第六章 君に見せたい世界
日が沈むころ。
リュドは、ようやくクラリスの窓へ戻ってきた。
足取りは重く、肩は落ち、服のあちこちには土や草の汚れがついている。
朝から夕方まで、ガイルとドランに徹底的にしごかれたせいで、体中が鉛のように重かった。
「つ、疲れた……」
玄関の扉を開ける。
「ただい……っま!」
言い終わる前に、何かが勢いよく飛び込んできた。
「うわっ」
リュドは思わずよろける。
胸元にぶつかってきたのは、ネリィだった。
硝子の身体なのに、その動きは思ったよりも軽やかで、けれど勢いはしっかりあった。
「ね、ネリィ? どうしたの?」
リュドが驚いて見下ろすと、ネリィは少し頬を膨らませていた。
「……遅い」
「え?」
「早く帰るって言ったでしょ」
その声には、怒りよりも、待ちくたびれた寂しさが混じっていた。
リュドは苦笑する。
「あはは……ごめん。特訓が思ったより長引いて」
ネリィはリュドの服を見た。
袖には土がつき、膝には草の跡。
肩のあたりにも、細かな擦り傷のような汚れがある。
その表情が、ふっと心配そうに変わった。
「……怪我したの?」
「大丈夫。ちょっと転んだだけ」
「ちょっと、に見えないわ」
ネリィは眉を下げる。
けれど、すぐに安心させるように小さく微笑んだ。
「でも……」
彼女は少しだけ背伸びするようにして、リュドを見上げる。
「おかえりなさい」
その一言に、リュドの胸が少しだけ温かくなった。
昨日まで、地下室に眠っていた少女。
何もわからないまま目を覚ましたグラセル。
そのネリィが、今は自分を待っていてくれた。
リュドは疲れた顔のまま、柔らかく笑う。
「ただいま、ネリィ」
ネリィは少しだけ安心したように頷いた。
けれど、すぐにまた表情を曇らせる。
「ねぇ、リュド」
「うん?」
「私、これからどうしたらいいのかな」
その声は、とても静かだった。
リュドは、玄関先で靴を脱ぎながら動きを止める。
ネリィは自分の硝子の手を見つめていた。
「今日、ずっと考えていたの」
「……何を?」
「私はどこで生まれたのか。誰のグラセルなのか。どうして地下室にいたのか。どうして記憶がないのか」
リュドは何も言わず、ネリィの言葉を聞いていた。
「考えても、何もわからなかった」
ネリィは困ったように微笑む。
「私、自分のことなのに、自分のことがわからないの」
その言葉に、リュドの胸が少し痛んだ。
昨日まで眠っていたネリィ。
目を覚まして、初めて見た世界。
知らない家。
知らない人。
知らない時代。
不安にならないはずがない。
リュドは、ゆっくりと答えた。
「ここにいていいよ」
ネリィが顔を上げる。
「……いいの?」
「うん」
リュドは頷いた。
「目覚めて混乱してるだろうし、君を目覚めさせたのは俺だから。俺にも責任はある」
「責任……」
「もちろん、それだけじゃないよ」
リュドは少し照れたように笑う。
「君を放っておけないんだ」
ネリィの左胸の光が、ほんのわずかに揺れた。
けれど、ネリィはすぐには喜ばなかった。
「私ね」
彼女は静かに言った。
「リュドの見ている世界を、見たい」
リュドは少し驚いて、ネリィを見る。
「俺の見ている世界?」
「うん」
ネリィは窓の外へ視線を向けた。
夕暮れの光が、ガラス細工の並ぶ店内に淡く差し込んでいる。
「リュドが今日、どこへ行って、何を見て、誰と話して、何を頑張っていたのか。そういうものを、私も見てみたい」
その声には、強い願いがあった。
けれどすぐに、ネリィは自分の胸に手を当てる。
「でも、そんなわがままを言えないのもわかってる」
「ネリィ……」
「この身体は、ルパーティアなんでしょう?」
リュドは黙った。
ネリィは続ける。
「この身体を狙う人がいるなら、私が外に出ることで、リュドやポポ、オスヴァルトさんを危険な目に遭わせてしまうかもしれない」
ネリィの声が少し震えた。
「私、まだ何も知らない。何もできない。なのに、みんなに迷惑だけかけるのは嫌」
リュドは、ネリィの前にしゃがんだ。
目線を合わせる。
「迷惑なんかじゃないよ」
「でも……」
