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鏡の中のゆうちゃん  作者: 松山 さくら


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第二章 美優

「あの服、優里に似合いそうだよ。ちょっと試着してみたら。これからの時期にピッタリだし、今の若いうちしか着られないよ」

 いつきがそう言って指さしたのは、いかにも派手そうな赤のニット。いつきの買い物の付き添いで来てみただけだったけど、いつきは早々と狙っていた服をゲットして、次は私の番とばかりに、手当たり次第に明るい感じの服を薦めてくる。もちろん、赤やオレンジなど、明るい色合いの服に興味がない訳ではなかった。いつきが言うように、今しか着られないのだから、少しくらい冒険してみたいとは思う。だけど、まわりからの注目を集めている自分の姿を想像みると、どうしても尻込みしてしまう。自分で言うのもなんだけど、私には、地味な色合いの服が似合うというか、それが一番落ち着く。

「うん……ちょっと私には派手すぎるかな……」

 せっかく選んであげたのにといわんばかりに、いつきは頬をぷくっと膨らませると、

「もう……優里はいつもそうなんだから……」

 と、苦笑いをしてみせた。

「別に買わなくても、着てみるだけでいいじゃん。それで、気に入ったら買ったらいいんだしさ」

「それはそうだけど……でもやっぱり今日は、やめておくよ」

 そう答えて、私は売り場を足早に離れようとする。

 実を言うと、いつきが薦めてきた服が嫌なのではなかった。そこまで言うのなら、試してみてもいいかなって、心のどこかでは思っていた。だけど、試着室に入るのが、なんとなく躊躇われた。そう、鏡に自分の姿を映すのが……。

 公園での一件の後、私は鏡を見るのを意識して避けるようになった。正確に言えば、鏡の後ろに誰かが映っているのを見るのを、である。

 今の私の心の中は、またあの男の子を見てしまうことを恐れる気持ちと、またあの男の子に会ってみたいと思う気持ちが半分ずつ。

 ひと言で、鏡を意識的に避けるとは言えっても、この世の中に、自分の姿を映すものがいかに多いかを思い知らされている。意図的に自分の姿を映ための洗面台や化粧台の鏡だけでなく、道路のカーブに設置されたミラーや車のバックミラー、挙句の果てには漆黒の闇の中を走り抜ける電車のガラスなど……見るつもりがなくても、どこかで必ず自分の姿を映し出しているもの。それも意識すればするほど、鏡の存在が気になってくるのだから、もはやどうしようもなかった。

 そんなことを一人で抱えていると、気が塞ぎそうになってくる。少しずつ外に出るのが億劫になってしまって、やがて家の中、いや、鏡という鏡をすべて取り払った自分の部屋に籠ることになってしまうのだろうか。そんなのは嫌だった。いつものように、明るく振る舞っていたかった。

 いつきに話したら笑われてしまうかも知れなかったけど、今の私にとっては、誰かに話を聞いてもらわないことには、自分を保てないような気がした。「そんなの、考え過ぎだよ」とか、「ちょっと疲れて、意識過敏になっているんじゃないの」なんて言って、安心させて欲しかった。だから、思い切っていつきに話してみることにした。大学で心理学を学んでいるといういつきなら、何か思い至ることがあるかも知れない。

 私は、少し休憩しないかと言って、いつきを近くにあったカフェに誘った。そこで、これまでにあったことを話してみる。最初は、またあの話かと言いたげに、涼しそうな顔を見せながら私の話に耳を傾けていたいつきだったが、私が公園で鏡に映ったあの男の子の姿を見たと話したあたりから、いつきの顔が険しくなっていった。

「ごめん、私、まだ心理学の基本的なことしか勉強していないから、心のメカニズムはわからないけど……」

 そう前置きをしてから、いつきがぽろりと漏らしたのは、自分の心の一部が、外の存在として見えているかも知れないということ。過去に起きた出来事やそのときに沸き起こった感情などが、鏡に映る自分の姿に投影して映るという現象で、鏡に映った自分の姿が歪んで見えたり、別人に見えたりすることがあるという。

