第一章 優里
「優里、おかえりなさい。心配したのよ。無事に帰って来られてよかったわ」
家に帰り着くなり、私の帰りを首を長くして待ち侘びていたかのように、玄関先まで出迎える母の美優。
「お母さん、ただいま」
私は、それだけを答えて、大きな荷物を抱えてリビングへと向かう。三日間、寝ているとき以外はほとんど立ちっぱなしだったので、一刻も早くソファーに座りたかった。
「『アメリカンパーク』はどうだった? ホテルの部屋は?」
母は、疲れた表情を浮かべる私をよそに、まるで私が世界一周旅行にでも行ってきたような口ぶりで続ける。
「ちょっと待ってよ。まずは座らせてよ」
心配性の母は、私がいつきとどこかに出かける度に、どうやって目的地まで行ったのかや、どんなところに泊まって何を食べたのかをこと細かに訊いてくる。一人娘の私のことを心配する気持ちはわかるけれど、もう私も二十歳なんだし、あまり深く干渉されるとしんどくなってしまうので、少しは放っておいて欲しい。それでいて、私が現地で楽しく過ごしてきたことを聞くと、自分も行ってみたいと言うものだから、私はいつも苦笑いをしてみせる。そんなに行きたいのなら、父と行けばいいのにと思うけど、その父はまるで絵に描いたような仕事人間なので、母が私のことを羨ましがる気持ちが、わからないではないけれど……。
このときも、ソファーにうなだれるように座り込んだ私は、母に急き立てられるかのように、『アメリカンパーク』の中を隈なくまわってきたことを話した。最近オープンしたばかりの新エリアに入場したことや、SNSや動画投稿サイトで話題のランチを食べてきたことも。ただ、いつもと違って、泊まったホテルのことは、話さなかった。
「念願の『アメリカンパーク』に行ってきたって言うのに、優里、どうしたのよ。そんな浮かない顔をして……どこか身体の具合でも悪いの?」
「えっ、そんなことはないよ。歩き疲れただけだよ」
とっさにかぶりを振る私。歩き疲れたのは本当のことだったが、実を言うと、最終日の今日はあまり楽しめなかった。それは、朝、ホテルの部屋の中で、あの不思議な体験をしたから。気を失っていた私に声をかけてきてくれたいつきに、部屋に男の子がいたことを話してみると、いつきは「朝から、何寝ぼけたことを言っているのよ」と一蹴しただけで、特に気にも留めなかった。第一、最新式のホテルの客室は、今やオートロックが当たり前になっていて、他の部屋に泊まっている子供が、勝手に他人の部屋の中に入ってくるなんてことはあり得ないのだ。どうせ疲れていて、夢と現実の区別がつかなかったのだろうということだろうか。
いつきに言わせれば、『単なる私の気のせい』なんだろうけど、だけど、私は確かに見たんだけどな……。まだ小学校に入る前の四、五歳くらいの男の子を。彼が着ていたトレーナーには、いかにもこの場所にふさわしい『アメリカンパーク』のキャラクターの猫のイラストがプリントされていた。男の子役の『シャドウ』と、その姉だが妹という設定の『ルナ』が仲良く手を繋いでいるイラスト。ややタッチが古そうだったけど、ちょうど開園三十周年のイベントをやっているところだから、昔懐かしいイラストが入ったグッズが限定販売されていてもおかしくはなかった。
「あの子は誰だったのだろう……」
気のせいだと自分に言い聞かせようとしたが、人間の心って不思議なもので、「気にするな」と言われれば逆に気にしてしまうもの。昨日までとは完全に立場が逆転してしまい、いつきに手を引かれるような形でパーク内を巡っていた私の視線は、行き交う子供や行列を作っている家族連れに向いていた。ホテルで会ったということは、あの男の子もパーク内にいるはず。もしも見つけたら、今朝のことは咎めずにニッコリ微笑みかけてあげようと思っていた。
そんな姿勢で、今日一日を過ごしていたものだから、私は最終日のパークを楽しむことができなかった。いつきは、『シャドウ』と『ルナ』に出会えて、「キャー」っと黄色い声を上げていたけれど、私はそんな気分ではなかった。