「危ないのは確かだと思う。君がルパーティアでできているって知られたら、きっと狙う人はいる」
リュドはそう言って、自分の左手を見た。
古びたメルドグローブ。
今日一日、何度も盾を作り、足場を作り、ドランの突進から逃げるために使った手。
ふと、リュドの中にひとつの考えが浮かんだ。
「……待って」
ネリィが顔を上げる。
「どうしたの?」
「君の身体がルパーティアだって分からなければいいんだ」
「え?」
リュドはネリィの腕を見る。
淡く美しい輝き。
普通の硝石晶とは違う、奥からにじむような光。
それは確かに目立つ。
見る人が見れば、ただのグラセルではないと気づくかもしれない。
でも。
「俺のメルドで、外側を薄く覆えば……普通の硝石晶みたいに見せられるかもしれない」
ネリィは目を瞬かせた。
「覆う?」
「うん。君の身体そのものを変えるんじゃない。ルパーティアには直接手を加えない。ただ、外側に薄い硝石晶の膜を作るんだ」
リュドは考えながら言葉にしていく。
「色味を少し落として、光の反射も普通のグラセルに近づける。補修した部分と同じように、自然に見えるようにすれば……」
ネリィは不安そうに自分の胸に手を当てた。
「それで、外に出られるの?」
「絶対安全とは言えない」
リュドは正直に答えた。
「でも、そのまま外に出るよりはずっといいと思う」
ネリィは黙った。
嬉しさと不安が、硝子の瞳の奥で揺れている。
「でも、リュド。そんなことをして、あなたは大丈夫なの?」
「大丈夫」
リュドは少し笑った。
「今日、散々メルドを使わされたからね。少しは応用できるようになった気がする」
「無茶はしないで」
「うん。無茶はしない」
リュドはそう言って、立ち上がった。
「今日はもう遅いし、俺もへとへとだから、ちゃんと考えてからやる」
ネリィはリュドを見上げる。
「じゃあ……」
「明日」
リュドは優しく言った。
「明日、一緒に行こう」
ネリィの瞳が、淡く揺れた。
「一緒に……?」
「うん。ガイルたちとの特訓に連れていけるかは、じいちゃんに相談しないといけないけど」
リュドは少し考えてから、笑う。
「まずは、俺の見ている世界を少しずつ見せるよ。クラリスの窓の外。ミラフィス工房街。海の光。レイナード港。アカデミーへ続く道」
ネリィは言葉を失ったようにリュドを見つめた。
そして、小さく呟く。
「……見たい」
その声は、さっきよりもずっと素直だった。
「私、見てみたい」
リュドは頷いた。
「じゃあ、決まりだ」
ネリィの左胸の光が、ほんの少しだけ明るくなった。
「ありがとう、リュド」
「どういたしまして」
リュドは笑った。
「でも、まずはじいちゃんに怒られないように相談しないとね」
ネリィは少しだけ不思議そうに首を傾げる。
「オスヴァルトさん、怒る?」
「たぶん、すごく静かに怒る」
「静かに怒るの?」
「うん。あれは結構怖い」
リュドがそう言うと、ネリィは初めて小さく笑った。
その笑みを見て、リュドは少しだけ安心した。
明日。
ネリィに、自分の見ている世界を見せる。
それは小さな約束だった。
けれど、リュドにとっても、ネリィにとっても、初めて一緒に外へ向かう大切な一歩になる気がした。
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--
-
翌朝。
クラリスの窓の食卓には、昨日とは違う緊張が漂っていた。
リュドは、昨夜考えたことをオスヴァルトに話した。
ネリィを外へ連れていきたいこと。
そのために、自分のメルドでネリィの身体の外側を薄く覆い、ルパーティアだとわからないようにすること。
危険は理解しているが、それでも閉じ込めたままにはしたくないこと。
すべて話し終えたあと、オスヴァルトは短く言った。
「駄目だ」
その声は静かだった。
けれど、取りつく島もないほどはっきりしていた。
リュドは食い下がる。
「危険なのはわかってる。だから、俺のメルドで外殻を作るんだ」
「何度も言わせるな」
オスヴァルトはリュドを見た。
「駄目だ」
その言葉に、ネリィの表情が少し曇る。
リュドは拳を握った。
「このまま、閉じ込めたままにするの?」
「ああ。そうだ」