「そっ、そうなんだ……」

 わかったような、わからなかったような、曖昧な返事をする私。

「そんな現象があるって、講義で聴いたことはあったけど……」

「でも、私の場合は、自分の姿が歪んで見えたのではなくて、子供が私の後ろにいて、その子がニッコリ笑っているのを見たんだけど……」

 と、思わず反論してみたものの、どうやらいつきはそれ以上よくわからないようで、口元をゆがめて、途方に暮れたような顔をしてみせた。

「ごめんね、私だって、まだ勉強中だから……。でもね、ゼミの先生がよく言っているのは、人間の心っていうのは私たちが思っている以上に複雑で、ずっと心の奥底にしまっていたものが、何かの拍子にふと、意識の中に現れたりするものなの。幻覚や幻聴ってよく言うけど、それらは心の動きで説明ができるみたい」

「幻覚かぁ……」

 私は、声のトーンを落としてしまった。その様子が、落胆しているように見えたのか、いつきはテーブル越しに、身を乗り出すように訊いてくる。

「優里が見たというその男の子に、心当たりはない? 四歳か、五歳くらいの男の子だったんだよね。公園で見かけたのなら、近所に住んでいて、よく一緒に遊んでいた子供だったとか……あっ、でも、家から遠く離れた『アメリカンパーク』のホテルでも見たんだよね。それだったら、近所に住んでいた子供ってのは、ちょっと違うかなぁ」

「うん……実は私ね、小学校に上がる前に、今、住んでいる場所に引っ越ししたんだ。それまでは、おじいちゃんの家に住んでいたんだけど、両親いわく、丘の上にいい家を見つけたとかで、途中で引っ越ししたの。おじいちゃんの家にいた頃の記憶がまったく残っていないから、そのあたりのいきさつはよくわからないんだけど……」

「そうだったんだ……。優里に何があったのかはわからないけど、もしかしたらそのあたりのことに、何かヒントが隠されているかも知れないね」

「何かって?」

「ごめん、それは優里の家のことだから、私にはわからないよ。でも、優里が何も聞かされていないってことは、何もなかったのかも知れないしさ」

「そっ、そうだよね……」

 そこまで話したところで、いつきはテーブルに運ばれてきてから、すっかり飲み忘れてしまっていたカフェラテを、一口啜った。つられて、私もひと口啜る。

 それ以上続けたところで、もはやこの話に進展はなさそうだった。私は、あえて話題を変えてみることにした。『アメリカンパーク』で体験した新アトラクションの話など、話好きないつきはそれにすぐに乗ってきて、二人だけの会話はそれからも長々と続いた。


 木枯らし何号かが吹き荒れて、駅からの帰り道の街路樹はすっかり葉を落として、冬支度を始めていた。家に帰って何げなくつけていたテレビからは、クリスマスケーキのCMが流れ始めていて、否が応でも煌びやかな季節の到来を感じさせられる。

 珍しく、母の帰りが遅かった。それでも几帳面な母のことだから、夕飯の支度は大方できていて、鍋のシチューを温めたり、お皿に無造作に盛られた唐揚げをレンジでチンしたりするだけでよかった。冷蔵庫の中から、ボウルに入ったポテトサラダを取り出して、三人分のお皿に取り分ける。そこに、温めたばかりの唐揚げを盛り付ければ、夕飯の完成だった。

 母の行き先なら、おおよそは見当がついた。坂を下りたところの、祖父母宅に行っているのだ。ダイニングの掛け時計に目を遣れば、針はまもなく午後六時半をまわるところ。恐らく母は、もう少ししたら帰ってくるだろう。

 案の定、玄関の扉が開いたかと思ったら、両手にスーパーの袋を携えて、キッチンに入ってきた。

「お母さん、おかえり。また、おじいちゃんの家に行ってたの?」

「そうなの。それよりもこれ見て」

 そう言って、母が袋から取り出したのは、私の顔ほどもありそうな、大きなサツマイモ。芋もりをするには少し時期が遅いが、祖父は畑で獲れた野菜を蔵の中で保存していて、母が訪れるたびに、それらを分けてくれているのだ。

「すごい。おじいちゃんから貰ったの?」

「そうなのよ。他にもかぼちゃや、小松菜でしょ。それにこんなに長いネギも」

 母は、抱えきれないほどの野菜を貰って、嬉しそう。そう、我が家で食べる野菜の大半は、こうやって母が祖父から貰ってくるものだった。

 半分、呆れながら、私は、

「ご飯、温めておいたよ」

 と、母の分のシチューをお皿によそう。

「あら、準備してくれていたの。助かるわ」

 そう言って、母は、貰ってきたばかりの野菜を野菜室に片づけた。

 母と向かい合って、夕食を食べ始める。父は、ここのところ、仕事で帰りが遅い日が続いていて、こうやって母と二人で食事をすることにすっかり慣れてしまった。

「このシチュー、クリーミーな感じがして美味しいよ」

「でしょ。インターネットで話題の主婦の人が考えたシチューよ。低カロリーで、お腹が出だしたお父さんにはピッタリでしょ。お母さん、その人のレシピを毎日、見るようにしているの」