そのことを母に話してみようかと一瞬思ったが、もしもそんなことをすれば心配性の母のことだから、例えば私がよからぬものを見たとか言って、騒ぎ出すかも知れなかった。だから、自分の心の内だけで留めていくことに決めたのだった。
幸い、母は、それ以上私のことを詮索してくることはなかった。それよりも、今の母にとっての気がかりは、二か月ほど後に控えた『成人の集い』に、私が参加すること。母が昔着ていた薄い緑の振袖を借りることになっていたので、その着付けをどうするかや、写真をどこで撮ってもらうかで、頭の中がいっぱいのようだった。
「ところで、優里の『成人の集い』の日のことなんだけど、優里にとって大事な日だから、優里の振り袖姿を、駅前の写真館で撮ってもらおうと思うんだけど、優里はどう思う?」
「うん……それでいいんじゃない」
まるで感情の籠っていない声で返事する私。どうって訊かれても、当日のことなんてわからない。もしかしたら、中学校のときの地元の友達と再会して、その足でどこかに遊びに行くかも知れないし……。
少し前に成人年齢が十八歳に引き下げられたと、最近のニュースか何かで聞いた。そうなんだ、昔は二十歳からでしか選挙に行って投票でききなかったんだ……って思ったことはあったけど、それが私にとってそれほど重要なことだとは思っていなかった。そもそも大人になるってどういうことなんだろう。ある年齢に達したら自動的に大人になるのかな。大人になったら、責任や義務を果たさなければならない。それはわかっている。だけど、この先、どうなっていくのかもわからない私に、果たしてそれらのことができるのだろうかと、不安な気持ちでいっぱいだった。
「食事はどうしよう。おじいちゃんやおばあちゃんにも、優里の晴れ姿を見てもらわないとね」
母は、私のそんな気持ちに無頓着に、あれやこれやと思いを巡らせている。私は、
「はぁ……」
っと、疲れからとも戸惑いからとも取られるような、大きなため息をついたのだった。
同じような形の家々が建ち並ぶ丘の上の住宅街、広い道路は街路樹が等間隔に植えられ、歩道に沿った花壇には、こぎれいに花々が植えられている。ここは私が育った場所、私がまだ小さかったときに、それまでに父方の祖父母と一緒に住んでいた古い家に代わって、父がローンを組んで、この丘の上のニュータウンに家を買った。
母は、この静かで広々とした場所が気に入っているようだったが、私は子供の頃からなぜか落ち着かなかった。街は整然と整備されていて、どこまで行っても同じような風景が続いている。『隣は何する人ぞ』と言うけれど、途中から引っ越してきた私には、声をかけてくれるような親しい人もいなかった。街はきれいで快適なんだけど、どこか落ち着かない。この街に立っていると、まるで私が他の誰かと取り換えのきくような存在に思えてきて、私がわたしでないような不思議な感覚に陥ってしまった。
だから、小学校中学年になって自由に動きまわれるようになった頃から、私は、母に内緒で、自転車で坂道を下った。母からは、危ないから坂道を下っては行けないとうるさく言われていたけれど、実際に下ってみると緩やかな坂道が続いていて、自転車にまだがって風を切りながら坂道を下るのは気持ちがよかった。
坂道を下りきったところにあるのが、私が幼い頃に住んでいたと言う古い街。都市近郊でよく見られるように、住宅街を取り囲むように田畑が広がっている。住宅地の狭い道路を進めば、広い敷地の家々が、競うように土塀や生垣を張り巡らせている。お寺からはときおり鐘をつく音が聞こえ、家々の開いた格子窓からは線香の香りが漂ってくるような、そんな古い街並みだった。
その住宅街の一角に、私がかつて住んでいたという祖父母の家があった。「かつて住んだことがあるという」とあえて表現したのは、私にはそこに住んでいた記憶がなかったから。いや、なかったからというよりも、残っていなかったと言った方がよいだろうか。記憶の詳しいメカニズムはわからないけれど、様々な刺激を受けたり新たな経験を重ねたりすることで、古い記憶が心の奥底に追いやられてしまうのだろう。
