第八章 守れなかった約束
十年前。
ヴァスレイン。
そこは、火山の熱と雪の冷たさが隣り合う国だった。
大地の奥では溶岩が赤く脈打ち、山肌には白い雪が積もる。
熱と寒さが混ざり合う過酷な土地で、人々は生きていた。
ヴァスレインの民は、その環境に適応し、他国からの支援も受けながら、少しずつ国を発展させてきた。
しかし、過酷な土地は、豊かさを簡単には与えてくれない。
遠い昔、人々は資源を求めて争いを繰り返した。
食料、鉱石、土地、燃料。
生きるために奪い、守るために戦う時代があった。
今では大きな争いこそ減ったものの、その名残は国の気風に深く残っている。
強くあれ。
鍛えよ。
守れ。
誇りを失うな。
ヴァスレインでは、今でも軍人や騎士を目指す者が多かった。
そのヴァスレインに、ラグノス兵学校という学び舎がある。
若き戦士たちを育てるための学校。
そこでは、剣術、体術、戦略、グラセルとの連携、そして戦士としての心構えが教えられていた。
校庭には、今日も子どもたちの声が響いている。
雪を踏みしめる音。
木剣がぶつかる音。
笑い声。
悔しがる声。
負けじと叫ぶ声。
その中に、八歳のガイル=バーンロートもいた。
赤い髪を揺らしながら、ガイルは一人で木剣を振っていた。
「一、二、三……!」
まだ幼い体つきではある。
だが、その目には強い意志が宿っていた。
ガイルはバーンロート家の長男だった。
周囲から期待されていることを、幼いながらに理解していた。
自分は強くならなければならない。
家の名に恥じない戦士にならなければならない。
だから、誰よりも練習した。
誰よりも前に立ち、誰よりも声を出し、誰よりも強くなろうとした。
そんなガイルに、仲間の少年たちが声をかける。
「おーい、ガイル!」
「こっち来いよ!」
「たまにはサボろうぜ!」
数人の少年たちが、雪の積もった校庭の隅で手を振っていた。
ガイルは木剣を止め、彼らを見る。
そして、にやりと笑った。
「馬鹿か、お前ら」
少年たちは顔を見合わせる。
ガイルは木剣を肩に担ぎ、自信満々に言った。
「そうやってちょっとでもサボる時間が、将来、戦士としての差を生むんだよ」
「うわ、出た」
「また始まったぞ」
「バーンロート家の説教だ」
少年たちが口々にからかう。
ガイルは気にせず、木剣を構え直した。
「サボりたいなら勝手にしろ。でもな、後で俺にボコボコにされても文句言うなよ」
「なんだと!」
「言ったな、ガイル!」
「そっちこそ、俺たちに負けても泣くなよ!」
少年たちは負けじと木剣を手に取り、ガイルのもとへ走ってくる。
ガイルは楽しそうに笑った。
「いいぜ。まとめてかかってこい!」
雪を蹴って、子どもたちは一斉に動き出す。
木剣がぶつかる乾いた音が、校庭に響いた。
ガイルは笑っていた。
強くなることが楽しかった。
仲間と競い合うことが楽しかった。
いつか立派な戦士になる未来を、何の疑いもなく信じていた。
そんな中、少し離れた場所で、二人の少年が休憩していた。
雪の上に腰を下ろし、木剣を膝に置きながら、遠くで騒がしく打ち合うガイルたちを見ている。
一人は、ゼクト=クロウベルク。
鋭い目つきをしているが、この頃の表情にはまだ柔らかさがあった。
もう一人は、リオン=バーンロート。
ガイルの弟である。
リオンは兄たちの練習を、目を輝かせながら見つめていた。
ゼクトが、ぽつりと口を開く。
「ガイルは、やっぱりすごいな」
その声には、素直な尊敬があった。
リオンは嬉しそうに胸を張る。
「俺の兄貴だもん。当たり前だよ」
にっこりと笑うリオンを見て、ゼクトも少しだけ口元を緩めた。
「強いだけじゃない」
ゼクトは、仲間たちの中心で笑っているガイルを見つめる。
「周りを引っ張っていく力がある。みんな、ガイルの言葉なら自然と動く」
木剣を振りながら、ガイルは仲間たちを挑発し、笑い、時には叱りながら、練習の輪を作っていた。
誰かが転べば手を差し出す。
誰かが弱気になれば、笑い飛ばしてもう一度立たせる。