迷いのない返事だった。
ネリィは俯いた。
その姿を見た瞬間、リュドの胸の奥で何かが弾けた。
「それは、俺が死んだあとも?」
オスヴァルトの眉がわずかに動く。
「リュド」
「いつまで閉じ込めるつもりなんだよ!」
リュドの声が、食卓に響いた。
「ずっと地下で一人で眠っていたんだ。心があるグラセルなのに、目が覚めてもまた牢獄みたいに閉じ込めるのかよ!」
ネリィが驚いたようにリュドを見る。
ポポも、何も言わずに二人を見つめていた。
オスヴァルトは低く言う。
「グラスフェルド家は、ルパーティアを守ることが使命だ」
「だったら、俺が守ればいいだろ!」
リュドは一歩も引かなかった。
「俺はまだ弱いかもしれない。グラセルもいない。でも、だからって何もできないわけじゃない」
オスヴァルトは黙っている。
リュドは、ネリィの方を一度見た。
「ネリィは、俺のグラセルじゃない」
その言葉に、ネリィの瞳が少し揺れる。
「でも、相棒のいないネリィに力になれるのは、同じように相棒のいない俺なんじゃないかって思ってる」
部屋の中が静まり返った。
リュドの言葉は、まっすぐだった。
理屈だけではない。
ただの勢いでもない。
ネリィを外へ連れ出したい。
世界を見せたい。
そして、守りたい。
その気持ちが、はっきりとそこにあった。
しばらく黙っていたポポが、ふと口を開いた。
「いいんじゃない? オスヴァルト」
オスヴァルトがポポを見る。
ポポは翼を小さく揺らしながら言った。
「この前、言ってたじゃない。リュドはもう子供ではないって」
「……」
「それに、ネリィをずっと閉じ込めておくのも違うと思うわ」
ポポはネリィを見た。
「この子、昨日からずっと外を気にしていたもの」
ネリィは少しだけ目を伏せる。
ポポはにやりと笑って、リュドへ視線を向けた。
「それに、リュドはネリィのことを責任持って守るってことでしょ?」
リュドは一瞬、言葉に詰まった。
「あ、ああ」
ポポは満足そうに頷く。
「なら、いいんじゃない?」
オスヴァルトは深く息を吐き、頭を抱えた。
「……お前たちは、本当に」
しばらく沈黙が続いた。
やがて、オスヴァルトは重い声で言った。
「わかった」
リュドの表情が明るくなる。
「じいちゃん……!」
「ただし」
オスヴァルトは鋭くリュドを見る。
「条件がある」
リュドはすぐに背筋を伸ばした。
「うん」
「まず、ネリィを守れ」
その声は厳しかった。
「何があっても、目を離すな。危険を感じたらすぐに帰ること」
「わかった」
「次に、ネリィと出かけるのは明るいうちだけだ。夕暮れ以降は駄目だ」
「うん」
「最後に、グラセルだとわからない形で連れていくこと」
オスヴァルトはそう言うと、席を立った。
奥の部屋へ向かい、しばらくして戻ってくる。
手にしていたのは、フード付きの茶色いローブと、一つの仮面だった。
「これを使え」
リュドは受け取った仮面を見つめる。
古びているが、丁寧に手入れされていた。
目元を隠すような独特な形。
装飾は控えめだが、どこか異国の雰囲気がある。
「これは?」
「ネルヴァルトに古くから伝わる仮面だ」
オスヴァルトはネリィを見る。
「ネリィ、君は人型だ。ローブで身体を隠し、この仮面をつければ、少なくとも遠目にはネルヴァルトの人間に見える」
ネリィは仮面をじっと見つめた。
「ネルヴァルトの……人間」
「そうだ」
オスヴァルトは続ける。
「ネルヴァルトには、古くから仮面を身につける風習がある。今では少なくなったが、珍しすぎるというほどでもない。リュドの友人ということにすればいい」
リュドはローブと仮面を見つめながら頷いた。
「わかった」
「そして、リュド」
オスヴァルトの声がさらに重くなる。
「お前のメルドで外殻を作ると言ったな」
「うん」
「絶対に、ルパーティアそのものを変えようとするな」
リュドは真剣に頷く。
「わかってる。外側だけを薄く覆う。ネリィの身体には無理な負担をかけない」
「少しでも異変があれば中止だ」
「うん」
オスヴァルトは、しばらくリュドを見つめた。
そして、静かに言った。
「お前が守ると言ったのだ。その言葉、軽く扱うな」
