第九章 誰にも見せない涙
ガイルの呼吸が、少しずつ荒くなっていく。
目の前にいる女。
深紅の髪。
深紅の瞳。
獣のような歯。
甘く、人を弄ぶような声。
十年前、炎の中で聞いた声と同じだった。
「ヴェルナ=ロウガルド……」
ガイルは、喉の奥から絞り出すように言った。
「あの女の名前だ」
ソフィアは息を呑んだ。
目の前の女から、視線を外せない。
ドランもアルシェルも、静かに構えている。
だが、その空気はすでに張り詰めていた。
ヴェルナは、少しだけ目を細める。
「あら」
その声は楽しげだった。
「名前、知っているのね」
ガイルは歯を食いしばる。
「ああ。忘れるわけがねぇ」
握った拳が震えていた。
怒りで。
悔しさで。
そして、十年前の記憶で。
「俺は、バーンロートだ」
その言葉に、ヴェルナの表情がわずかに変わった。
「バーンロート……」
彼女は少し考えるように、指先を口元へ当てる。
そして、ふっと笑った。
「ああ、なるほど」
深紅の瞳が、ガイルを改めて見つめる。
「あの日のことは、鮮明に覚えているわ」
ガイルの呼吸が止まりそうになる。
ヴェルナは、楽しそうに続けた。
「あの時の可愛い坊や、ね」
ソフィアは思わずガイルを見る。
ガイルの顔から、血の気が引いていた。
けれど、その奥にある怒りは、今にも噴き出しそうだった。
ヴェルナはさらに言葉を重ねる。
「たしか、もう一人、可愛い子がいたわね」
その瞬間、ガイルの瞳が揺れた。
「やめろ……」
だが、ヴェルナはやめなかった。
「あまりにもか弱くて、すぐ死んじゃったけど」
空気が凍る。
ソフィアの表情が強張った。
ドランの角が、低く構えられる。
ヴェルナは、思い出すように微笑む。
「最後に何か言っていたわね」
ガイルの体が震えた。
ヴェルナは、甘い声で告げる。
「兄貴は強いぞ、って」
その言葉が、ガイルの中に残っていた最後の理性を焼き切った。
「貴様……!」
鬼のような形相だった。
怒り。
憎しみ。
後悔。
十年間、胸の奥に押し込めていたものが一気に噴き出す。
「ガイル! 落ち着い――」
ソフィアが止めようとした。
だが、その声が届く前に、ガイルは地面を蹴っていた。
「ドラン!!」
「ああ!」
ドランもまた、怒りに応えるように地面を踏み鳴らす。
ガイルの心が、ドランへ流れ込んでいた。
十年前の炎。
倒れたリオン。
届かなかった剣。
守れなかった約束。
そのすべてが、ガイルとドランの間で燃え上がる。
ガイルは左手を突き出した。
「メルド!」
硝石晶が鈍く輝く。
その光は、リュドのように澄んだものではなかった。
穏やかでも、柔らかくもない。
怒りを抱いた、重い光だった。
けれど、子どもの頃とは違う。
十年前、炎の中で作った歪な剣とは違う。
今のガイルのメルドは、荒々しくも形を失わなかった。
硝石晶が太く伸び、重く広がり、刃を成す。
生まれたのは、大きな戦斧だった。
鈍い輝きを放つ、重厚な斧。
荒々しい怒りを形にしたような武器。
ガイルはそれを片手で掴む。
そして、迷いなくドランの背に飛び乗った。
「行くぞ、ドラン!」
「振り落とされるなよ、ガイル!」
ドランが地面を蹴る。
その巨体が、一直線にヴェルナへ向かって突進した。
ソフィアは一瞬、動けなかった。
「ガイル……!」
止めなければならない。
けれど、今のガイルの背中は、誰の声も届かないほど怒りに染まっていた。
ヴェルナは、迫ってくるガイルを見ても、笑みを崩さない。
「いい顔をするようになったじゃない」
その隣で、黒い猛獣型グラセル――グラウベインが、静かに牙を剥いた。
ガイルは、ドランの背に乗ったまま、一直線にヴェルナへ迫った。
「うおおおおおおっ!」
握りしめた戦斧を、大きく振りかざす。
怒りを込めた一撃。
十年前、届かなかった剣とは違う。
今の自分は、あの頃とは違う。
そう証明するように、ガイルは全身の力を込めて斧を振り下ろした。
だが、ヴェルナは動じなかった。
深紅の瞳で、迫るガイルを静かに見つめる。