ずっと専業主婦だった母が作った料理は、どれも美味しかった。最近は、自分のレパートリーだけでは飽き足らず、スマホでレシピを調べて作るほどの力の入りようで、そんな母が家族のことを思って作る毎日の夕飯が、楽しみでもあった。

 母と食事をしながら、私は大学の話をした。講義の内容がなかなか難しくて、ついて行くのが大変であることや、まわりの学生たちが、就職に向けて資格の勉強を始めていて、不安を感じていることなどを矢継ぎ早に打ち明けた。そんな私の話を、母は、「ふんふん」と頷きながら聞いてくれた。そうやって、母に不安をぶつけることで、心の中にあったもやもやが少し晴れたような気がした。

 振り返ってみれば、神経質な母だったが、不思議にも私の勉強のことに関しては、口出しをしなかった。だからこそ、私は、思っていることを全部吐き出すことができた訳がったが、それには母自身が地元の高校を卒業してから、働きに出なければならなかったことが関係しているのかも知れなかった。

 いつだったか、父からちらっと聞いたことだったが、四国の山村の家に生まれ育った母は、父親を早くに亡くして、幼い頃から色々な面で苦労を重ねてきたらしい。母は、決して自分の口からそれらの苦労話を語ろうとはしなかったが、口を真一文字に結んだ表情の奥には、怒りや悲しみ、寂しさと言った感情が蠢いていたに違いない。自らが辛い思いをしてきた分、娘である私には幸せに生きて欲しいと思って、勉強以外の面で神経質なまでに口うるさく言っていた母の気持ちが、最近になって少しずつわかり始めていたのだが……。

 母が食べ終わるタイミングを見計らっていたかのように、私はずっと気になっていたことを口に出した。

「ねぇ、お母さん。ところでさ、一か月に一度、おじいちゃんの家に行っているみたいだけど、何か用事でもあるの?」

 母は、飲みかけていたお茶でむせるような素振りをして見せる。そんなにも変なことを訊いたつもりはないけれど、母の慌て様が私には不思議に思えた。

「ゆっ、優里、とっ、突然、どうしたのよ……」

「別に深い意味はないんだよ。お母さんが、毎月のようにおじいちゃんの家に行っているけど、行って何をしているのかなと思ったんだ。だって、お母さんの実家は四国にあるでしょ。お母さんがお父さんの実家を頻繁に訪れる理由って何だろうって、考えてみただけ」

 問い詰めるつもりはまったくなかったけど、母は視線を宙に彷徨わせて、どこか落ち着かない様子を見せていた。

「お墓参りよ。お墓参り」

「お墓って、おじいちゃんの家の近くの?」

 ふと、祖父の家のすぐ近くにある墓地を思い浮かべてみる。集落の端のクスノキの根元にある、古びた墓石がいくつか無造作に並んでいるだけの小さなお墓。祖父の祖父は曾祖父って呼ぶのだったかな、それじゃ祖父の父は曽祖父、なんだかややこしい。とにかく、曾祖父と曾祖母、それに曽祖父と曽祖母がそこで眠っていると聞かされていたが、私が生まれる前に全員が亡くなっていたので、私は顔を見たこともなかった。だから、お盆に手を合わせる以外は、ほとんど近づこうともしてこなかった場所。

 母は、口元をもごもごと動かしていたかと思うと、言い繕うように続けた。

「前はおじいちゃんの家に住んでいたでしょ。その頃に、お母さん、毎日のように、お墓に手を合わせていたのよ。だから、そのときの名残で、今も続けているだけ」

「手を合わせるって?」

「だから、私たちを守ってくださいって、ちゃんとご先祖様にお願いしないといけないでしょ。だから、今も行っているってこと」

「そっ、そうなんだ……」

 そう返事しながらも、どうも母のさっきからそわそわした態度が、気になって仕方がない。そもそも、母はそんなにも信心深い方だっただろうか。家族旅行で神社仏閣の前を通ったときも、まるで興味がないと言った感じで通り過ぎていた。それに、特定の何かを信仰しているとも、聞いたことがなかった。そもそも、母が言ったように、ご先祖様を供養し、家庭の平穏などを願うのならば、自分だけじゃなくて、娘の私にもお墓の前で手を合わせるように言うのではないだろうか。