リュドはローブを抱えたまま、深く頷いた。
「絶対に守る」
ネリィはその横で、リュドとオスヴァルトを交互に見ていた。
外へ行ける。
リュドの見ている世界を、自分も見ることができる。
そのことが信じられないように、ネリィは胸元に手を当てた。
「……ありがとう」
小さな声だった。
オスヴァルトは目を逸らすように茶を手に取る。
「礼を言うのは、無事に帰ってきてからにしなさい」
ポポがくすりと笑う。
「ほらね、静かに怒るけど、ちゃんと優しいでしょ?」
「ポポ」
オスヴァルトが低く呼ぶ。
「はいはい」
ポポは楽しそうに翼を揺らした。
リュドはネリィを見る。
「じゃあ、準備しよう」
ネリィは小さく頷いた。
「うん」
窓から差し込む朝の光が、ローブと仮面を照らす。
その光の中で、ネリィの左胸が、ほんのわずかに明るく揺れた。
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-
「準備できた?」
リュドが振り返ると、茶色いローブをまとったネリィが、小さく頷いた。
フードを深めにかぶり、顔にはネルヴァルトの古い仮面。
硝子の身体は、リュドのメルドで薄い外殻に覆われ、以前よりも淡い輝きに抑えられている。
それでも、どこか不思議な雰囲気は残っていた。
「うん!」
仮面の奥から、弾むような声が返ってくる。
リュドは少し笑った。
「じゃあ、行こうか」
「うん!」
ネリィは、まるで初めて歩き出す子どものように、少し緊張しながらも嬉しそうにリュドの隣に並んだ。
クラリスの窓を出ると、朝の光がミラフィス工房街を照らしていた。
海から吹く風が、ほんのり潮の匂いを運んでくる。
道の両側にはガラス細工の店が並び、窓辺に置かれた装飾品が朝日を受けてきらきらと輝いている。
ネリィは何度も足を止めた。
窓越しに見ていた街。
けれど、実際に歩く街はまるで違っていた。
人の声。
荷車の音。
焼きたてのパンの香り。
工房から聞こえる道具の音。
遠くから響く港の鐘。
すべてが新しかった。
「……すごい」
ネリィは小さく呟く。
仮面で表情は見えない。
それでも、声だけで彼女がどれほど驚いているのか、リュドにはわかった。
リュドは少し得意げに笑う。
「ここがミラフィス工房街。ガラス職人が多い街なんだ」
「綺麗……」
ネリィは、店先に並ぶガラス細工を見つめた。
花の形をした小瓶。
鳥をかたどった置物。
陽の光を受けて色を変える小さな硝石晶の飾り。
それらをひとつひとつ見ているだけで、時間を忘れてしまいそうだった。
リュドは、ネリィを連れて街を歩いた。
遠くに見えるルミナリア大聖堂。
白く輝く大きな建物。
人々が行き交う広い道。
港へ続く石畳。
ネリィはそのすべてを、宝物を見るように見つめていた。
やがて二人は、ルクシス広場へたどり着いた。
そこには市場が広がっていた。
野菜や果物を並べる店。
布や小物を売る露店。
各国から運ばれてきた香辛料や道具。
港を通じて集まった品々が、色とりどりに並んでいる。
人々の声が重なり、広場全体が生きているようだった。
リュドはネリィを見る。
「どう? 外は」
ネリィは少しだけ顔を上げた。
仮面越しでも、その声ははっきり弾んでいた。
「すっごく、楽しいし、綺麗!」
リュドはほっとしたように笑った。
「良かった」
「ここは、いろんな物が売っているのね。食材とか、小物とか、いっぱい!」
「うん。レイナード港が近いからね。いろんな国から交易品が集まるんだ」
「交易品……」
ネリィは聞き慣れない言葉を確かめるように呟く。
その時、ネリィの足が止まった。
彼女が見つめていたのは、少し古びたアクセサリーが並ぶ露店だった。
指輪、首飾り、小さな耳飾り、硝石晶をあしらった飾り。
どれも新品というより、どこか旅をしてきたような品ばかりだった。
ネリィは吸い寄せられるように、その露店へ近づいた。
「いらっしゃい!」
元気のいい声を上げたのは、恰幅のいいおじさん店主だった。
店主はネリィの仮面を見ると、興味深そうに目を細める。
「お? ネルヴァルトの仮面かい。今どき渋いねぇ」
