第七章 忘れられた憎しみ
ミラフィス工房街。
クラリスの窓を出たセイラ=アルヴェインは、足を止めることなく石畳の道を進んでいた。
白銀の鎧が小さく鳴る。
その歩調は速く、迷いがない。
先ほどオスヴァルトから聞いた言葉が、頭の中で何度も響いていた。
十五歳。
グラス・レーヴ前。
失踪者たちの共通点。
なぜ気づけなかった。
なぜ、そこを見落としていた。
悔しさを噛み殺しながらも、セイラはすでに次の行動へ意識を切り替えていた。
「ファルケン副隊長」
セイラが鋭く呼ぶ。
隣を歩いていたリオル=ファルケンが、すぐに姿勢を正した。
「はっ」
「今すぐ、グランシエル騎士団を動かす。ソルメルリア全域の十五歳の若者を確認しろ」
リオルの表情が引き締まる。
「十五歳全員、ですか」
「ああ。特に、まだグラス・レーヴを終えていない者を優先する」
セイラは歩きながら続けた。
「名簿、工房、教会、学校、港、商家。確認できる場所はすべて当たれ。保護が必要な者がいれば、すぐに安全な場所へ移す」
「承知しました」
リオルは即座に頷く。
「騎士団本部へ戻り次第、各小隊へ指示を出します」
「頼む」
セイラは次に、後方を歩く女性騎士へ視線を向けた。
「ミュゼ」
「はい〜」
柔らかい声で返事をしたのは、ミュゼ=カルミアだった。
人当たりのよさそうな雰囲気を持つ騎士で、前線の戦闘よりも治癒や連絡、調査補助を得意としている。
穏やかな顔つきではあるが、セイラの言葉を聞く目は真剣だった。
「この件を、すぐにガレス様とクラウス様へ報告しろ」
「承知しました〜」
ミュゼは軽く頷く。
「失踪者の共通点が、十五歳かつグラス・レーヴ前である可能性が高いこと。騎士団がソルメルリア全域で対象者の確認と保護に入ること。この二点ですね」
「そうだ」
「必要であれば、信仰省や各地区の管理者にも連絡を回します」
「任せる」
「はい〜。急ぎますね」
ミュゼは穏やかな口調のまま、すぐに別方向へ駆け出した。
その背中を見送りながら、リオルが低く言う。
「団長。もし犯人が本当にグラス・レーヴ前の若者を狙っているなら……」
「ああ」
セイラは前を見据えたまま答える。
「次の被害者は、今この瞬間にも狙われているかもしれない」
風が、ミラフィス工房街の硝子飾りを揺らした。
朝の光を受けて輝く街並みは美しい。
けれど、セイラの目には、その明るさの奥に潜む見えない影がはっきりと見えていた。
「急ぐぞ」
「はっ!」
セイラたちは、グランシエル騎士団本部へ向けて駆け出した。
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夕暮れの道を、リュドとネリィは並んで歩いていた。
ミラフィス工房街のガラス細工は、沈みかけた陽を受けて橙色に輝いている。
昼間の賑わいは少しずつ落ち着き、港の方からは遠く鐘の音が聞こえていた。
「あー、疲れたー……」
リュドは大きく息を吐きながら、肩を落とした。
朝からの特訓で、足は重く、腕もまだじんじんと痛む。
ドランに何度も追いかけ回され、盾ごと吹き飛ばされた体は、すっかり限界に近かった。
ネリィは心配そうにリュドを見る。
けれど、すぐにやわらかい声で言った。
「お疲れ様。頑張ったね」
その言葉に、リュドは少しだけ顔を上げた。
「ありがとう」
疲れていたはずなのに、不思議と胸が軽くなる。
「明日も頑張るよ」
「無茶しないでね」
「ああ」
リュドは苦笑しながら頷く。
そして、ふと思い出したようにネリィを見る。
「ネリィは? 今日はどうだった?」
ネリィは少しだけ周囲を見回した。
人通りが少ないことを確認すると、仮面をほんの少しだけ外した。
リュドにだけ見えるように。
その下にあったのは、満面の笑みだった。
「すっごく楽しかった!」
その声は、夕暮れの光よりも明るかった。
リュドは思わず笑う。
「良かった」
ネリィは大事そうに、胸元の星型アクセサリーに触れた。
「街も、人も、音も、匂いも……全部初めてで、全部綺麗だった」
「そっか」
「リュドの見ている世界を、少しだけ見られた気がする」
その言葉に、リュドの胸が温かくなる。