そして、冷たく言った。
「だけど」
その声は、あまりにも落ち着いていた。
「弱いわね」
次の瞬間、ヴェルナは右手に赤黒い硝石晶を握った。
赫灰。
それを見たソフィアの表情が変わる。
「赫灰……!?」
ヴェルナは、唇に薄い笑みを浮かべた。
「ディゾル」
赤黒い光が、彼女の右手から滲み出す。
従わせるような、禍々しい力だった。
「バルディッシュ」
赫灰から、不気味なオーラが噴き上がった。
赤黒い光が蠢き、まるで生き物のように形を変えていく。
うねり、歪み、軋むような音を立てながら、それは巨大な戦斧へと変わった。
ガイルの作った戦斧と似ている。
だが、まったく違う。
ガイルの斧が怒りを形にしたものなら、ヴェルナの斧は、血と憎悪を無理やり固めたようなものだった。
ヴェルナは片手でそれを軽々と持ち上げる。
「来なさい」
ガイルは止まらなかった。
「ヴェルナァァァァッ!」
ガイルの戦斧が振り下ろされる。
同時に、ヴェルナも戦斧を振った。
二つの刃がぶつかった。
重い衝撃音が響く。
だが、拮抗したのは一瞬だけだった。
ヴェルナの斧が、ガイルの一撃を軽く弾く。
「なっ……!」
次の瞬間、ガイルの戦斧に亀裂が走った。
刃から柄へ。
柄から手元へ。
鈍く輝いていた硝石晶が、耐えきれずに砕けていく。
「嘘だろ……!」
ガイルの手の中で、戦斧が粉々に砕け散った。
硝子の破片が夕暮れの光を受けて散る。
それは一瞬、美しくさえ見えた。
けれどガイルにとっては、十年前の記憶そのものだった。
炎の中で作った、歪な剣。
グラウベインに弾き飛ばされ、何にも届かなかったあの剣。
今度こそ届くと思った。
今度こそ戦えると思った。
だが、また砕かれた。
「ガイル!」
ソフィアの声が響く。
ヴェルナは、砕けた斧の破片を眺めながら、つまらなそうに笑った。
「少しは強くなったみたいだけど」
深紅の瞳が、ガイルを見下ろす。
「まだ、全然足りないわ」
グラウベインが低く唸る。
ドランがすぐに体勢を立て直そうとするが、ヴェルナの赫灰の斧が再び構えられる。
ガイルは息を呑んだ。
手の中には、もう何もない。
怒りを込めて作ったはずの武器は、跡形もなく砕かれていた。
ヴェルナは、赫灰から作り上げた戦斧を軽々と持ったまま、ゆっくりとガイルへ歩み寄る。
ドランが前に出ようとした。
だが、その瞬間、グラウベインが低く唸る。
黒い猛獣型グラセルが、ドランの前へ立ちはだかった。
「ぐ……」
ドランは歯を食いしばるように身構える。
ヴェルナは、戦斧の刃をガイルの喉元へ突きつけた。
冷たい刃が、ほんの少し動くだけで肌に触れそうな距離。
ガイルは息を止めた。
ヴェルナは、甘く囁くように言う。
「少し、聞きたいことがあるの」
ガイルは睨み返す。
ヴェルナは気にせず続けた。
「ソルメルリアにあるルパーティアは、どこにあるのかしら?」
ガイルは答えなかった。
ただ、深紅の瞳を睨みつける。
ヴェルナはしばらくガイルを見つめていた。
そして、つまらなそうに息を吐く。
「そう。知らないのね」
その声には、確信があった。
まるで、ガイルが嘘をついていないことを最初から見抜いているようだった。
ヴェルナの視線が、ゆっくりとソフィアへ向く。
「じゃあ、そこのお嬢さんは知ってる?」
ソフィアは動けなかった。
アルシェルが前に出ようとする。
だが、グラウベインの気配がそれを制するように膨れ上がる。
ヴェルナはガイルの喉元に突きつけていた戦斧を、今度はソフィアへ向けた。
ゆっくりと歩く。
刃先が、夕暮れの光を受けて赤黒く光った。
「そう」
ヴェルナはソフィアの反応を見る。
「がっかりだわ」
「ま、待て!」
ガイルが叫ぶ。
体はまだ動かない。
怒りで立ち上がろうとしても、足に力が入らない。
それでも、ガイルは必死に声を振り絞った。
「そいつには関係ねぇだろ!」
ヴェルナは足を止め、少しだけ振り返る。
「バーンロートの坊や」
その呼び方に、ガイルの表情が歪む。