ネリィは少し肩を跳ねさせる。
外で知らない人と話すのは、これが初めてに近かった。
「そ、そうですね!」
声が少し上ずる。
リュドはすぐに横から補った。
「この子、ネルヴァルトの出身なんです。最近ソルメルリアに来たばかりで」
「なるほどなるほど!」
店主は納得したように頷いた。
「じゃあ、兄ちゃんが案内してやってるわけだ」
「まあ、そんな感じです」
「いいねぇ。デートしてるなら、アクセサリーの一つでも買ってやりなよ、兄ちゃん」
「なっ!」
「そんなんじゃないです!」
リュドとネリィの声が、見事に重なった。
二人は同時に黙り込む。
店主は腹を抱えて笑った。
「わっはっは! 仲いいねぇ!」
「だから、違いますって……」
リュドは困ったように言う。
その横で、ネリィはひとつのアクセサリーを手に取っていた。
小さな星型の飾りだった。
形は少し歪だった。
左右の角の長さも均一ではなく、表面にもわずかな傷がある。
けれど、不思議と目を引くものがあった。
ネリィは、それをじっと見つめていた。
リュドが気づいて声をかける。
「それが欲しいの?」
ネリィは慌てて首を振った。
「あ、いや! 別に、そういうわけじゃないの」
「じゃあ、どうしたの?」
「……どこかで、見たような気がして」
その言葉に、リュドの表情が少し変わった。
記憶。
ネリィの失われた記憶に、何か関わりがあるのかもしれない。
リュドは店主へ向き直る。
「おじさん、これもらえますか?」
ネリィは驚いてリュドを見る。
「リュド?」
店主も、少し意外そうに星型のアクセサリーを見た。
「え? そんな形のでいいのかい? とりあえず適当に仕入れて置いてるだけのものだよ。他にももっと綺麗なのがあるぜ?」
「これがいいんです」
リュドは静かに言った。
ネリィは慌てて止めようとする。
「悪いよ、そんな!」
「いいんだ」
リュドはネリィを見て微笑む。
「君が気になったなら、もしかすると記憶の手がかりになるかもしれないしね」
ネリィは何も言えなくなった。
店主は二人を見て、にやにやと笑う。
「おいおい、目の前でそんなに見つめ合っちゃって。若いねぇ、うらやましいねぇ」
「んなっ!」
リュドが顔を赤くする。
ネリィも仮面の奥で固まっていた。
店主は笑いながら、手をひらひら振った。
「いいよいいよ。それ、タダであげるよ」
「え? いいんですか?」
「いいってことよ。安く仕入れたやつだしな。せっかくだ、兄ちゃんがお嬢ちゃんにつけてやりな」
「ありがとうございます!」
リュドは丁寧に頭を下げた。
ネリィはまだ戸惑っている。
「本当に、いいの?」
「うん」
リュドは星型のアクセサリーを手に取った。
それから、少し照れながらネリィへ向き直る。
「じゃあ、つけるね」
「……うん」
ネリィは小さく頷いた。
リュドは、彼女のローブの襟元にそっとアクセサリーをかけた。
小さな星が、茶色い布の上で静かに揺れる。
歪な形なのに、不思議とネリィによく似合っていた。
リュドは少し目を細める。
「いいね。意外としっくりくる」
ネリィはそっと星型の飾りに触れた。
「……ありがとう」
その声は、とても柔らかかった。
なぜか、そのアクセサリーを見ていると安心した。
理由はわからない。
けれど、胸の奥にあった不安が、少しだけ静かになる。
ネリィは星を指先で包み込むように触れながら、優しく微笑んだ。
仮面の奥の表情は見えない。
それでもリュドには、その笑顔が確かに見えた気がした。
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午後。
エラグレア・アカデミー裏の雑木林には、すでにガイルとドラン、ソフィアとそのグラセルであるアルシェルが来ていた。
木々の隙間から差し込む日差しは、午前よりも少しやわらかくなっている。
訓練場所として使っている開けた場所には、昨日の足跡や、ドランが地面を蹴った跡がまだ残っていた。
ガイルは腕を組みながら、道の方を見る。
「リュドのやつ、遅いな」
ソフィアも同じ方向へ目を向ける。
「そうね。珍しいわね」
「風邪でも引いたか?」
ドランが低く言う。