二人はしばらく、静かに歩いた。
会話は少なかった。
けれど、その沈黙は気まずいものではなかった。
隣に誰かがいる。
ただそれだけで、どこか安心できるような、穏やかな時間だった。
その時だった。
「……っ」
ネリィが急に足を止めた。
胸元を押さえ、わずかに体を折る。
「ネリィ?」
リュドはすぐに振り返った。
ネリィの指が、左胸のあたりを強く押さえている。
「苦しい……」
「どうしたんだ?」
リュドは慌ててネリィのそばに寄る。
「外殻が合わないのか? どこか痛い?」
「違う……」
ネリィは苦しげに首を振る。
「何か……近くにいる」
「何か?」
ネリィはゆっくりと顔を上げた。
その視線の先に、ひとりの少年が立っていた。
リュドよりも小柄な、黒髪の少年。
顔には仮面をつけている。
年齢は、リュドよりも若く見えた。
その横には、大きな黒い蜘蛛型のグラセルがいる。
長い脚。
黒く濁った硝子の身体。
周囲にまとわりつくような、重く暗い気配。
だが、ネリィが見ていたのは、その蜘蛛型のグラセルではなかった。
彼女の視線は、少年から離れない。
「……あの子……」
ネリィは胸を押さえたまま、苦しげに呟く。
「あの子を見ると……胸の奥が、ぐちゃぐちゃになる……」
リュドは少年を見る。
一目で危険だとわかった。
黒い蜘蛛型のグラセルも不気味だった。
けれど、それ以上に、目の前の少年の周囲には異様な気配がまとわりついていた。
赫灰とは少し違う。
けれど、あの授業で感じた嫌な感覚に似ている。
心の奥をざらつかせるような、触れてはいけない何か。
リュドは無意識に一歩下がった。
少年が、こちらに気づいた。
「ん?」
首を傾げる。
「ああ、人か」
まるで道端の石に気づいたような、軽い声だった。
少年は隣のグラセルへ顔を向ける。
「こういう時、なんて言うんだっけ。アラクネア」
アラクネアと呼ばれたグラセルは、何も答えなかった。
ただ、静かにその場へ佇んでいる。
それだけで、周囲の空気が沈んでいくようだった。
少年はしばらく黙っていたが、やがて一人で納得したように頷いた。
「ああ、そうか。うん、なるほど」
そして、リュドたちを見る。
「君たち、歳いくつ?」
あまりにも唐突な質問だった。
リュドはすぐにネリィへ低く言う。
「後ろに下がって」
ネリィは胸を押さえたまま、小さく頷く。
少年は不思議そうに首を傾げた。
「ねぇ、歳を聞いてるだけでしょ?」
リュドは少年から目を逸らさずに答える。
「十八だ」
「……うん。十八歳か」
少年は一歩踏み出した。
そう思った瞬間には、すでにリュドの目の前にいた。
「……!」
リュドは反応できなかった。
少年は仮面越しに、リュドの目をじっと覗き込んでいる。
近すぎる。
息が詰まるほどの距離だった。
「嘘はついてないね」
少年はそう言って、にこりともせずに離れた。
リュドの背中に冷たい汗が流れる。
動きが速い。
速すぎる。
次に、少年の視線がネリィへ向いた。
「そっちの子は?」
ネリィは胸を押さえたまま、苦しそうに呼吸している。
リュドはすぐにネリィの前へ立った。
「その子は記憶がないんだ。だから年齢はわからない!」
少年は何も言わず、リュドを見ている。
ほんの数秒。
けれど、リュドには長く感じられた。
やがて、少年は小さく笑った。
「……正直だね、君」
その声は、少しだけ楽しそうだった。
「気に入ったよ」
リュドは警戒を解かない。
少年は、自分の胸に手を当てるような仕草をした。
「僕はノア」
そして、ゆっくりと名乗る。
「ノア=ヴェルミリオ」
リュドはその名を心に刻む。
ノアは首を傾げた。
「君は?」
嘘は通じない。
リュドはそう直感していた。
だから、正直に答えた。
「リュド=グラスフェルド」
その名を聞いた瞬間、ノアの仮面の奥で、何かがわずかに動いた気がした。
「リュド」
ノアは名前を確かめるように繰り返す。
「そして、グラスフェルドか」
その声には、先ほどとは違う響きがあった。
興味。
あるいは、何かを思い出したような反応。
リュドは一歩も動けなかった。
ノアは、ふっと視線を逸らす。
「今日はもう帰らなきゃ」