母の目を盗んでそこに下りてきた私を、祖父母は目を丸くしながらも「あら、優里ちゃん、よく来たね」と言って、可愛がってくれた。母屋と蔵に囲まれた広い庭で、農作業から帰ってきた祖父は、私とボール投げやかくれんぼをして遊んでくれた。そんな私たち二人の様子を、縁側から優しく見守ってくれていた祖母。住んでいるモダンな住宅とは違ってそこは古い家だったけど、なぜかそこにいると私の心は自然に落ち着いた。
祖父母と向かい合ってスイカやミカンなどのおやつを食べて、畳敷きの居間に寝転がってゆっくり過ごしていた私。開けっ放しにしていた縁側からすうっと風が通り抜けて、心地よかった。時間が経つのも忘れて、古い家の包み込むような優しい雰囲気に身を委ねていた。そして、柱時計が午後五時半を告げる頃になって、ようやく起き上がる。あまり帰りが遅くなってしまうと、母がそわそわしてあたりを探し始めるのを知っていたから。
自転車を押して坂道を上るのは大変だろうからと、祖父が軽トラックの荷台に自転車を乗せて、私の家の近くまで送ってくれた。もちろん、母には見つからないようにこっそりと。
日曜日の午後、私は久しぶりに祖父母の家に行ってみようと、普段、駅までの往復に使っている、電動自転車に乗った。小学生の頃は、毎日のように通っていた祖父母の家だったが、中学校に入ってバスケットボールの部活が忙しくなってからは、ほとんど行かなくなってしまった。たまに会う祖父母は、それ相応に齢を重ねているようだったが、祖父は今でも細々と畑で野菜を作っていて、健在だった。
「あら、優里ちゃん、久しぶり。ちょっと見かけないだけで、立派になったわね」
「小さいときは、おじいちゃんとよくここで、一緒に遊んだものだったのにな」
突然の訪問に玄関先で出向かえてくれた祖父母は、口々にそう言った。
「はい、これ。おじいちゃんとおばあちゃんに買ってきたお土産だよ」
そう言って、私は自転車の前かごに乗せていた買い物袋を差し出す。中身は、『アメリカンパーク』のショップで見つけた、『シャドウ』と『ルナ』をかたどった漉し餡が中に入った焼き菓子。
「あら、優里ちゃん、そんなに気を遣わなくてもいいのに……東京に行ってきたの?」
買い物袋にプリントされたキャラクターのイラストを見ただけで、祖母は私がどこに行ってきたのかがわかったようだった。
「うん、友達とね。前から行ってみようって話していたんだけど、なかなか行けなくてさ」
「そうなの。それじゃ、ありがたく頂くわ。それよりもここで立ち話もなんだから、さぁ、上がって」
祖母に促されるまま、私は祖父母の家に上がる。昔は自分の家に帰って来たように、なんの気兼ねもなく上がっていたのになと思いながら、月日の経過を感じつつ他人の家に上がるときのように、丁寧に靴を揃える。
炬燵机が真ん中にあって、テレビや箪笥が置かれている居間は、この年のお盆に両親と一緒に来たときと、少しも変わっていなかった。
「お茶を淹れるわ」と言って、祖母は台所へと消えて行った。続きの座敷の向こうの縁側からは、昔、祖父と一緒に遊んだ庭が、午後の明るい日ざしを浴びて、眩しく見えていた。
「大学の勉強の方はどうだ。難しい勉強のことはよくわからんけど……」
この時期でも、よく日に焼けた祖父が、白い歯を見せながら訊いてくる。
「うん……それなりに頑張ってはいるんだけどね。そろそろ、就職のことも考えていかないといけないから大変……」
「そうか、優里はもうそんなことを考えないといけない齢なのか。ついこないだまで、あそこで一緒に遊んでいたと思っていたのにな」
祖父が縁側の方に視線を遣るのにつられて、私も視線を向ける。
「おじいちゃんと、あそこでキャッチボールをしたりかくれんぼをしたりして、私、楽しかったよ。それに、おじいちゃん、いつも私のことを心配して、トラックで私を家まで送ってくれていたもんね」
祖父は、頭に手を遣って照れ笑いを見せながら、
「優里があの坂道を一人で上っていくことを考えたら、不憫だったからな。でも、お母さんの美優さんに見つからないか、ハラハラしたものだよ」
