第十章 王子は茂みから現れる
日が沈む前に、リュドとネリィはクラリスの窓へ戻ってきた。
街はまだ夕暮れの光に包まれていたが、いつもよりどこか慌ただしかった。
遠くで人の声が重なり、道を急ぐ騎士の姿も見えた。
それでも、二人は何も言わずに歩いた。
さっき出会った少年。
ノア=ヴェルミリオ。
あの異様な空気。
仮面の奥から覗く、底の見えない気配。
そして、ノアを見た瞬間に苦しみ始めたネリィ。
リュドの胸には、まだ嫌な感覚が残っていた。
店の中に入ると、ようやくネリィの呼吸が少し落ち着いてきた。
「落ち着いた?」
リュドが優しく聞く。
ネリィは胸元に手を添えたまま、小さく頷いた。
「うん……もう、大丈夫」
「無理しないで」
「うん」
その時、奥から青い影が勢いよく飛んできた。
「リュド! ネリィ!」
ポポだった。
「ああー、良かった! 心配したのよ!」
ポポは二人の周りをばたばたと飛び回る。
「さっき、いろんな場所でグランシエル騎士団から避難警告が出てたの!」
リュドの表情が変わる。
「避難警告?」
「そうよ!」
ポポは慌てた様子で続ける。
「謎の黒いグラセルが何体か暴れてるって話よ。騎士団が今、その対応に追われてるみたいなの」
「黒いグラセル……」
リュドは思わず呟いた。
さっき見た、ノアのそばにいた黒い蜘蛛型のグラセル。
アラクネア。
あれも、その騒ぎと関係があるのだろうか。
リュドはノアのことを話そうと口を開きかけた。
けれど、ポポの不安そうな顔を見ると、言葉が止まった。
これ以上、心配をかけたくなかった。
「そうなんだ……」
リュドはそう言うだけに留めた。
そして、すぐに別の不安が浮かぶ。
「そうなると、ガイルたちが心配だな」
リュドは扉の方へ向かおうとした。
「俺、ちょっと見てくるよ」
「駄目だ」
低い声が響いた。
工房の奥から、オスヴァルトが姿を現す。
「じいちゃん……」
「お前たちは家にいなさい」
オスヴァルトはいつになく厳しい表情をしていた。
「外が騒がしい時に、むやみに出歩くものではない」
「でも、ガイルたちが」
「私とポポが見に行く」
「オスヴァルト?」
ポポが少し驚いたように振り返る。
オスヴァルトはリュドをまっすぐ見た。
「お前はネリィのそばにいなさい」
その言葉に、リュドは黙った。
ネリィは胸元に手を当てたまま、不安そうにリュドを見る。
「……リュド」
リュドは小さく息を吐いた。
「わかった」
そう答えた時だった。
店の扉の向こうに、人影が映った。
続いて、扉を叩く音が響く。
とん、とん。
店内に、一瞬の沈黙が落ちた。
こんな時間に、誰が。
オスヴァルトがゆっくりと扉の方へ向かう。
「こんな時間に、どなたかな?」
扉の向こうから、穏やかな声が返ってきた。
「こんばんは。エラグレア・アカデミーのエルディン=クロウスです。オスヴァルトさん、夜分にすみません」
リュドが驚いて声を上げる。
「クロウス先生?」
オスヴァルトが扉を開けると、そこにはプラチナブロンドの長髪に丸眼鏡をかけた男性が立っていた。
クロウス先生だった。
いつものように穏やかな微笑みを浮かべている。
「やあ、リュド。無事そうで良かった」
「先生、どうしてここに?」
クロウス先生は軽く頭を下げる。
「グラセルが暴れていると聞いてね。心配なので、生徒の家をいくつか回っているんだ」
ポポがほっとしたように言う。
「わざわざこんな夜に、ご苦労様です」
「いえいえ。生徒の無事を確認するのも、教師の役目ですから」
クロウス先生はリュドへ視線を向ける。
「リュド、怪我はないね?」
「はい。大丈夫です」
「それなら良かった」
リュドは、少し迷ってから尋ねた。
「クロウス先生。ガイルは大丈夫ですか?」
その問いに、クロウス先生は少しだけ頷いた。
「大丈夫。さっき寮に戻ってくるのを見かけたよ」
「そうですか……」
リュドは胸を撫で下ろした。
「良かった」
クロウス先生は穏やかに微笑む。