ヴェルナは冷たく笑った。
「弱いと、何も守れないのよ」
その言葉が、ガイルの胸に突き刺さる。
十年前と同じだった。
リオンを守れなかった。
ルパーティアを守れなかった。
自分さえ守れなかった。
そして今、ソフィアも守れない。
ヴェルナは続ける。
「強者から何かを守りたければ、自分を犠牲にする覚悟くらい持ちなさい」
そう言って、ヴェルナはソフィアへ向かって戦斧を振りかざした。
「やめろ!」
ガイルの叫びが響く。
その刹那。
銀色の髪が、夕暮れの中で揺れた。
一人の女性が、ソフィアの前へ滑り込むように現れる。
白銀の鎧。
長い銀髪。
凛とした横顔。
次の瞬間、赫灰の戦斧と、翼を持つ剣のようなグラセルが激しくぶつかった。
重い衝撃音が響く。
戦斧の刃を受け止めたのは、剣と翼を合わせたような形のグラセルだった。
「よくやった。レグナ」
女性は静かに言った。
レグナと呼ばれた剣翼型グラセルは、きしむような音を立てながらも、ヴェルナの戦斧を受け止めていた。
「……きついな」
レグナが低く呟く。
それでも、刃はソフィアには届かなかった。
ヴェルナは、わずかに眉を動かす。
「へぇ」
女性はヴェルナを警戒したまま、背後のソフィアへ声をかける。
「大丈夫か、ソフィア」
ソフィアは呆然とその背中を見上げた。
「セイラ……姉さん……」
そう呟いた直後、緊張の糸が切れたように、ソフィアの身体が崩れた。
女性は片腕でソフィアを受け止める。
「よく耐えた」
その声は厳しくも、優しかった。
ガイルは荒い息をしながら、その女性を見る。
「そこの青年」
女性が言った。
「ソフィアの友人か?」
ガイルは一瞬だけ言葉に詰まり、それから頷く。
「あ、ああ」
女性はソフィアを支えたまま、ガイルへ視線を向ける。
「なら、ソフィアを見ていてくれ」
「ああ……」
ガイルは震える足で立ち上がり、ソフィアの方へ近づく。
「アンタは……?」
女性は、ヴェルナから視線を外さずに名乗った。
「グランシエル騎士団団長、セイラ=アルヴェイン」
そして、少しだけ声を落とす。
「ソフィアの親族だ」
ガイルは息を呑む。
目の前の女性から漂う気配は、明らかにただ者ではなかった。
ヴェルナは、セイラの姿を見て、わずかに口元を歪める。
「グランシエル騎士団団長……」
深紅の瞳が、楽しげに細められる。
「やっかいな人が来たわね」
セイラはレグナを構え直す。
「刃を向ける者を、見逃すわけにはいかない」
ヴェルナは、赫灰の戦斧を軽く肩に乗せた。
「ふふ。正義感の強い女ね」
その隣で、グラウベインが低く唸る。
セイラの横で、レグナの翼剣が淡く光った。
再び緊張が張り詰める。
ガイルはソフィアを支えながら、悔しさに歯を食いしばった。
ヴェルナは、赫灰の戦斧を軽く肩に乗せたまま、ふっと笑った。
「まだまだ遊びたいところだけど……そろそろ時間だから行かないと」
そう言って、ゆっくりと一歩下がる。
セイラはすぐにレグナを構え直した。
「逃がさんぞ」
その声には、グランシエル騎士団団長としての鋭さがあった。
「貴様は何者だ」
ヴェルナは楽しそうに目を細める。
「残念だけど、それはまた今度」
「答えろ」
「ふふ。そんなに怖い顔をしなくても、いずれまた会うでしょうしね」
そう言うと、ヴェルナは右手に持っていた赫灰へ視線を落とした。
赤黒い光が、じわりと滲む。
「遊びは、この子たちに任せるわ」
セイラの眉が動く。
「何を――」
ヴェルナが軽く手を振った。
その瞬間、地面に黒い染みのようなものが広がる。
硝子が軋むような音。
低く、濁った唸り声。
闇の中から、二体の黒いグラセルが姿を現した。
どちらも原型がわからないほど歪んでいた。
四本の脚を持つことから、おそらく獣型なのだろう。
だが、頭部も胴体も不自然に曲がり、黒く濁った硝子の体には、赤黒い光が脈のように走っている。
ガイルは、思わず息を呑んだ。
「なんだよ……あれ」
セイラは目を細める。
「黒いグラセル……」