勝っても一人で得意になるのではなく、周りまで巻き込んで前へ進ませる。
ゼクトは、その姿をまっすぐに見つめていた。
「将来、ガイルは僕たちを背負ってくれる」
リオンはゼクトを見る。
その言葉が、自分のことのように嬉しかった。
「ゼクトも、兄貴も、俺にとって目標だからな」
リオンはそう言って、照れくさそうに笑った。
ゼクトは少し驚いたようにリオンを見た。
「僕も?」
「うん」
リオンは迷わず頷く。
「ゼクトは冷静だし、頭もいいし、兄貴みたいに騒がしくないけど強い。俺、二人みたいになりたいんだ」
ゼクトは一瞬、言葉を失った。
それから、少しだけ視線を逸らす。
「……そうか」
短い返事だった。
けれど、その耳は少し赤くなっていた。
遠くでは、ガイルが仲間たちを相手に木剣を振り回しながら叫んでいる。
「どうしたどうした! まとめてかかってこい!」
少年たちの笑い声が、雪と溶岩の国に響いていた。
リオンはその声を聞きながら、また嬉しそうに笑う。
「俺もいつか、兄貴の隣で戦えるようになる」
ゼクトは静かに頷いた。
「なれるさ」
その言葉に、リオンの顔がぱっと明るくなる。
まだ何も失っていなかった頃。
誰もが、自分たちの未来を疑っていなかった頃。
ガイルは皆を引っ張る兄であり、
ゼクトはその背中を信じ、
リオンは二人を目標にしていた。
---
--
-
授業が終わる頃、ラグノス兵学校の教官が生徒たちを集めた。
いつもなら、今日の訓練の反省や、明日の予定を簡単に話して終わる時間だった。
けれど、その日の教官の表情はいつもより硬かった。
「全員、よく聞け」
ざわついていた子どもたちが、少しずつ静かになる。
教官は低い声で告げた。
「最近、ヴァスレイン国内で二人が殺されている」
その言葉に、校庭の空気が一瞬で変わった。
誰も声を出さなかった。
ヴァスレインは、かつて争いの多い国だった。
だが、それは昔の話だ。
今では国内で殺人が起きることなど、そう多くはない。
それも、二人。
子どもたちは互いに顔を見合わせる。
教官は続けた。
「犯人はまだ捕まっていない。しばらくの間、極力集団で行動すること。一人にならないこと。暗くなる前に必ず家へ帰ること」
教官の目が、生徒たちを一人ずつ見渡す。
「以上だ。今日は解散」
その言葉を合図に、生徒たちは少し重い空気のまま動き出した。
ガイル、ゼクト、リオンの三人も、ラグノス兵学校を出て、グラント貯蔵区へ続く道を歩いていた。
雪混じりの風が、火山の熱を含んだ空気と混ざり合う。
道の遠くには、赤く光る溶岩脈と、白く積もる雪の斜面が見えた。
しばらく歩いてから、ゼクトが口を開いた。
「ヴァスレインで殺人って、何年ぶりなんだろう」
その声は、いつも通り落ち着いていた。
けれど、どこか考え込んでいるようでもあった。
「昔と比べれば、今はかなり平和になったからな」
ゼクトは続ける。
「そんなヴァスレインで、二人も殺された。しかも……殺された人たち、かなりの手練れだったらしい」
リオンが不安そうに顔を上げる。
「寝込みを襲われたのかな?」
「それが、違うみたいだ」
ゼクトは首を横に振った。
「争った跡があったらしい。部屋の中も荒らされていたって聞いた。まるで、何かを探していたみたいに」
「何かを……?」
リオンの声が小さくなる。
ガイルは黙って聞いていた。
リオンはさらに尋ねる。
「殺された人のグラセルはどうなったの?」
ゼクトは少し眉を寄せる。
「本来、持ち主が死んだら、グラセルは硝石晶に戻るって言われてる」
「うん」
「でも、その硝石晶の痕跡もなかったらしい」
リオンは息を呑んだ。
「グラセルごと、なくなったってこと?」
「そういうことになる」
三人の間に、少しだけ沈黙が落ちた。
ヴァスレインの道を、冷たい風が吹き抜ける。
子どもたちにとって、殺人という言葉だけでも重かった。
ましてや、グラセルの痕跡まで消えているなど、普通ではない。
だが、その重い空気を破るように、ガイルが大きく笑った。