と、答える。
「おじいちゃんが黙ってくれていたおかげで、お母さんには見つからないで済んだからよかった」
私は、祖父に向かって軽く微笑んだ。祖父もそれに合わせて、笑った。
祖父が話したことは、本当のことだった。普通、祖父母だったら、いくら孫が内緒にしていて欲しいと言ったとしても、孫が親に黙って家に来ていることをこっそり親に話していそうなものだが、祖父母はその言葉通り、私の両親、とりわけ母には秘密にしていてくれた。祖父母にとって、私の母が義理の娘であるという遠慮が働いていたのかも知れなかったが、今になって振り返ってみれば不思議なことでもあった。
母の性格がだいぶわかってきた今、もしかしたら祖父母と一緒に暮らしていた頃に、母との間で何かがあったのかも知れない。例えば、嫁と姑とのそりが合わなかったとか。父が、何十年ものローンを組んでまで丘の上に家を買ったほどだから、よほどのことがあったのではないだろうか。
そのことを母にそれとなく訊いたことはある。だけど、母から返ってきたのは、たまたま環境のよいところで家を見つけたからということ。その証拠に、母は今でも月に一度は、この祖父母宅に顔を出したりしている。近くに住んでいるということを割り引いてみても、夫の実家に顔を出す頻度としては、むしろ高い方なのではないだろうか。
「はい、お待たせ。ちょうど羊羹があったから、三人で頂きましょう」
祖母が出してくれたのは、有名和菓子店の羊羹。滅多に食べられない代物だったので、私はふと感じた疑問のことを忘れてしまっていた。祖母が出してくれた羊羹は、有名店のものだけあって、決して甘すぎることなく、滑らかな舌触りを楽しむことができた。
それから、大学での勉強のことや両親のこと、それとこないだ行ってきた『アメリカンパーク』の土産話などをしていたら、あっという間に時間が過ぎ去ってしまった。いつしか、縁側から差し込んでいる西日が、長い影を作っていた。
「私、そろそろ、帰らないと。レポートを仕上げないといけないんだった」
「あら、そう。優里ちゃんは、学生さんだもんね。身体を壊さないようにね」
「そうだぞ、優里。しっかり食べて寝るんだぞ」
祖父母とそんな会話を交わした後、私はさっと立ち上がると、そのまま玄関へと向かった。祖父母は、門のところまで見送ると言ったけれど、私は祖父母の身体を気遣って、玄関で別れることにした。
その帰り道、私は自転車を漕ぎながら、古い街並みに目を凝らしていた。祖父母の家を出て、このまま道なりに行けば、駄菓子屋がある。木造の小さなお店。夏になると、『かき氷』と書かれた小さな幟が風に揺れていたかな。そこからさらに進むと、木々が生い茂る古びた神社があって、広場のような境内で男の子たちがサッカーをして遊んでいた。
私がそれらの光景を覚えているのは、小学生になって自転車で動きまわれるようになってから、ここを頻繁に訪れていたから。ここで生まれて、幼い頃を過ごしたというのに、その頃の記憶がまったくないのは不思議な感じがした。
不意に、前輪のタイヤが何かに乗り上げてしまった。それを感じた瞬間に、ハンドルをとられてしまって、ふらついたかと思うと、そのままバタンと転んでしまった。「あいたたた」……そう呟いた私の目と鼻の先には、たった今、踏みつけたらしいレンガほどの大きさの石が転がっていた。こんな道路の端に石が落ちているなんて、子供のいたずらだろうか。
膝に手を遣ってみると、ぬるっとした感触がある。血だった。ドロッとした血。転んだときに、地面に膝をついてしまい、擦りむいてしまったのだと思った。こんなことなら、ワンピースではなくて、ジーンズをはいて来ればよかったと後悔する。とにかくそのまま家に帰る訳にはいかなかった。家で絆創膏を貼るにしても、とりあえず血を洗い流してしまわないと……。