「ただ、今夜は外に出ない方がいい。騎士団も警戒している。君も家で休みなさい」
「はい」
そのやり取りを聞いていたオスヴァルトが、静かに口を開いた。
「先生、良かったら少し休んでいかれますかな?」
クロウス先生は申し訳なさそうに首を横に振る。
「ありがたいですが、まだ回るところがありますので、今日はこれにて」
「そうですか」
「ええ。皆さんも戸締まりを忘れずに」
クロウス先生は軽く礼をした。
その時だった。
彼の視線が、ふとリュドの後ろへ向いた。
そこには、仮面とローブを身にまとったネリィが立っていた。
ネリィは少しだけ身を縮める。
クロウス先生は、何かを尋ねることはしなかった。
ただ、いつものようににこやかに微笑む。
「……」
「それでは、また」
「はい。先生、気をつけて」
「ありがとう、リュド」
クロウス先生はそう言って、夕闇の中へ歩いていった。
扉が閉まる。
店内に、再び静けさが戻った。
ーーー
ーー
ー
レイノート家の屋敷。
静かな廊下に、軽いノックの音が響いた。
こん、こん。
「フィリアちゃん」
扉の向こうから、柔らかな女性の声が聞こえる。
部屋の中にいた青年が顔を上げた。
オレンジベージュの髪を整えた、上品な顔立ちの青年。
フィリア=レイノート。
彼は椅子に腰掛け、槍の形をしたグラセルを丁寧に磨いていた。
「お母様、どうしたんだい?」
扉が少し開き、母が顔を覗かせる。
「学校から手紙が届いたわよ」
「学校から?」
フィリアは少しだけ眉を動かす。
「ありがとう。そこに置いておいてくれるかな」
「ええ」
母は机の上に封筒を置いた。
封筒には、エラグレア・アカデミーの紋章が刻まれている。
差出人の名は、アゼル=リュミエール。
母が部屋を出ていくと、フィリアは磨いていた槍型グラセルをそっと膝の上に置いた。
「グラセル・レガリアの件かな」
封筒を開く。
中には、卒業前に行われるグラセル・レガリアの参加者一覧と、対戦表が入っていた。
フィリアは優雅に紙を広げ、内容に目を通していく。
「ふむ。対戦相手が決まったようだね」
参加者は八名。
ガイル=バーンロート。
ゼクト=クロウベルク。
ソフィア=ウォード。
ボルグ=ダイン。
ミュリカ=リーフェン。
ロヴィス=カルメイル。
そして、自分の名。
フィリア=レイノート。
「さて、僕の相手は……」
フィリアは指で対戦表を追う。
そして、自分の名前の隣に書かれた相手を見た瞬間、動きが止まった。
「ん?」
そこには、こう書かれていた。
リュド=グラスフェルド
しばらく沈黙が落ちる。
次の瞬間、フィリアは素っ頓狂な声を上げた。
「はあ!? なぜ彼がここにいるんだい!?」
槍型のグラセルが、机に立てかけられたまま、面倒くさそうに声を出す。
「誰だよ」
「リュド=グラスフェルドだよ」
フィリアは信じられないという顔で手紙を見る。
「グラセルを持っていない、あのリュド=グラスフェルドだ」
「へぇ。そいつが参加するのか」
「参加するのか、じゃないだろう!」
フィリアは手紙をひらひらと揺らした。
「グラセル・レガリアだよ? グラセルとの連携を見せる晴れ舞台だ。そこにグラセルを持たない者が出るなんて、まったく前代未聞じゃないか」
槍型グラセルは気の抜けた声で言う。
「いいじゃねぇか。これで一回戦は楽勝だろ」
「それが問題なんだよ、エスティス」
フィリアは不満そうに腕を組む。
「こんな相手では、僕の実力を十分にアピールできないじゃないか」
「勝てばいいだろ」
「勝つのは当然だ」
フィリアはきっぱりと言った。
「だが、問題は勝ち方だよ。僕はレイノート家の名にふさわしい優雅で圧倒的な勝利を見せなければならない」
槍型グラセル――エスティスは、呆れたように言った。
「なら、圧倒的に勝てばいいだろ」
「相手が弱すぎると、それはそれで困るんだよ」
フィリアはため息をつく。
「これではまるで、僕が初心者相手に槍を振るうようなものじゃないか。まったく、校長も妙な組み合わせにしてくれたものだね」
