった頃に『アメリカンパーク』に連れて行ってもらったことはほぼ間違いない。
あとは、ベージュのズボンが見つかればビンゴなのだが……あった、袋の一番下に折りたたまれて入っていた。タグを探してみたが、どうやら切り取られてしまっているようで、弟がはいていたものなのかはわからなかったけど、何げなくポケットに手を入れてみたとき、指先が何かに触れた。紙のような感触、慌てて取り出してみた。
折りたたまれた紙のようで、折り目に沿って開いていくと、そこにはまだひらがなを正しく習っていない幼児がかいたと思しき、大きな文字が綴られていた。
『おねちやんだいすき おおきくなたらいこうね』
『な』の文字は逆さ文字になっていて、文字の下には、クリスマスツリーの下で手を振る、『シャドウ』と『ルナ』を描いたと思しき、ネコの絵が添えられていた。
「おおきくなたらいこうね」とは、「おねちやん」である私と一緒に、『アメリカンパーク』に行こうと誘っているのだろう。その手紙を書いたのが、『優人』であることを知ったのは、手紙の裏に、『ゆうとより』と小さな文字で書かれているのを見つけたから。手紙を書いて折りたたんでから、名前を書いていなかったことに気づいて、後から書き加えたのだろう。
やはり、弟は『アメリカンパーク』に行っていた。父と母と私の家族四人で、パークのホテルに泊まって、夢の国で楽しい時間を過ごしたに違いない。
「大きくなったら」とは、大人になったらという意味だろうか。同じときにこの世に生を受けた私たち、弟は、血の繋がったたった一人の姉との絆を確認して、未来へとはばたいていこうとしていたのだ。
私は今年、二十歳を迎えた。この先に、不安がないと言えば嘘になる。むしろ、明日も見通せないほどの不安でいっぱいだ。だからこそ、弟は私の心の中に出てきてくれたのではないだろうか。
「お姉ちゃん、大丈夫。僕がついているよ」
と、私に伝えるために……。
墓石に刻まれた弟の命日は、十二月二十八日だった。夢の国で、家族四人で温かい時間を過ごした数日後に起きた悲劇。何が起きたのかは、あえて聞かないでおこうと思う。私の心が、深く沈んでしまうかも知れないから。
それよりも、弟の願いを叶えてあげたいと思った。いや、それはもしかしたら、私自身の願いであるのかも知れない。
クリスマスイブの夜、『アメリカンパーク』のツリーの前で唱えた願い事は、『シャドウ』と『ルナ』が魔法によって、叶えてくれるのだという。もしも、ツリーの前に立てたならば、私はどんなことをお願いしようか。
いつしか、私がいる和室に、西日が差し込み始めていた。祖母は、近所に行ったきり、まだ帰ってきていないようだった。
私は、持っていた手紙をズボンのポケットに戻すと、出していた服を元通りに袋に入れて、洋服ダンスにしまった。
部屋を出ようとしたとき、ふと後ろから視線を感じた。私は、その正体がわかっていたので、頬の強張りを緩めてとびきりの笑顔を作ると、後ろを振り向きながらこう言った。
「ゆうちゃん、ゆうちゃんの分までお姉ちゃん、頑張って生きるから、いつでも鏡の中から見ていてね」
西日が化粧台の鏡にきらりと反射して、「うん」と、『優人』が返事をしたように感じた。