「あら、もうこんな時間。そろそろ片づけて、お風呂を沸かさないと」

 わざと掛け時計に目を遣った母は、そう言って席を立つ。流し台に向かって、忙しそうに振る舞う母の背中が、このときの私には、なんだか寂しく映っていた。


 それから数日経ったある日、午後からの講義が急きょ休みになった。担当している教授に用事ができてしまい、後日に補講を行うか、レポートの課題を出すという。補講なら講義に出るだけで済むけど、レポートを出されてしまったら面倒だなと思いつつ、私は大学を出た。

 半日分の自由時間ができて、嬉しいような悲しいような複雑な気分。久しぶりに一人で繁華街に出て買い物を楽しもうかと思ったけど、どこで鏡を見てしまうかわからない。かと言って、このまま家に帰るのもなんだか勿体なくて、私は、祖父の家に寄ってみることにした。そう思ったのは、こないだ祖父の家を訪れたときに、年末の大掃除に備えて祖母が家の中の抽斗を動かしたいと、ポロリと漏らしていたから。いくら現役で農作業をしているとは言え、足腰がだいぶ弱っている祖父に、そんな力仕事をさせたら大変。それなら、代わりに私がやってあげようと思ったのだった。

 駅から道を逸れて、祖父宅へと向かうのどかな田んぼ道を、自転車を漕ぎながら進む。刈り取りが終わった田んぼの真ん中に、こんもりとした塚が現れた。たわわに実っているオレンジの実は、柿だろうか。それを狙って飛び交う鳥たちは、どことなく忙しそう。ところどころ筋雲がたなびく空のもと、ひんやりとした乾いた空気が顔に当たって気持ちがよかった。

 そうしてたどり着いた祖父の家。平日の真昼に私が訪れてきたのを、玄関先を掃除していた祖母は目を丸くして驚いていたが、事情を話すと、「あらあら、それは助かるわ」と言って、祖母は喜んでくれた。

 祖父は畑に出かけたみたいで、広い家の中はひっそりと静まり返っていた。祖母が話していた抽斗は、私一人の力でも十分に動かすことができた。ついでに他の仕事も手伝ってあげようと思って、台所の冷蔵庫の位置を変えたり、小高く積まれた押し入れの中の荷物を取り出したりした。

 何か、よいことをしたときのように、なんだか心地よかった。祖母は、私に居間の炬燵に入っているように言うと、台所からケーキを出してきてくれた。貰いもののようだったが、地元で人気のある洋菓子店のショートケーキは甘過ぎず、だけど大きなイチゴがのっていて、美味しかった。今日、ここに寄ってみてよかったと思った。

 祖母は、ついでに私に少しの間、留守番をしていて欲しいと言った。近所の家に、獲れたばかりの春菊を、おすそ分けしてあげるのだと言う。どうせ、時間ならたっぷりあったし、たまには昼間のテレビでも見ながら、のんびりするのも悪くはない。そう思った私は、この広い家の留守番を、快く引き受けることにした。

 さっそく机の上に置いていたリモコンに手を伸ばす。電源ボタンを押して映し出されたのは、ひと昔前と言うか、母が若かった頃に流行ったと聞いたことのあった恋愛ドラマ。今は、トーク番組によく出ている主人公の俳優の、デビューしたての頃の姿をひと目見て、母親世代の女性たちが、黄色い声を上げていた理由がわかるような気がした。

 ドラマは、その主人公の男性と、思いを寄せる女性とが、再会する場面に入っていた。ストーリーはわからないけど、きっとこの後口づけを交わすのだろうなと、想像してみる。いつしか、私の心臓が高鳴っていた。ごくっと、唾を飲み込む。男性が女性のもとに近づき、そっと顔を近づけた瞬間に映像が途切れた。『つづく』のテロップとともに。

「いいところだったのに……」

 思わず、膨れっ面をしてみる。ドラマって、いつもそうなのだ。肝心なところで終わってしまう。まぁ、このドラマを続けて見ていた訳ではなかったから別にいいんだけど、なんとなく消化不良を起こしたような気分だった。