「昨日、あれだけ走らせたからな」
「お前が走らせたんだろ」
ガイルがじとっとドランを見る。
すると、ソフィアの隣にいた馬型のグラセル、アルシェルが静かに口を開いた。
「意外と、デートでもしているのでは?」
女性のように落ち着いた声だった。
普段あまり口を挟まないアルシェルの発言に、三人は一瞬黙る。
そして、声を揃えた。
「まさかー」
その直後だった。
木々の向こうから、リュドが走ってくる姿が見えた。
「ごめん! お待たせ!」
リュドは息を整えながら、三人の前で足を止める。
その後ろには、フード付きの茶色いローブをまとい、顔に独特な仮面をつけた人物が立っていた。
ガイルの目が丸くなる。
「……おい」
ソフィアも少し驚いたように、その人物を見る。
ドランは低く唸るように言った。
「本当に連れてきたな」
アルシェルだけが、どこか納得したように静かにしている。
ガイルはリュドを見る。
「珍しいなお前が遅れてくるなんて」
「ちょっと、いろいろあって」
リュドは少し気まずそうに笑う。
ソフィアは、リュドの後ろにいる人物へ視線を向けた。
「後ろの人は?」
「あ、うん」
リュドは一歩横にずれ、ローブの人物をみんなに見えるようにした。
「みんなに紹介するよ」
フードの下で、その人物が少しだけ緊張したように身を縮める。
リュドは優しく言った。
「ネリィ」
仮面の奥から、やわらかな女性の声が聞こえた。
「よ、よろしく……お願いします」
その声に、ガイル、ソフィア、ドランの三人は固まった。
「……女の子?」
ガイルがぽつりと呟く。
ソフィアはリュドを見た。
「リュド……?」
ドランもじっとネリィを見る。
「説明が必要だな」
リュドは慌てて両手を振る。
「あ、いや、違うんだ! 変な意味じゃなくて!」
アルシェルが静かに言う。
「やはり、デートでしたか」
「違うって!」
リュドの声が雑木林に響く。
ネリィはそのやり取りに戸惑いながらも、リュドの後ろに少し隠れるように立っていた。
ソフィアは、そんなネリィの様子を見て、少し表情を和らげる。
「驚いただけよ。大丈夫」
そして、ネリィへ向き直った。
「私はソフィア=ウォード。よろしくね、ネリィ」
ネリィは少しだけ安心したように、小さく頭を下げる。
「よろしく……ソフィア」
ガイルも頭をかきながら笑った。
「俺はガイル=バーンロート。で、こっちがドランだ」
「よろしくな、ネリィ」
ドランが低く言う。
ネリィは少し驚いたようにドランを見る。
「……大きい」
「よく言われる」
ガイルが笑う。
「怖くないから安心しろ。口は悪いけどな」
「お前に言われたくない」
ドランが即座に返す。
そのやり取りに、ネリィは少しだけ肩の力を抜いた。
リュドはそれを見て、ほっと息を吐く。
まだ全部を話せるわけじゃない。
けれど、ネリィがこうして誰かと挨拶できた。
「仮面って、珍しいわね」
ソフィアが、ネリィの顔を覆う仮面を見て言った。
リュドは少しだけ肩を揺らす。
「ああ、確かに」
ガイルもネリィをまじまじと見る。
「その仮面……ネルヴァルトの子か?」
リュドは一瞬だけ言葉に詰まった。
「あ、ああ。そうなんだ」
「へぇ」
ガイルは腕を組み、にやりと笑う。
「で、どういう関係なんだ?」
「どういうって……」
リュドは困ったようにネリィを見る。
ネリィもどう答えればいいのかわからず、少しだけ身を縮めていた。
「あんまり詳しいことは言えないんだけど……友人だよ」
「ほーん」
ガイルは、明らかに面白がっている顔をした。
「友人ねぇ」
「だから、変な意味じゃないって」
リュドが慌てて言うと、ネリィが一歩前へ出た。
「お邪魔してごめんね」
仮面の奥から、少し緊張した声が聞こえる。
「今日は、リュドの特訓を見に来たの」
ソフィアは優しく微笑んだ。
「そうなのね。よろしく、ネリィ」
「よろしく」
ガイルはまだ少しにやにやしていたが、すぐに手を叩いた。
「よし! 余計な詮索はここまでだ。さっそく特訓しよう!」
「切り替え早いな」
リュドが苦笑する。
「当然だ。今日は昨日よりきつくいくぞ」
「昨日より……?」
リュドの顔が少し引きつる。