「まあ、やった相手がどんな奴かは知らねぇけどな!」
ガイルは木剣を肩に担ぎ、胸を張る。
「出てきたら、俺が倒してやる!」
リオンの顔がぱっと明るくなる。
「やっぱり兄貴はすごい!」
ゼクトは呆れたように息を吐いた。
「俺たちはまだグラセルもいないんだよ。大人が太刀打ちできない相手なら、さすがに厳しいでしょ」
「何言ってんだ、ゼクト!」
ガイルは自信満々に笑う。
「グラセルがなくても、気合いと根性があればなんとかなる!」
「ならないよ」
ゼクトは即答した。
だが、リオンは目を輝かせていた。
「案外、兄貴ならやってくれるかもね!」
「リオンまで……」
「だって俺の兄貴、最強だし!」
リオンは憧れの眼差しでガイルを見る。
その視線を受けて、ガイルはますます調子に乗った。
「そうだ! 俺は最強だぁ!」
ガイルは両手を広げ、豪快に笑う。
「ガハハハ!」
ゼクトはやれやれと肩をすくめた。
けれど、その表情はどこか柔らかかった。
ガイルの無茶な自信。
リオンのまっすぐな憧れ。
その二人を見ていると、ゼクトもつい笑ってしまう。
「本当に、君たちは似てるね」
「どこがだ?」
ガイルが聞く。
「根拠もなく前向きなところ」
「根拠はある!」
ガイルは自分の胸を叩く。
「俺だからだ!」
リオンも真似して胸を張る。
「兄貴だからだ!」
ゼクトは小さく笑った。
「はいはい」
三人はそうして、グラント貯蔵区へ続く道を歩いていった。
リオンは二人の先頭を歩いていた。
道端で拾った棒切れを木剣のように振り回しながら、嬉しそうに鼻歌を歌っている。
時々、見えない敵を相手にするように足を踏み出し、棒切れを振っては、一人で満足そうに笑っていた。
その少し後ろを、ガイルとゼクトが並んで歩いている。
ゼクトはしばらくリオンの背中を見ていたが、ふと口を開いた。
「なあ、ガイル」
「なんだ?」
「俺もさ、将来グランヴォル騎士団に入ろうと思ってる」
ガイルは目を輝かせた。
「おお、いいね!」
そして、すぐにいつもの調子で胸を張る。
「じゃあ、俺の子分にしてやる!」
ゼクトは呆れたように笑った。
「馬鹿言うなよ」
けれど、その声は楽しそうだった。
少し間を置いて、ゼクトは前を向いたまま続ける。
「でも……それも悪くないね」
「ん?」
「ガイルの隣で剣を振れるならさ」
その言葉に、ガイルは一瞬だけ黙った。
いつもならすぐに大声で笑うところなのに、少しだけ照れくさそうに頬をかく。
「……お、おう。そうだな」
ゼクトはその反応を見て、小さく笑う。
ガイルは照れ隠しのように、空へ向かって拳を突き上げた。
「ああ! 俺がこのヴァスレインを守る騎士になるんだ!」
その声に、前を歩いていたリオンが振り向く。
「皆を守ってな! 兄貴!」
「ああ!」
ガイルは力強く頷いた。
「お前も、ゼクトも、俺が守ってやる!」
リオンは嬉しそうに笑った。
「やっぱり兄貴は最強だ!」
「当然だ!」
ガイルは豪快に笑う。
その笑い声は、雪と溶岩の道に明るく響いた。
ガイルは、自分の夢に全力だった。
調子に乗ることもある。
大きなことを言いすぎることもある。
けれど、努力だけは誰にも負けないほど積み重ねてきた。
ヴァスレインの戦士には、誇りがある。
強さとは、誰かを傷つけるためではない。
守るべきものの前に立つためにある。
ガイルは、そんな戦士たちの背中を見て育ってきた。
だから信じていた。
努力すれば強くなれる。
強くなれば、大切なものを守れる。
自分はいつか、ヴァスレインを守る騎士になれる。
そしてその隣には、ゼクトがいて。
後ろには、リオンが笑っている。
その未来を、ガイルは疑っていなかった。
---
--
-
バーンロート家の屋敷は、大きな屋敷だった。
騎士の家ではあるが、その佇まいは、そこらの貴族の屋敷と比べても遜色ない。
厚い石壁に囲まれた門には、バーンロート家の紋章が刻まれている。
由緒正しき戦士の家系。
それが、バーンロート家だった。
ガイルとリオンは、途中でゼクトと別れ、家へ帰ってきた。