横になってしまった自転車を起こす。一瞬、このまま祖父母の家まで引き返そうかと思ったが、あたりを見まわしてみると、今いる場所から十数歩先に、公園らしき場所があるのが見えた。そこが公園だとわかったのは、ブランコが風に揺れているのがわかったから。はて、こんなところに公園があったかなと首を傾げてみたが、気がついたときには、私は自転車を押しながら、そこに向かっていた。
「公園なら、トイレがあるに違いない」
とっさにそう思ったからだったが、案の定行ってみると、トイレはなかったけれど、奥の方に手洗い場が見えた。助かったと思った。とりあえずその手洗い場で、血を洗い流してしまおう。
入ったのは、ブランコが二つと、すべり台が申し訳なさそうにあるだけの、簡素なというか、侘しい公園。そこで私が向かったのは、私の背丈ほどのコンクリートの壁に取り付けられた水道の蛇口。幸い、夕暮れ間近の公園の中には、他に人の姿はなく、私は着ていたワンピースを膝のあたりまでまくり上げて、前かがみになりながら蛇口の水で膝を洗った。肩から掛けていたトートバッグの中から、ハンカチを取り出して、傷口を拭う。幸い、かすり傷程度で、水で流したおかげで血は止まっていた。
「やれやれ」と思って、居直ったとき、ふと誰かの視線を感じた。公園なんだから、誰かがいてもおかしくはなかったのだが、私が口を開けたまま凍りついてしまったのは、目の前の壁に取り付けられた四角い鏡に、男の子の姿が写っていたからだった。四、五歳くらいの丸顔の男の子。白のトレーナーにベージュの長ズボンをはいている。私が、手洗い場で膝を洗っているのを不思議に思って、見に来ているのだろうか。
とっさに、後ろを振り向いて声をかけようとするも、身体が金縛りに遭ってしまったかのように、凍りついて動かない。
「あっ、えっ」
辛うじて動く唇で、そう声にならない声を出すだけで精いっぱいだった。
その場でじっと立っている私。男の子は、ニッコリと微笑みながら、鏡に写る私の顔を見つめている。つまり、男の子と目と目が合っている状態。
そんな状態がどれほどの時間続いたのだろうか、いや、実際にはほんの数秒だったかも知れないが、私にはとても長い時間に感じられた。
すっと、全身の強張りが抜けていくと言った感じで金縛りが解けて、後ろを振り向いた私は、
「えっ、どういうこと?」
と、思わず声に出してしまった。今まで鏡に映っていた男の子の姿がなかったのだから。
何が何だかわからないまま、私はあたりを見わたした。今、立っている水道の壁の奥、ブランコのあるあたり……いつしか必死になって探したけれど、どこにも男の子はいなかった。どこかに隠れるにしてはあまりに短すぎる時間だった。まるで、私の後ろから忽然と消えてしまったかのよう。
再び、水道の蛇口のところに戻って、恐る恐る鏡を覗いてみたが、さっきの男の子の姿はなかった。映るはずがないのだ。だって、公園の中に私以外、誰もいないのだから。
さっき、男の子が立っていたあたりを、眺めてみる。どこかで会ったことのある男の子だと思った。『シャドウ』と『ルナ』が、仲良く手を繋いでいるイラストが描かれたトレーナー。
「あっ、あの子……」
思い出した。あのホテルの中で見かけた子供だった。だけど、次の瞬間、「どうして?」という疑問が頭の中に浮かぶ。ホテルの部屋で見かけた子供が、どうしてここにいるのだろうか。
いつきに、ホテルの部屋で男の子を見かけたことを話したら、「気のせい」だって言って軽くあしらわれたけれど、気のせいなんかじゃない。今も確かにこの目で見たのだから。
意味がわからなかった。怖いという感情もあったけれど、不思議にも前回とは違って今は、全身の震えは止まっている。今さっき起きたことを、頭の中で冷静に振り返っているって感じ。
どこかで、会ったことがあるような気がした。ホテルでのことではなく、もっと前に。だけど、いくら思い出そうとしてみても、思い出せなかった。
私は、とぼとぼと停めてあった自転車の方に歩いて行くと、立てかけてあったスタンドを外して、自転車を押し始めた。
「誰だろう、あの子は? どうして私の前に現れるの?」
住宅街へと続く坂道を自転車を押して歩きながら、私はもの思いに耽っていた。