ドランが低く言った。
「覚悟しておけ」
ガイルは地面に木の枝で簡単な図を描き始めた。
「今日の練習は、逃げながらメルドをして盾を作ることだ」
リュドは真剣な顔になる。
「逃げながら盾を作る……」
「ああ」
ガイルは頷く。
「普通、グラセル・レガリアでは、持ち主とグラセルが役割を分ける。たとえばドランみたいな生き物型のグラセルがいれば、こいつが前に出て相手を止めてくれる」
ドランが大きな角を軽く振る。
「その間に、持ち主は距離を取ったり、次の動きを考えたり、メルドを使う余裕を作れる」
「つまり、グラセルが時間を稼いでくれるってことか」
リュドが言うと、ガイルは頷いた。
「そういうことだ」
続けて、ガイルは自分の手を握るように動かした。
「それから、武器型のグラセルの場合は少し違う。グラセルそのものが武器になる。杖槍型、剣型、弓型、そういうタイプだな」
ソフィアが補足する。
「武器型は、持ち主の心と強くつながっているから、普通の武器より扱いやすいの。自分の手足の延長みたいに動かせる」
「そうだ」
ガイルはソフィアを見て頷いた。
「即席でメルドして作った武器や盾は便利だ。でも、形を作ったばかりのものは、まだ体になじんでない。重さ、感触、反応、全部をその場で把握しなきゃならない」
ドランが続ける。
「対して武器型グラセルは、長く持ち主と共に戦っている。心のつながりがある分、扱いに迷いが少ない」
リュドは自分の左手を見た。
「つまり、俺がメルドで作る盾は、作れたとしても扱いづらい」
「その通り」
ガイルはにっと笑う。
「だから練習するんだ」
「……なるほど」
「お前はグラセルがいない。だから、誰も時間を稼いでくれない。逃げながら、相手の動きを見ながら、必要な形を作らなきゃならない」
ガイルは木の枝を投げ捨て、リュドを指差した。
「今日は、ドランの突進を避けながら盾を作れ。作った盾で一撃を受け止める。できなきゃ転がる」
「転がる前提なの?」
「最初はな」
リュドは苦笑しながらも、メルドグローブをはめ直した。
「わかった。やるよ」
ネリィは少し不安そうにリュドを見つめる。
「危なくないの?」
リュドは振り返り、笑った。
「大丈夫。昨日も似たようなことやったから」
ガイルが横から言う。
「今日は昨日より危ないけどな」
「余計なこと言うなよ!」
ネリィの肩がびくりと揺れる。
ソフィアが苦笑しながら言った。
「一応、私とアルシェルも見ているわ。危なくなったら止めるから」
アルシェルも静かに頷く。
「無理はさせません」
ネリィは少し安心したように、小さく頷いた。
リュドは一歩前へ出る。
ドランが向かい側に立ち、大きな角を低く構えた。
ガイルが声を張る。
「じゃあ始めるぞ!」
リュドは深く息を吸い、左手に意識を集めた。
逃げながら、作る。
作りながら、守る。
グラセルがいない自分にできる戦い方を、見つけるために。
「来い、ドラン!」
その声と同時に、ドランが地面を蹴った。
昨日の避ける特訓のおかげで、リュドの動きには少しだけ余裕が生まれていた。
ドランが地面を蹴る。
大きな体が、一直線に迫ってくる。
二本の角が低く構えられ、まともに受ければ簡単に吹き飛ばされそうな勢いだった。
けれど、リュドは昨日のように慌てなかった。
「っ!」
横へ踏み込み、木の根を避けながら体をひねる。
ドランの突進が、すぐ横を通り過ぎた。
「よし……!」
リュドは息を整えながら、次の動きに備える。
それを見ていたネリィは、完全に落ち着いていなかった。
「ひぃっ!」
ドランが迫るたび、ネリィの肩が跳ねる。
「あぶない!」
リュドが避けるたびに、胸元を押さえる。
「だめ……!」
ドランが方向転換するたびに、思わず声が漏れる。
「うう……」
仮面をつけていて表情は見えないが、声だけで彼女がどれだけひやひやしているのかはよくわかった。
アルシェルが静かに言う。
「さ、騒がしい……」
その横で、ソフィアは少し楽しそうに微笑んでいた。
「初めて見るなら、仕方ないわ」
「リュドが飛ばされるたびに倒れそうです」
「それも仕方ないわね」
ソフィアはネリィを見ながら、どこか微笑ましそうだった。