扉を開けると、数名のメイドと執事が、二人を笑顔で迎え入れる。
「おかえりなさいませ。ガイル様、リオン様」
「ただいま!」
リオンは元気よく返事をした。
ガイルも軽く手を上げる。
すると、執事の一人がガイルへ歩み寄った。
「ガイル様。グレン様がお呼びです」
「父さんが? わかった」
ガイルは少し首を傾げながらも頷いた。
そして、隣にいるリオンへ声をかける。
「リオン、先に休んでな」
「わかった!」
リオンは素直に頷いた。
そこへメイドが優しく尋ねる。
「リオン様、お食事の準備ができております。先に召し上がりますか?」
リオンは少し考えるように腕を組んだ。
「うーん。今日はドラムバムの腸の肉詰め、ある?」
「もちろん。ご用意しておりますよ」
その瞬間、リオンの顔がぱっと明るくなった。
「じゃあ、先に飯だ!」
リオンはにこにこしながら、食卓の方へ向かっていく。
その背中を見送り、ガイルは父の書斎へ向かった。
書斎の前まで来ると、ガイルは軽く扉を叩いた。
「父さん。どうかしたの?」
「入りなさい」
中から落ち着いた声が返ってくる。
ガイルが扉を開けると、そこには父、グレン=バーンロートがいた。
威厳のある顔立ち。
鍛えられた体格。
戦士として長く生きてきたことを感じさせる鋭い眼差し。
だが、ガイルが部屋に入ると、その表情は少しだけ柔らかくなった。
「おお、ガイルか。まあ、入りなさい」
「うん」
ガイルは言われるまま部屋へ入り、近くにあった椅子へ腰掛けた。
グレンは机の上に置いていた書類をそっと伏せる。
その顔には、ほんの少しだけ悩みの色が残っていた。
けれど、最初に口にしたのは、父親としての何気ない問いだった。
「最近、学校の方はどうだ? リオンも馴染めてきたか?」
ただ純粋な、親としての心配だった。
ガイルはすぐに明るく答える。
「学校の方は順調だよ! リオンもかなり馴染めてきた」
リオンは、ラグノス兵学校に入ったばかりだった。
まだ四歳と幼く、学校では最年少に近い。
「俺が学校に行ったのなんか六歳だったのに、リオンは四歳で行きたいって言ったんだぜ。すごいよな!」
グレンは静かに頷いた。
「そうだな。お前の影響が、リオンにとってそれだけ大きいのだろう」
ガイルは少し照れくさそうに頬をかいた。
「そうかな」
「そうだ」
グレンは穏やかに言った。
「あの子は、お前の背中を見ている。お前が剣を振れば、自分も振りたがる。お前が前へ進めば、自分も追いかけようとする」
その言葉に、ガイルの表情が少し引き締まる。
彼は真剣な眼差しで、グレンを見た。
「俺は、父さんに憧れたんだ」
グレンは目を細める。
「私に?」
「うん」
ガイルはまっすぐ頷いた。
「父さんのような騎士になりたいって。誰でも守れる騎士に」
グレンは一瞬、言葉を失った。
そして、ゆっくりと微笑む。
「そうか。何よりも嬉しい言葉だ」
ガイルは少しだけ照れたように笑った。
だが、グレンの表情はすぐに真剣なものへ戻る。
「ガイルよ」
「ん?」
「お前に見せたいものがある」
その声の重みに、ガイルは自然と背筋を伸ばした。
グレンは立ち上がり、書斎の奥にある本棚へ向かう。
古い戦術書や家系の記録が並ぶ、大きな本棚だった。
グレンはその端に手をかけ、ゆっくりと力を込める。
重い音を立てて、本棚が横へずれた。
その奥には、壁に隠された大きなくぼみがあった。
くぼみの中には、鍵のかけられた箱が置かれている。
ガイルは思わず息を呑んだ。
「父さん……それは?」
グレンは箱を見つめながら言った。
「これは、私たちバーンロート家の守るべきものだ」
その声は、先ほどまでの父親のものではなかった。
家を背負う者として。
代々受け継いできたものを守る者としての声だった。
グレンは懐から鍵を取り出し、箱を開けた。
静かに蓋が開く。
その中には、美しい硝石晶が納められていた。
淡い光を宿し、見る角度によって色を変える。
それは、ただの硝石晶ではなかった。
ガイルにもわかった。