その声には、ただの驚きではない響きがあった。
レグナが低く言う。
「セイラ。十年前のヴァスレインの記録にあったものと似ている」
「ああ」
セイラは二体の黒いグラセルを見据えたまま頷いた。
十年前、ヴァスレインで発生した黒いグラセルの騒動。
その記録は、グランシエル騎士団にも残されていた。
黒く変質したグラセル。
体内に埋め込まれた赫灰。
そして、赫灰を破壊することで正気を取り戻したという記録。
セイラは静かに息を吐く。
「グラセルは本来、一人の人間に一体のはずだ」
レグナが続ける。
「だが、あの女は今、二体を同時に出した」
「つまり、あれはヴェルナ自身のグラセルではない」
セイラの視線が鋭くなる。
「誰かのグラセルを、赫灰で変質させている可能性が高い」
二体の黒いグラセルは、低く唸りながらセイラたちを囲むように動いた。
痛みも、恐怖も、迷いもない。
ただ、命令だけに従っているような動きだった。
セイラはレグナを構え直す。
「十年前の記録通りなら、赫灰を破壊すれば戻るはずだ」
「やるしかないな」
「ああ」
セイラは短く答えた。
「持ち主のもとへ帰してやる」
ヴェルナは、満足そうに笑った。
「そういう希望にすがる顔、嫌いじゃないわ」
そして、黒い猛獣型グラセルへ視線を向ける。
「グラウベイン、行くわよ」
グラウベインは低く喉を鳴らし、ヴェルナの傍へ寄る。
その直前、ヴェルナはふとガイルを見た。
深紅の瞳が、ガイルを捉える。
ほんの一瞬。
けれどその視線だけで、ガイルの胸に十年前の炎が蘇った。
ヴェルナは何も言わなかった。
ただ、薄く笑った。
そして、グラウベインと共に夜闇の中へ消えていく。
「待て!」
セイラは追おうとした。
しかし、残された二体の黒いグラセルが、彼女の前に立ちはだかる。
一体が低く身を沈め、もう一体が横へ回り込む。
「セイラ、来るぞ!」
レグナの声と同時に、黒いグラセルが襲いかかった。
セイラはガイルに伝える。
「その子を頼む!」
「あ、ああ!」
セイラは前へ出る。
白銀の鎧が、夜の中で鋭く光った。
「レグナ!」
「任せろ」
翼剣型グラセル、レグナが大きく展開する。
黒いグラセルの爪が迫る。
セイラは一歩も退かず、レグナの刃でそれを受け止めた。
重い衝撃が響く。
火花のように硝子の欠片が散った。
セイラの足元がわずかに沈む。
だが、彼女の目は揺らがなかった。
「力はある。だが、動きが単調だ」
レグナが言う。
「ああ。心が乱されている」
二体目が横から飛びかかる。
「左だ!」
「わかっている!」
レグナの翼が広がり、刃のように弧を描く。
黒いグラセルの前脚が弾かれた。
しかし、相手は怯まない。
すぐに体勢を立て直し、再び襲いかかってくる。
セイラはその動きを見切り、足を踏み込んだ。
「赫灰の位置は?」
「胸部だ」
レグナが答える。
黒く濁った硝子の奥。
赤黒い光が、心臓のように脈打っている。
セイラは剣翼を構えた。
「ならば、そこを破壊する」
「承知」
一体目が正面から飛び込んでくる。
セイラはその爪を受け流し、懐へ踏み込んだ。
「レグナ!」
「いけ!」
翼剣が細く鋭く変形する。
セイラは黒いグラセルの胸部へ向けて、一閃した。
硝子が砕ける音が響く。
赤黒い赫灰の核が割れ、光が弾けた。
黒いグラセルはびくりと震える。
セイラは一瞬、動きを止めた。
戻るはずだった。
記録通りなら、黒い濁りが引き、元のグラセルの姿を取り戻すはずだった。
だが――。
黒いグラセルは正気に戻らなかった。
一度大きく痙攣したあと、その体は形を保てず、黒い硝石晶の破片となって崩れ落ちた。
「……戻らない?」
セイラの声が低くなる。
レグナも沈黙した。
もう一体が、背後から襲いかかる。
「後ろだ!」
ガイルが叫んだ。
セイラは振り返らずに、レグナの翼を背後へ伸ばす。
刃が黒いグラセルの顎を受け止め、勢いを殺す。
その一瞬で、セイラは身体をひねり、逆手に構えたレグナを突き込んだ。