「相手に失礼だな、お前」
「事実を言っているだけさ」
フィリアは対戦表を見つめる。
「だって、グラセルがいないんだよ? エンブレムを守る相棒もいない。攻める手段も自分のメルド頼り。そんな状態で、どうやって僕とエスティスに勝つつもりなんだい?」
「まあ、普通は無理だな」
「だろう?」
フィリアは少し満足げに頷く。
「僕とエスティスの間合い制御は、同世代でもかなり高い水準にある。彼がどれだけメルドに自信があろうと、近づく前に終わるさ」
エスティスは軽く笑う。
「初戦は準備運動ってことだな」
「準備運動にもなるか怪しいね」
フィリアは手紙を机に置く。
「本来なら、ヴァスレイン勢に全力を注ぐべき大会なんだ。ガイル=バーンロート、ゼクト=クロウベルク、ボルグ=ダイン。厄介なのはそちらだよ」
「なら、初戦で消耗しないのは悪くない」
「ああ。それは認めよう」
フィリアは槍型グラセルを手に取り、刃の部分を丁寧に撫でる。
「リュドには悪いが、ここは早々に退場してもらうとしよう」
「容赦ねぇな」
「勝負の場に立つ以上、遠慮は不要だよ」
フィリアは優雅に微笑む。
「もっとも、彼にとっては良い経験になるだろうね。グラセルなしで参加することが、どれほど無謀かを知るいい機会だ」
エスティスが低く笑う。
「お坊ちゃん、いい性格してるぜ」
「褒め言葉として受け取っておくよ」
フィリアは対戦表のリュドの名前を見つめる。
そして、どこか退屈そうに呟いた。
「リュド=グラスフェルド」
その声には、警戒よりも余裕があった。
「せめて僕の初戦にふさわしく、少しは粘ってくれたまえよ」
エスティスの槍先が、淡く光る。
「油断して足元すくわれんなよ」
フィリアは鼻で笑った。
「まさか」
そして、対戦表を机の上に置いた。
「グラセルを持たない相手に、この僕が負けるはずがないだろう?」
ーーー
ーー
ー
翌日。
各地で起きた黒いグラセルの暴走は、まるで何事もなかったかのように収まっていた。
だが、街にはまだどこか落ち着かない空気が残っている。
昨日より人通りは少なく、騎士団の姿もいつもより多い。
それでも、リュドはネリィを連れて、いつもの雑木林へ来ていた。
グラセル・レガリアまで、残された時間は少ない。
昨日の出来事が気にならないわけではない。
ノアという少年のことも、ネリィが苦しんだ理由も、黒いグラセルの騒ぎも、何ひとつ解決していなかった。
けれど、今のリュドにできることは、目の前の試合に向けて少しでも強くなることだった。
木々の間を風が抜ける。
リュドは周囲を見回した。
ガイルも、ソフィアも、まだ来ていない。
「まだ、誰も来ないね」
ネリィがぽつりと言った。
「そうだね」
リュドは少しだけ眉を寄せる。
「何かあったのかな」
昨日、黒いグラセルが暴れたという話を聞いたばかりだ。
ガイルたちのことが気にならないわけではなかった。
その時、ネリィが小さく口を開いた。
「……ねぇ、リュド」
「どうしたの?」
ネリィは少し迷うように、自分の胸元に手を当てた。
ローブの下、仮面の奥で、彼女が真剣な顔をしているのがリュドにはわかった。
「私、リュドの力になれないかな」
「え?」
「相棒として」
リュドは言葉を失った。
ネリィは続ける。
「昨日の黒いグラセルのことも、あの少年のことも、ずっと考えていたの」
ノア。
あの仮面の少年。
思い出しただけで、ネリィの胸の奥が少しざわつく。
「私はグラセルでしょう?」
ネリィは自分の硝子の手を見つめる。
「だったら、リュドを守ることもできると思うの」
その言葉は、まっすぐだった。
グラセルは、人と共に生きる存在。
暮らしを助け、時には危険から持ち主を守る相棒でもある。
ネリィの言っていることは間違っていない。
けれど、リュドはすぐには頷けなかった。
「あのね、ネリィ」
リュドは、できるだけ優しく言った。
「気持ちはすごく嬉しいんだ」