一方、リュドはドランとの距離を測っていた。
避けるだけでは駄目だ。
今日は、逃げながらメルドをする。
リュドは走りながら左手を前へ出した。
「メルド!」
硝石晶が光を放つ。
走っている最中だというのに、その光は乱れなかった。
足場は不安定で、息も上がっている。
それでも、リュドの左手から生まれる光は澄んでいた。
硝石晶はなめらかに形を変えていく。
薄く、重なり、広がり、縁を作る。
無駄のない曲線が描かれ、光の中から盾の輪郭が生まれていく。
それは戦いの最中に作られたものとは思えないほど、繊細で美しかった。
ネリィは、初めてリュドのメルドを見た。
その瞬間、胸の奥がふわりと温かくなる。
強い光ではない。
誰かを押しつけるような力でもない。
硝石晶に語りかけるような、やわらかな光。
欠けたものを責めず、足りないものを静かに補うような手。
ネリィは、思わず呟いた。
「……綺麗」
ソフィアが隣で微笑む。
「綺麗でしょ? リュドのメルド」
ネリィは小さく頷いた。
「ええ。とても……暖かい」
その言葉に、ソフィアは少しだけ目を細めた。
「暖かい、か。いい表現ね」
離れたところで見ていたガイルも、思わず笑う。
「おいおい、ほんと器用なやつだよ」
リュドはあっという間に盾を作り上げた。
昨日よりも速い。
そして、走りながら作ったとは思えないほど形も整っている。
「よし!」
リュドは盾を構えた。
その正面で、ドランが再び突進の体勢に入る。
地面を蹴る音。
低く唸るような風切り音。
黄色い巨体が、一直線に迫ってくる。
リュドは盾を握りしめ、足を踏ん張った。
「来い!」
ドランの角が、盾にぶつかった。
次の瞬間。
リュドの体が、きれいな弧を描いて宙を舞った。
「え?」
自分でも何が起きたのかわからない声を残しながら、リュドは空中で一回転する。
「リュド!?」
ネリィの悲鳴が響いた。
リュドは草の上に、どさっと落ちた。
盾は壊れていない。
むしろ、しっかり形を保っていた。
けれど、リュド本人が受け止めきれなかった。
ドランは突進を止め、少し気まずそうにリュドを見る。
「あ」
ガイルもぽかんとする。
ソフィアも一瞬だけ言葉を失った。
アルシェルが静かに言う。
「盾は優秀でしたね」
「本人が飛びましたが」
ネリィが慌ててリュドの方へ駆け寄ろうとする。
「リュド! 大丈夫!?」
リュドは草の上で仰向けになり、空を見上げていた。
「……盾は、できた」
ガイルが吹き出す。
「そこ気にするのかよ!」
リュドはゆっくり体を起こし、頭についた草を払った。
「いや、でも……盾は壊れてない」
ドランが近づき、低く言う。
「盾はな」
「うん……俺が飛んだ」
「受け方が悪い」
ドランは容赦なく言った。
「盾を作る技術は高い。だが、衝撃を逃がす姿勢ができていない。正面から受けすぎだ」
ガイルが頷く。
「そういうことだな。いい盾を作れても、お前の体が吹っ飛んだら意味ねえ」
リュドは悔しそうに盾を見る。
「……なるほど」
ネリィはまだ心配そうにリュドを見つめている。
「本当に大丈夫?」
「大丈夫。ちょっとびっくりしただけ」
「ちょっとじゃないわ」
ネリィの声が少し強くなる。
リュドは申し訳なさそうに笑った。
「ごめん」
ガイルは手を叩いた。
「よし、今ので課題がわかったな」
「え、まだやるの?」
「当たり前だろ」
ガイルはにやりと笑う。
「次は、盾を作ったあとに真正面で受けるな。角度をつけて受け流せ」
ドランも再び構える。
「衝撃を殺すのではなく、逃がせ」
リュドは立ち上がり、盾を握り直した。
体は疲れている。
けれど、今の失敗で何を直すべきかははっきりした。
「わかった。もう一回」
ネリィは小さく息を呑む。
「もう一回……」
ソフィアが隣で優しく言った。
「リュドは、こういう人なの」
ネリィはリュドを見つめた。
転んでも、飛ばされても、また立つ。
痛そうなのに、悔しそうなのに、それでも前を向く。
ネリィの胸の奥で、また小さな光が揺れた。
リュドは盾を構え直す。
「来い、ドラン!」
夕暮れの雑木林に、再びドランの突進音が響いた。