まるで、ただの用事を思い出しただけのように言った。
「またどこかで会おうね。リュド」
「待て、お前は――」
リュドが言いかけた瞬間、ノアはアラクネアの背に軽やかに乗った。
黒い蜘蛛型グラセルの脚が、影のように地面を走る。
次の瞬間には、ノアとアラクネアの姿は夕暮れの街角へ消えていた。
残された空気だけが、重く冷たい。
リュドはしばらくその場から動けなかった。
やがて、はっとしてネリィへ振り返る。
「ネリィ、大丈夫?」
ネリィは胸を押さえたまま、ゆっくりと頷いた。
「う、うん……」
けれど、その声はまだ震えていた。
「何故か……あの子を見た瞬間、胸の奥がぐちゃぐちゃにされたみたいだった」
「あいつを……?」
ネリィは小さく頷く。
「黒いグラセルも怖かった。でも、それとは違うの」
ネリィは自分の左胸を見下ろす。
「あの子の中に、何かがある気がした。見えないのに、近づいただけで胸の中が乱されるような……そんな感じ」
リュドは、ノアたちが消えた方角を見る。
ノア=ヴェルミリオ。
黒い蜘蛛型グラセル、アラクネア。
そして、ネリィの異変。
ただの偶然ではない。
リュドは無意識に拳を握った。
「帰ろう、ネリィ」
「うん……」
リュドはネリィの歩幅に合わせて、ゆっくり歩き出した。
夕暮れの光はまだ街を照らしている。
けれど、さっきまで温かかった帰り道には、もう別の冷たさが残っていた。
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ソフィアとガイルは、途中まで同じ道を歩いていた。
夕暮れの光が石畳を赤く染め、ミラフィス工房街のガラス細工が淡く輝いている。
ドランはガイルの横を、アルシェルはソフィアの傍らを静かに進んでいた。
「いやぁ、疲れたなー」
ガイルが大きく伸びをしながら言った。
ソフィアは横目で見る。
「あなた、ほとんど体を動かしてないじゃない」
「何言ってんだ。俺は頭を巡らせてたんだよ」
ガイルは当然のように胸を張る。
すると、隣を歩いていたドランが低く言った。
「考える頭があったんだな」
「この野郎」
ガイルはドランの横腹に拳を入れた。
ごん、と鈍い音がする。
だが、ドランはびくともしなかった。
「痛いか?」
「俺の拳がな!」
ガイルが手を振ると、ソフィアは小さく笑った。
「相変わらずね」
少し歩いたところで、ソフィアがふと思い出したように言う。
「そういえば、ネリィって……リュドとどんな関係なんだろうね」
ガイルはすぐににやけた顔になる。
「お? 気になるのか?」
「その顔やめて」
「ドロドロする予感か?」
「馬鹿言わないで」
ソフィアは少しだけ呆れたように息を吐いた。
「とてもいい子だと思うわ。それに、リュドのことを大事に思っているのは伝わった」
ネリィがリュドを心配そうに見ていたこと。
リュドのメルドを見て、心から綺麗だと言ったこと。
リュドが吹き飛ばされた時、本気で慌てていたこと。
そのどれもが、ただの知り合いには見えなかった。
「ただね」
ソフィアは少しだけ真面目な顔になる。
「あんなに仲が良さそうなのに、リュドはネリィについて何も話さないのよ」
ガイルは少しだけ笑みを引っ込めた。
「まあ、それはそうかもしれないな」
「気にならないの?」
「気にならないって言ったら嘘になるけどな」
ガイルは後頭部をかく。
「でも、俺は別に聞き出そうとは思わねぇよ」
ソフィアはガイルを見る。
「どうして?」
「話せない理由があるんだろ」
ガイルはあっさりと言った。
「リュドが隠し事をする時って、だいたい誰かを守ろうとしてる時だ。自分のためだけに黙るやつじゃねぇ」
ソフィアは少し驚いたように目を細める。
ガイルは続ける。
「だから、リュドが話したくなるまで俺は待つぜ」
その声には、迷いがなかった。
からかいも、軽さもない。
ただ、友人を信じている声だった。
ソフィアはしばらく黙ったあと、ふっと微笑んだ。
「ほんと、仲良しね」
「当たり前だろ」
ガイルはにっと笑う。
「あいつは俺の親友だからな」
ドランが横で静かに言った。
「その親友に、まだお前も話していないことがあるがな」