ネリィが顔を上げる。
「だけど……君は、俺のグラセルじゃない」
その言葉に、ネリィの胸の光が、ほんのわずかに揺れた。
「だから、今は記憶が戻るまで……」
「……そう」
ネリィは短く答えた。
そして、リュドに背を向ける。
その小さな背中に、落胆がにじんでいた。
リュドは何か言おうとした。
けれど、言葉が出てこなかった。
ネリィの気持ちは嬉しい。
頼りたい気持ちも、ないわけではない。
でも、リュドはネリィを守らなければならないと思っていた。
自分が目覚めさせた。
自分が外へ連れ出した。
自分が守ると決めた。
だから、ネリィを戦わせることはできない。
少なくとも、今は。
沈黙が落ちた。
その空気を破るように、突然、茂みの向こうから声がした。
「痴話喧嘩中にすまない」
「うわっ!?」
リュドとネリィは同時に肩を跳ねさせた。
声のした方を見る。
茂みの中から、ひょこりと顔だけを出している青年がいた。
金色の髪。
整った顔立ち。
年齢はリュドより少し上に見える。
しかし、その登場の仕方があまりにも不自然だった。
ネリィはすぐにリュドの後ろへ隠れる。
リュドは身構えた。
「だ、誰ですか!?」
青年は悪びれた様子もなく、にこやかに言う。
「まあ、怪しい者ではない。安心してくれたまえ」
「こっちは十二分に怪しんでますが」
リュドが即座に返す。
青年は少し驚いたように目を瞬かせ、それから楽しそうに笑った。
「そうか。それは失礼した」
そう言って、青年は茂みから堂々と出てきた。
服装は上質だが、派手すぎるわけではない。
ただ、どこか育ちの良さを感じさせる立ち振る舞いだった。
「私はレオだ。よろしく」
「……リュドです」
リュドは警戒しつつ名乗る。
「この子はネリィ」
ネリィはリュドの背中に隠れたまま、小さく頭を下げた。
「よろしく、ネリィ」
レオは穏やかに微笑む。
「事情があって身元は詳しく明かせないが、少し街中を散歩していたところだ」
リュドは眉をひそめた。
「なんで身元を明かせないんですか?」
「まあ、色々だ」
「色々って」
「だが、決して怪しい者ではない」
「怪しい人はだいたいそう言うんですよ」
リュドが苦笑する。
けれど、不思議だった。
確かに怪しい。
かなり怪しい。
なのに、目の前の青年からは悪意が感じられなかった。
むしろ、堂々としすぎていて、嘘をついているようにも見えない。
リュドは少しだけ警戒を緩めた。
「怪しいですけど……なんとなく、悪い人ではなさそうですね」
「ほう」
レオは満足そうに頷く。
「なかなか良い目をしている」
「褒められてるんですか、それ」
「もちろんだ」
レオは当然のように言った。
そして、周囲を見回す。
「ところで、君たちはここで何をしていたのだ?」
「友人と待ち合わせをしています」
リュドは答えた。
「グラセル・レガリアに出るので、そのための特訓を」
「ほう。グラセル・レガリアに出るのか」
レオの目が少しだけ輝いた。
「それなら、少し私も手伝ってあげよう」
「え?」
リュドは戸惑う。
「いや、知らない方にそんな、教えてもらうだなんて」
「もう知らない者ではない、リュド」
レオは自信満々に言った。
「今、知り合ったであろう?」
「そういう問題ですか?」
「そういう問題だ」
リュドは言葉に詰まる。
強引だった。
かなり強引だった。
だが、妙な圧がある。
嫌な圧ではない。
自然と場を持っていくような、不思議な力だった。
リュドは半ば諦めたように息を吐く。
「……わかりました。でも、少しだけですよ」
「十分だ」
レオは満足そうに頷いた。
「剣術はできるのか?」
「え。あ、はい。少しだけ」
リュドは答える。
剣術は、二年の時に必修授業で少しだけ学んでいる。
だが、専門的に鍛えているわけではない。
「では、剣を」
レオはそう言うと、懐から硝石晶を取り出した。
それを左手に乗せ、静かに構える。
「メルド」
その声は、澄んでいた。
次の瞬間、硝石晶が金色に輝く。