 テレビ番組はいつの間にか、通販番組に変わっていた。爽やかな感じの男性が、「今日はなんと、あの有名掃除機メーカーの最新モデルをご紹介します」と、全身を使って大袈裟に振る舞っている。少しも興味が湧かなかったが、きっときれい好きの母なら、手を止めて画面に釘付けになっているんだろうなって、苦笑してみた。

 リモコンに手を伸ばして、チャンネルを変えてみたが、他に面白そうな番組は放送されていなかった。そもそも、平日の昼間に、私のような若い世代が好んで観るような番組が、放送されているはずはないのだ。もしもそうだったとしたら、テレビ局の人たちの感性を疑ってしまう。

 仕方なく、テレビの電源を消した私は、目の遣りどころに困ってしまって、居間の中を見わたしてみた。シミだらけの壁や天井、なんとも形容しがたい埃っぽい匂い。静かだった。聞こえる音と言えば、振り子時計のおもりがカチカチと触れる音くらい。北に面した居間の窓から降り注ぐ太陽の光は、それほど明るくもなく、昼間でも蛍光灯をつけていないといけないほどだった。

 なんとなく、その場に留まっていられなくて、炬燵布団の中から抜け出した私は、家の中を見てまわることにした。

 祖母がいつも作業をしている台所や、日焼けした応接セットが置かれた応接間など、改めて眺めていると、どこかで見たことのある光景ばかりだった。それはある意味で、当たり前のことだろう。だって、小学生の頃、毎日のようにここを訪れていたのだから。だけど、その頃とはどこか違う光景が、私の記憶の片隅に残っている。誰かを追いかけまわしたときの家の振動や、誰かに触れたときに感じた肌の温もり、誰かが私に話しかける、あどけなさが残る声……途端に、懐かしく思った。誰かと繋がっているような、そんな温かい気持ちだった。

 

 ふと、建付けが悪くなった木製の扉を横にスライドして入ってみたのは、平屋建ての奥にある、十畳ほどの和室。こんなところにこんな部屋があったかなと思ったのは、普段は閉め切っていたからだろう。なぜなら、そこには物がぎっしりと置かれていて、物置同然になっていたから。

 扇風機に石油ストーブ、CDラジカセや掃除用のバケツなど、持ち運びできそうなものが手前に雑然と置いてあって、奥には居間に置いてあったものよりはまだ新しそうな洋服ダンスや空になった本棚、サイドボードに乗せられた薄型テレビや化粧台などが据え付けられている。まるで、この部屋で誰かが住んでいたかのようなそれらの調度品に、私ははっと肩を上げた。

「そうだ、私たち、この部屋で暮らしていたんだ」

 左手の掌を、グーに握った右手でポンと叩く仕草をしてみせた私。いわゆる、何かを閃いたときのポーズ。私が幼い頃に、この家で両親とともに住んでいたって聞かされていたけど、この部屋で暮らしていたんだと合点がいった。試しに洋服ダンスを開けてみると、私が子供の頃に着ていたらしい、女の子用の上着やスカートなどが吊るされていた。その中から一着を、ハンガーごと取り出してみる。まだよちよち歩きをし始めた頃の幼児が着るような、綿入りの赤色のジャンバーだった。襟につけられたタグには、マジックで『ゆうり』と名前が書かれている。私が着ていたものに、間違いなかった。

 自分が、こんなにも小さな服に身を包んでいたのかと思うと、なんだか不思議な気分だった。そういう意味では、この洋服ダンスは、私にとってタイムカプセルのようなもの。他にもどんな服が入っているのだろうかと気になったが、あまり長い間ここに留まっていると、祖母が帰ってきてしまうかも知れなかった。私が着ていた服を見ているだけだから、別に悪いことをしている訳ではなかったが、祖母に断らずにこの部屋に入ってしまった手前、祖母に見つかってしまったら、なんて言い訳をしたらいいのだろう。

 そんなことを考えていたら、途端に後ろめたい気持ちになった。続きは、ちゃんと祖母に断ってからにしよう。そう思った私は、出したジャンバーをハンガーに吊るして、元あった場所にかけた。かけるときに、ハンガーの先が隣の青色の上着に引っかかってしまったが、私が開けてしまった痕跡を残さないよう、細心の注意を払って、タンスの中を元の状態に戻す。