ガイルの笑顔が少しだけ固まった。
ソフィアはそれに気づいたが、何も言わなかった。
ガイルは空を見上げる。
夕暮れの赤が、少しずつ藍色へ変わり始めている。
「……俺も、そのうちな」
小さく呟いたその声は、風に紛れるほど静かだった。
ソフィアは何も聞き返さなかった。
その時だった。
「こんばんは」
背後から、艶のある女の声が聞こえた。
たった一言。
それだけで、ガイル、ソフィア、ドラン、アルシェルの空気が変わった。
背筋が凍る。
肌の奥を、冷たい針で撫でられたような感覚。
これは、知っている。
あの禁忌と論理講学の授業で見た赫灰。
あの赤黒い硝石晶が放っていた、心をざらつかせる嫌な気配。
けれど、今感じるものは、それ以上だった。
もっと濃く、もっと生々しい。
まるで、憎悪と血をそのまま硝子に閉じ込めたような気配。
女は、ゆっくりと言葉を続けた。
「少し、聞きたいことがあるんだけど」
ガイルの表情が、一瞬で険しくなる。
「ドラン! 構えろ!」
「アルシェル!」
ソフィアも即座に声を上げた。
ドランはガイルの前に出て、大きな角を低く構える。
アルシェルもソフィアを守るように横へ立ち、静かに地面を踏みしめた。
二人は振り向いた。
そこに立っていたのは、一人の女だった。
深紅の髪。
同じく深紅の瞳。
黒を基調とした艶やかな衣装。
口元には、余裕を含んだ薄い笑みが浮かんでいる。
その唇の奥に見えた歯は、獣のように鋭く、ぎざぎざとしていた。
ヴァスレインの者に見られる特徴。
けれど、彼女から漂う空気は、ただのヴァスレイン人のものではなかった。
隣には、黒い猛獣のような大型のグラセルがいた。
四足歩行。
鋭い牙。
獲物を前にした獣のように低く身を沈め、赤黒い光を宿した目でこちらを見ている。
女は、戦闘態勢を取ったガイルたちを見て、くすりと笑った。
「あら。何も聞かずに戦闘態勢だなんて、失礼な子たちね」
その声は甘い。
けれど、そこには明らかな悪意が混じっていた。
ソフィアは息を呑む。
「誰……?」
アルシェルが低く言った。
「危険です。下がってください、ソフィア」
ドランも、いつもの軽口を言わなかった。
ただ無言で、ガイルの前に立っている。
だが、ガイルだけは違った。
彼は女を見た瞬間、顔から血の気が引いていた。
「お……お前……」
声が震えている。
怒りではない。
いや、怒りもある。
けれど、それ以上に、恐怖と記憶がガイルの身体を縛りつけていた。
女は、ガイルの反応を見て少しだけ首を傾げた。
「あら?」
深紅の瞳が、ガイルを眺める。
「どこかで会ったかしら」
その声に、ガイルの呼吸が止まりそうになった。
覚えていない。
この女は、自分を覚えていない。
ガイルの脳裏に、十年前の光景が一瞬で蘇る。
炎。
悲鳴。
壊れた家。
血の匂い。
そして、自分の前で倒れた、小さな弟の姿。
ソフィアはガイルの異変に気づき、緊張した声で尋ねた。
「ガイル? 知ってるの、あの女」
ガイルは、女から目を逸らせなかった。
拳を握ろうとしている。
けれど、その手は震えていた。
「……知ってるもなにも」
その声には、いつもの豪快さがなかった。
力が抜け、怒鳴ることさえできないほど、深く抉られた声だった。
「十年前……」
ガイルは歯を食いしばる。
「俺の弟を殺した女だ」
ソフィアの表情が凍りついた。
「……え?」
女は、その言葉を聞いても、すぐには思い出せないようだった。
「弟?」
深紅の髪を指で払う。
「ふふ。ごめんなさいね。そういうこと、たくさんありすぎて」
その言葉に、ガイルの瞳が揺れた。
ドランの角が、さらに低く構えられる。
アルシェルも、ソフィアを守るように一歩前へ出た。
女は、まだ楽しげに微笑んでいる。
深紅の瞳が、ようやくガイルを少しだけ面白そうに見た。
「ふうん」
女は、甘く笑う。
「あなた、私を恨んでいるのね」
ガイルは答えられなかった。
怒りも、恐怖も、憎しみも、全部が喉の奥で絡まっていた。
目の前にいるのは、過去の悪夢そのものだった。
けれど、その悪夢は、ガイルのことなど覚えてすらいなかった。