誰もが一度は名を聞いたことがある、奇跡の硝石晶。
「……綺麗だ」
思わず、そう呟いていた。
グレンは静かに言う。
「ルパーティアだ」
「ルパーティア……」
ガイルは、その名を小さく繰り返した。
授業や物語で聞いたことはある。
今確認されているルパーティアは四つ。
四大国の重要な機関に、それぞれ厳重に保管されている。
ヴァスレインにも、ドゥラグ要塞に保管されているものがあると教えられていた。
だが、目の前にあるものは何なのか。
なぜ、バーンロート家の書斎にあるのか。
ガイルには、まるでわからなかった。
「なんで……そんなものが家に?」
グレンは、すぐには答えなかった。
ただ、箱の中の光を見つめている。
「このルパーティアは、ヴァスレインのドゥラグ要塞に保管されているものとは違う」
「え……?」
ガイルは目を見開く。
グレンは静かに続けた。
「そして、国王も知らないものだ」
その言葉に、ガイルの胸が強く鳴った。
国王も知らない。
それほどのものが、自分の家にある。
「どうして、そんな貴重なものが家に?」
ガイルの声は自然と小さくなった。
グレンはゆっくりと箱の蓋に手を添える。
「そこまでは、まだ言えない」
「……」
「だが、お前はこれを知り、守らなければならない」
グレンはガイルをまっすぐ見た。
「来たるべき時までな」
「来たるべき時……」
ガイルはその言葉を繰り返す。
「それって、いつ?」
「それはわからない」
グレンの答えは静かだった。
「いつまで守るのか。何のために守り続けるのか。すべてを今のお前に話すことはできない」
ガイルは黙って父を見る。
グレンの表情は、いつになく厳しかった。
冗談でも、試しでもない。
本当に大切なことを伝えている顔だった。
「だが、これはバーンロート家の絶対的な使命だ」
グレンは低く言った。
「詳しいことは、お前がもう少し大人になってから話す」
そして、ゆっくりと問う。
「わかったか?」
ガイルは、箱の中のルパーティアを見つめた。
美しい光だった。
けれど、その美しさには、ただ綺麗だと思うだけでは済まない重さがあるように感じた。
父が守ってきたもの。
バーンロート家が守るべきもの。
そして、いつか自分も守らなければならないもの。
ガイルは真剣な顔で頷いた。
「はい」
グレンは、静かに箱の蓋を閉じた。
「強くなりなさい、ガイル」
「うん」
「強さとは、誰かを打ち負かすためだけのものではない。大切なものを守るためにある」
ガイルは父の言葉を、胸の奥に刻むように聞いていた。
まだ全部はわからない。
けれど、ひとつだけ強く思った。
父さんのようになりたい。
誰かを守れる騎士になりたい。
ガイルは拳を握る。
「俺、もっと強くなる」
グレンは少しだけ表情を和らげた。
「期待しているぞ、ガイル」
その言葉に、ガイルの胸は熱くなった。
---
--
-
翌日。
ラグノス兵学校には、いつもと変わらない声が響いていた。
木剣がぶつかる音。
雪を踏みしめる足音。
子どもたちの笑い声。
前の日、父に見せられたルパーティアのことは、ガイルの胸の奥に残っていた。
けれど、その意味をすべて理解するには、まだ幼すぎた。
だから、ガイルはいつも通り木剣を振った。
「おら、ゼクト! もっと踏み込め!」
「君は相変わらず声が大きいね」
「声も強さのうちだ!」
「それは違うと思う」
少し離れた場所では、リオンが小さな木剣を持って、一生懸命に素振りをしていた。
「兄貴! 見て!」
「おう! いいぞ、リオン!」
ガイルが笑って声をかけると、リオンは嬉しそうにまた木剣を振る。
だが、昼を過ぎた頃、リオンの足取りが少しふらついた。
教官がそれに気づき、声をかける。
「リオン。今日はここまでだ。無理をするな」
「でも、まだできるよ」
「頑張ることと、無理をすることは違う」
リオンは少し不満そうに唇を尖らせた。
その時、校門の方から慌ただしい足音が聞こえた。
伝令の兵が教官のもとへ駆け寄り、何かを耳打ちする。