二体目の胸部にも、赤黒い赫灰が埋め込まれていた。
「すまない」
セイラは小さく呟いた。
そして、刃を突き立てる。
赫灰が砕ける。
黒いグラセルは大きく震えた。
だが、やはり戻らない。
赤黒い光が何度も明滅し、やがて砕け散る。
二体目もまた、形を失って崩れ落ちた。
夜の道に、静けさが戻る。
残されたのは、黒く濁った硝石晶の破片だけだった。
セイラはしばらく、その破片を見つめていた。
「……十年前の記録とは違う」
レグナが静かに言う。
「ああ」
グラセルは本来、一人に一体。
そして、グラセルが動いているということは、持ち主も生きている。
それが、この世界の常識だった。
だが、今の二体は、赫灰を破壊しても元には戻らなかった。
セイラは唇を引き結ぶ。
「持ち主が、すでに死んでいる可能性がある」
その言葉は重かった。
ガイルはソフィアを支えたまま、何も言えなかった。
黒いグラセル。
赫灰。
ヴェルナ=ロウガルド。
十年前と同じものが、今また目の前に現れた。
そして自分は、また何もできなかった。
セイラはヴェルナが消えた方角を睨む。
「急がなければならない」
レグナが低く答える。
「あの女は、ただの襲撃者ではない」
「ああ」
セイラはレグナを下ろし、静かに言った。
「この件、報告せねばな」
ーーー
ーー
ー
エラグレア・アカデミー男子寮。
ガイルは、安全確保のためにグランシエル騎士団の団員に付き添われ、寮まで送り届けられた。
部屋に入ると、何も言わずに扉を閉めた。
外は静かだった。
昼間の喧騒も、ヴェルナの声も、黒いグラセルの唸り声も、今はもう聞こえない。
窓の外には、夜のアカデミーが広がっている。
月明かりが、机の上に置かれた教本や、壁に立てかけた訓練用の武器を淡く照らしていた。
ガイルは、そのままベッドへ倒れ込む。
仰向けになり、天井を見上げた。
静かな夜だった。
あまりにも静かで、余計に耳の奥にあの声が蘇る。
――弱いわね。
ヴェルナの声。
甘く、冷たく、何もかも見透かしたような声。
ガイルは歯を食いしばった。
「……くそ」
小さく吐き出した声は、震えていた。
拳を握る。
けれど、力が入らない。
あの時もそうだった。
十年前も。
今日も。
怒りに任せて飛び出した。
守りたいと思った。
今度こそ届くと思った。
けれど、届かなかった。
作った戦斧は砕かれた。
ソフィアを守れなかった。
セイラが来なければ、また目の前で誰かを失っていたかもしれない。
「くそ……っ」
目元が熱くなる。
ガイルは腕で顔を隠した。
だが、涙は止まらなかった。
十年前、リオンを守れなかった自分。
今日、ソフィアを守れなかった自分。
何も変わっていない。
どれだけ笑っても。
どれだけ強がっても。
どれだけリュドに「前を向け」と言っても。
自分は、あの日の炎の中から一歩も進めていないのではないか。
そんな思いが、胸の奥を締めつけた。
――強者から何かを守りたければ、自分を犠牲にする覚悟くらい持ちなさい。
ヴェルナの言葉が、心を抉る。
「わかってるよ……」
ガイルは、誰に言うでもなく呟いた。
「そんなこと……わかってるんだよ……」
けれど、体は動かなかった。
あの刃がソフィアに向いた時、叫ぶことしかできなかった。
十年前と同じだった。
リオンの時も、追えなかった。
ヴェルナの背中を見ることしかできなかった。
今日も、同じだった。
「俺は……」
言葉が詰まる。
「俺は、弱い……」
認めたくなかった。
でも、認めないわけにはいかなかった。
涙が頬を伝い、枕に染み込んでいく。
部屋の隅では、ドランが静かに横たわっていた。
いつもなら何か言ってくる。
馬鹿にするようなことも、叱るようなことも、きっと言えたはずだ。
けれど、今夜のドランは何も言わなかった。
ただ、ガイルのそばにいた。
それだけだった。
その沈黙が、かえって優しかった。
ガイルは腕で顔を覆ったまま、声を殺して泣いた。
静かな夜の中で。
誰にも見せない涙だけが、止まらなかった。