「はぁ、やれやれ」

 力仕事をした訳でもないのに、額に汗がにじんでいるのは、私自身、やましいことをしていると自覚しているからだろうか。

 着ているニットの袖で汗を拭ったとき、ふと誰かの視線を感じた。誰かにじっと見つめられているような感じ。気づかない間に、祖母が帰ってきたのだろうかと思って、とっさに後ろを振り返ってみる。誰もいなかった。

「おかしいなぁ。気のせいかな……」

 そう呟いて、部屋を立ち去ろうとしたとき、何かが光った。照明の明かりのようなものではなくて、何かが反射したような光だった。光を感じた方向を振り向いた先にあったのは、化粧台。なぜか、観音開きの扉が開けっ放しになっていて、光の加減で部屋の外の明かりが鏡に反射したのだと思った。

 瞬間的に、その光の発生源が、私が避けていた鏡であることを思い浮かべて、ぞっとした。見てはいけないと思い、私はそこを立ち去ろうとしたが、そんな私の意思に反して足は化粧台へと向かう。

 恐る恐る覗いた鏡、そこには私の姿が写っている。白のニットに、紺のパンツ姿の私。後ろに映っているのは、この部屋に置いてある物。

「はぁっ」っと、胸を撫で下ろす。なぜならその鏡は、私の後ろにある物を、そっくりそのままの状態で映し出していたから。

「やっぱり考え過ぎよね。ここは、祖父の家なんだもん。子供が映るはずないもの」

 そう心の中で呟いて、観音開きの扉を閉めようとしたとき、またもや誰かの視線を感じた。

「えっ、誰? 誰なの?」

 今度は、声を出していた。恐怖を打ち消すための声。

 ゆっくりと視線を向けた化粧台の左側の鏡に、男の子が映っていた。そこに映っているということは、私の右側にその子が今まさに立っているのだ。しかも、至近距離で。

「あっ……」

 心拍数が急速に低下したからだろうか、私の脳に、ドクッドクッと、心臓が必死に血液を送る音が響いている。私は、鏡に映る男の子に視線を留めたまま、動けなくなっていた。

 あの男の子だった。ホテルや公園で見たときと同じように、白のトレーナーにページュのズボンをはいている。トレーナーに入っているキャラクターのイラストも、以前に見たものとまったく同じだった。

 そのときの私の顔と言ったら、まるで幽霊を見たときのように生気を失った顔だっただろうが、男の子はというと、そんな私に対してニッコリと微笑んでいる。まるで、私に何かを語りかけようとしているかのよう。そして、一歩私に近づいたかと思うと、口元をパクパクと動かした。

「おねえちゃん、あそぼうよ」と、言ったような気がする。気がすると思ったのは、男の子の口がそのように発音しているように見えたから。

「えっ、お姉ちゃん? 遊ぼう?」

 声に出たかどうかはわからなかったが、固まった唇を必死に動かしてそう反応したとき、すうっと身体の緊張が抜けた。まるで、私の身体を縛っていたものが、足元から解けていくかのように。同時に、鏡の中から男の子が消えていった。

「えっ、どういうこと?」

 自由を取り戻した私の身体は、瞬時に後ろを振り返る。いない、誰もいないのだ。念のために、部屋の中を探してみた。子供がかくれんぼをして遊ぶにはもってこいの部屋だったが、どこをどう探しても男の子の姿は見当たらなかった。

 ポカンと口を開けて、呆気に取られる私。恐怖を感じるよりも、ただただ不思議だった。

「優里ちゃん、どこにいるの?」

 部屋の向こう側から、祖母の声が聞こえた。

「あっ、おばあちゃん……」

その声でようやく現実に引き戻された私。近所から帰ってきて、私が居間にいなかったから、探しているのだろう。

私は急いで部屋を出ると、引き戸を閉めた。それから急いで、長い廊下を居間の方に歩いていく。

「あら、優里ちゃん、どこに行ってたの?」

 訝しそうに訊く祖母に、私は、

「ちょっと、庭を見ていたんだ。小学生の頃、よくおじいちゃんに遊んでもらったから」

 と答えて、庭の方を指し示す。太陽の光を反射して、地面の土が眩し過ぎるほどに光っていた。

「あら、そうだったの。優里ちゃんがここで遊ばなくなってから、寂しくなったわ」

祖母がそう言って視線を向けた庭の奥には、私が幼い頃に乗っていたと思しき三輪車が二台、錆びだらけになった状態で残されていた。


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