教官の表情が、わずかに変わった。
「……そうか」
ガイルはその様子を見て、首を傾げた。
「何かあったのか?」
教官は生徒たちを見回してから、落ち着いた声で言った。
「各地で少し騒ぎが起きている。だが、慌てるな。今日は寄り道をせず、早めに帰るように」
それから、ガイルに視線を向けた。
「ガイル。グレン殿は騎士団の要請で出動された。奥方も避難者と負傷者の対応に向かわれたと聞いている」
「父さんと母さんが?」
「ああ。だからリオンは先に屋敷へ戻りなさい。屋敷の者たちと一緒にいるんだ」
リオンは少し寂しそうにした。
ガイルは木剣を肩に担ぎ、リオンの頭を軽く撫でる。
「先に帰ってろ。あとで俺が今日の続きを教えてやるよ」
「本当?」
「ああ。兄貴が直々に教えてやる」
リオンの顔がぱっと明るくなった。
「じゃあ、先に帰ってる!」
「寄り道するなよ!」
「しない!」
リオンは元気よく手を振り、兵学校を出ていった。
ガイルはその背中を見送り、また訓練へ戻った。
――
―
しばらくして、遠くで鐘が鳴った。
一つではなかった。
別の方角からも、また別の方角からも、警鐘が響いてくる。
教官たちの表情が変わった。
「黒いグラセルが出たらしい」
誰かが小さく言った。
「こっちにも?」
「いや、ザルガ炉の方だって」
「監視塔にも出たらしいぞ」
生徒たちの間に、不安が広がっていく。
教官が声を張った。
「全員、今日はここまでだ。すぐに帰れ。寄り道をするな。必ず複数人で帰ること」
いつもの解散とは違った。
声の奥に、焦りがあった。
ガイルとゼクトは顔を見合わせる。
「変だな」
「うん」
二人は急いで兵学校を出た。
帰り道、街はざわついていた。
遠くで黒い煙が上がっている。
騎士たちが走り、人々が建物の中へ逃げ込んでいる。
「黒いグラセルが暴れてるぞ!」
「騎士団はそっちに向かった!」
「別の場所にも出たって!」
そんな声が、あちこちから聞こえていた。
ガイルは足を止めかける。
「黒いグラセル……」
ゼクトが低く言う。
「ガイル、今は帰ろう。子どもだけで近づくべきじゃない」
「わかってる」
そう答えた瞬間だった。
ゼクトの顔が強ばった。
「ガイル……あれ」
ガイルは、ゼクトの視線の先を見た。
遠く。
バーンロート家の方角。
そこから、黒い煙が上がっていた。
一瞬、何を見ているのかわからなかった。
「……え?」
次の瞬間、ガイルは走り出していた。
「ガイル!」
ゼクトの声が後ろから聞こえる。
だが、止まれなかった。
父。
母。
リオン。
屋敷。
昨日見たルパーティア。
全部が頭の中でぐちゃぐちゃに混ざる。
「リオン……!」
ガイルは雪混じりの道を、全力で駆け抜けた。
バーンロート家の屋敷は、燃えていた。
昨日まで堂々と立っていた門は壊れ、庭には火の粉が舞っている。
窓から黒い煙が噴き出し、屋敷の奥からは木が焼ける嫌な音が聞こえていた。
「嘘だろ……」
ガイルは門の前で立ち尽くした。
いつもなら、扉を開ければ執事が迎えてくれた。
リオンが食卓へ走っていき、誰かが笑っていた。
今は違う。
声がない。
炎の音。
煙の匂い。
割れた硝子。
倒れた家具。
そして、動かない人影。
「ガイル、待て!」
ゼクトが追いつき、腕を掴む。
だが、ガイルは振り払った。
「リオンが中にいる!」
「危ない!」
「リオンがいるんだよ!」
ガイルは叫び、屋敷の中へ飛び込んだ。
熱が顔を叩いた。
息を吸った瞬間、喉が焼けるように痛んだ。
煙で目が開けられない。
床には割れた硝子と崩れた木片が散らばっている。
「リオン!」
返事はない。
「父さん!」
返事はない。
「母さん!」
やはり、返事はなかった。
足元に誰かが倒れていた。
いつも笑顔で迎えてくれた使用人だった。
ガイルは息を呑んだ。
近づこうとした。
けれど、足が止まる。
手が震えた。
名前を呼ぼうとして、声が出なかった。
怖かった。
死んでいるのかもしれない。
そう思った瞬間、体が冷たくなった。
「動けよ……」
自分に向かって呟く。
「何してんだよ……動けよ……!」
昨日、父に言った。
誰でも守れる騎士になりたいと。
なのに、目の前で倒れている人にすら近づけない。
ガイルは、初めて自分の弱さを見た。
それでも、リオンの名だけが胸を押した。
「リオン……!」
ガイルは歯を食いしばり、煙の中を進んだ。
書斎へ。
昨日、父がルパーティアを見せてくれた場所へ。
そこへ行かなければならない気がした。
書斎の扉は壊れていた。
中は荒らされていた。
本棚はずらされ、隠し場所は開かれている。
鍵のかかった箱は砕かれていた。
中は、空だった。
ルパーティアは、なかった。
ガイルの頭の中で、父の声が響く。
――これは、私たちバーンロート家の守るべきものだ。
守るべきもの。
守れなかったもの。
「そんな……」
その時、部屋の奥に人影が見えた。
深紅の髪。
深紅の瞳。
黒い衣装。
獣のように鋭い歯。
女は、手の中で淡く輝く硝石晶を弄ぶように眺めていた。
昨日、父が見せてくれた光。
ルパーティアだった。
その隣には、黒い猛獣のようなグラセルがいた。
四足歩行の大きな体。
鋭い牙。
音もなく床を踏みしめるしなやかな脚。
女はそのグラセルの頭を軽く撫でる。
「おとなしくしていなさい、グラウベイン」
黒い猛獣型グラセル――グラウベインは、低く喉を鳴らした。
ガイルは動けなかった。
その時、視界の端に小さな影が映る。
床に倒れている、見慣れた服。
小さな手。
昼間、嬉しそうに振り回していた棒切れ。
「……リオン?」
声が、震えた。
リオンは動かなかった。
棒切れを握ったまま、床に倒れていた。
まるで、最後まで何かを守ろうとしたように。
ガイルの中で、何かが弾けた。
「リオン……」
膝が震える。
喉が焼ける。
涙なのか、煙なのか、視界が滲む。
女はガイルをちらりと見た。
「あら、子ども?」
その声には、驚きも焦りもなかった。
ただ、邪魔なものを見つけたような軽さだけがあった。
「返せ……」
ガイルの声は小さかった。
女は首を傾げる。
「何を?」
「それを……」
ガイルは震える手で、女の持つルパーティアを指す。
「父さんが……バーンロート家が守るものだって……」
女はくすりと笑った。
「なら、守れなかったのね」
その言葉が、ガイルの胸を引き裂いた。
怒りが恐怖を押しのける。
ガイルは左手を突き出した。
床に散らばった硝石晶の破片へ、必死に意識を向ける。
「メルド!」
光が乱れた。
いつもの訓練で見せるような、整ったものではなかった。
焦り、怒り、恐怖、悲しみ。
ぐちゃぐちゃになった心が、そのまま硝石晶に流れ込む。
床に散らばった破片が、ぎこちなく集まり始めた。
形は歪だった。
刃は曲がり、柄も不安定。
子どもの手には重く、剣と呼ぶにはあまりに粗い。
それでも、ガイルはそれを掴んだ。
「うああああああっ!」
叫びながら、女へ斬りかかる。
女は避けようともしなかった。
深紅の瞳が、ただ退屈そうにガイルを見る。
「グラウベイン」
その一言だけで、黒い猛獣が動いた。
ガイルの剣が届くより早く、グラウベインの前脚が彼の体を弾き飛ばした。
「がっ……!」
息が詰まる。
ガイルの体は床に叩きつけられ、拙い剣は手から離れて転がった。
痛い。
息ができない。
それでも、ガイルは起き上がろうとした。
「返せ……」
手を伸ばす。
「リオンを……」
何を言っているのか、自分でもわからなかった。
ルパーティアを返してほしかった。
リオンを返してほしかった。
昨日までの家を返してほしかった。
けれど、どれも届かなかった。
グラウベインがゆっくりとガイルの上に乗る。
重い前脚が、ガイルの胸を押さえつけた。
「ぐ……っ」
動けない。
押し潰される。
黒い牙が、目の前に近づく。
ガイルは必死に腕を動かそうとした。
だが、体が言うことを聞かなかった。
自分は、弱い。
その言葉が、頭の中に落ちた。
守ると言った。
強くなると言った。
誰でも守れる騎士になると言った。
でも、目の前の弟も。
父が守れと言ったルパーティアも。
自分自身さえ。
何ひとつ、守れなかった。
グラウベインの牙が迫る。
その瞬間。
「バルド!」
低く響く声が、炎の中を裂いた。
次の瞬間、重い衝撃音が響き、グラウベインの体が横へ弾かれた。
ガイルの胸から重みが消える。
視界の先に、父がいた。
グレン=バーンロート。
その隣には、重厚な鎧獣型のグラセル、バルドが立っていた。
傷つき、煤にまみれながらも、その姿は揺るがない。
「父……さん……」
グレンは一瞬だけガイルを見た。
その目に怒りはなかった。
ただ、強い覚悟があった。
「下がっていろ、ガイル」
さらに、別の声が響く。
「フレイア!」
炎の揺らぎの中から、母エルザが現れた。
その傍らには、赤い鳥のような優美なグラセル、フレイアが羽を広げている。
フレイアの放つ熱風が煙を押し流し、エルザはすぐにリオンの方へ駆け寄った。
「リオン……!」
エルザの声が震える。
だが、次の瞬間には表情を引き締めた。
「グレン!」
「ああ!」
グレンとエルザの動きは、迷いがなかった。
バルドが前へ出る。
その重い体でグラウベインの突進を受け止める。
グラウベインの牙がバルドの装甲を削る。
だが、バルドは一歩も退かない。
その隙に、フレイアが天井近くへ舞い上がる。
赤い羽から放たれた熱風が、ヴェルナの足元の炎を巻き上げた。
女は、わずかに目を細める。
「へぇ」
初めて、余裕以外の表情を見せた。
グレンが踏み込む。
バルドがグラウベインを押し返し、エルザがフレイアの風で煙を裂く。
その一瞬、女の手元がわずかに開いた。
グレンはその隙を逃さなかった。
鋭く踏み込み、女の手からルパーティアを弾き飛ばす。
宙を舞った光を、フレイアが羽先で受け止めた。
エルザがそれを抱きとめる。
「確保した!」
グレンは短く頷く。
女は、手元から消えたルパーティアを見て、ほんの少しだけ口元を歪めた。
「……やるじゃない」
グラウベインが低く唸る。
グレンはバルドを前に出し、エルザはルパーティアを抱えたままフレイアを構えさせる。
女はその様子を見て、退屈そうに息を吐いた。
「今日は引くわ」
ガイルは床に倒れたまま、必死に顔を上げる。
女は、炎の赤を背にして振り返った。
深紅の髪が揺れる。
「覚えておきなさい」
その声は、甘く、冷たかった。
「私はヴェルナ=ロウガルド」
ガイルは、その名を聞いた。
聞き逃せるはずがなかった。
「そのルパーティアは、またいつか奪いに来るわ」
ヴェルナの視線は、ガイルではなく、ルパーティアを抱えるエルザと、それを守るグレンに向いていた。
「その時まで、せいぜい大事に抱えていなさい」
グラウベインが、ヴェルナの足元で低く身を沈める。
「行くわよ、グラウベイン」
黒い猛獣は、音もなく身を翻した。
ガイルは起き上がろうとした。
「待て……」
声にならない声が漏れる。
追いたい。
あの女を止めたい。
でも、体が動かない。
ただ床に這いつくばり、遠ざかる背中を見ることしかできなかった。
ヴェルナ=ロウガルド。
その名だけが、炎の音よりもはっきりと、ガイルの耳に残った。
ヴェルナとグラウベインは、炎と煙の向こうへ消えていった。
書斎に残ったのは、焼ける音と、荒い呼吸だけだった。
ガイルは、震える手で床に転がった拙い剣を見た。
自分が作った剣。
歪で、脆く、何にも届かなかった剣。
「俺……」
声が震える。
「何も……できなかった……」
父が助けに来た。
母がルパーティアを取り返した。
バルドとフレイアが敵を退けた。
けれど、自分は違う。
自分は怒りに任せて飛び出し、すぐに倒された。
守るどころか、守られた。
リオンを助けることもできなかった。
ガイルは、倒れた弟の方を見た。
「リオン……」
その名を呼んでも、返事はなかった。
炎の音だけが、答えるように揺れていた。
その日、ガイルは知った。
強くなりたいと願うだけでは、大切なものを守れないことを。
そして、弱いまま立ち向かうだけでは、何も届かないことを。