光は迷わなかった。
揺らがず、乱れず、一本の芯を持って形を変えていく。
「アウレシオン」
金色の光が剣の形を成した。
無駄のない直線。
しなやかな刃。
品格すら感じる、美しい剣。
リュドは思わず見入った。
「すごい……」
レオは剣を軽く構え、微笑む。
「さあ、リュド。君も」
「はい」
リュドも硝石晶を取り出した。
左手に意識を集める。
「メルド」
淡い光が生まれた。
透明感のある、静かな輝き。
硝石晶はなめらかに形を変えていく。
歪みがなく、乱れもない。
まるで最初からそこに剣が眠っていて、リュドの手がそれを起こしただけのようだった。
ネリィは、その光を見て胸の奥が少し温かくなるのを感じた。
レオは、初めてはっきりと驚いた顔をした。
「これは……」
リュドの手の中に、淡く輝く透明な剣が生まれる。
それは派手ではない。
けれど、見れば見るほど澄んでいた。
「まるで、伝承のルパーティアのようだな」
その言葉に、ネリィの肩が小さく跳ねた。
リュドは苦笑する。
「言い過ぎですよ」
「そうかな」
レオは剣を構えたまま、リュドを見つめる。
その目には、先ほどまでの軽さだけではない、確かな興味が宿っていた。
「さあ、始めようか」
リュドは剣を構え直す。
「よろしくお願いします」
ネリィは、少し離れた場所で二人を見つめていた。
さっきの言葉が、まだ胸に残っている。
――君は、俺のグラセルじゃない。
それは間違っていない。
でも、少しだけ寂しかった。
それでも今は、リュドを見守るしかない。
金色の剣と、透明な剣。
二つの光が、雑木林の中で向かい合った。
レオは、金色に輝く剣を軽く振った。
その動きは、どこか優雅だった。
無駄がなく、力みもない。
けれど、剣先が空気を裂いた瞬間、リュドは反射的に身体を引いた。
「っ!」
レオの剣が、リュドの胸元をかすめる。
間一髪だった。
昨日までの特訓の成果もあって、リュドの身のこなしは以前よりずっと良くなっていた。
ドランの突進を避け続けたことで、相手の動きを見る感覚が少しずつ身についている。
レオは目を細めた。
「ほう。身軽だな」
「ありがとうございます……!」
リュドは距離を取り直し、透明な剣を構える。
今度はこちらから仕掛ける。
リュドは地面を蹴り、レオへ向かって剣を振り下ろした。
その瞬間だった。
金色の剣が、リュドの剣を軽く弾いた。
「は?」
何が起こったのか、リュドにはわからなかった。
気づいた時には、レオの剣先がリュドの胸元に向けられていた。
レオは楽しそうに微笑む。
「まずは一本だ」
リュドは息を呑む。
あまりにも早かった。
剣を弾かれた感触はある。
だが、その後の動きが見えなかった。
レオは剣を下ろす。
「もう一度やろう」
「わ、わかりました」
リュドは頷いた。
悔しかった。
何もできずに終わった。
避けることはできても、剣を交えるとまるで歯が立たない。
レオは軽く剣を構える。
「さあ、来い」
リュドは深く息を吸った。
同じ手は通じない。
今度は、振り下ろすと見せかける。
リュドは剣を上段に構え、踏み込んだ。
レオの視線が上へ向いた瞬間、リュドは剣の軌道を変える。
振り下ろす直前で剣を下へ落とし、そこから上向きに斬り上げた。
だが。
レオはすぐに剣を下げ、リュドの剣を押さえ込んだ。
「え――」
次の瞬間、リュドの腹にレオの蹴りが入った。
「ぐはっ!」
息が詰まる。
リュドは後ろへよろめき、その場に膝をつきそうになる。
「リュド!」
ネリィが思わず声を上げる。
心配だった。
それと同時に、胸の奥に小さな怒りが灯る。
目の前の男は、軽くやっている。
けれど、リュドは本気で苦しんでいる。
ネリィは、ぎゅっと拳を握った。
レオは剣を肩に乗せる。
「また一本だ」
リュドは腹を押さえながら、呼吸を整える。
「どうする?」
レオの問いに、リュドは顔を上げた。
悔しかった。
何もできないまま終わりたくなかった。
「もう一度!」
レオは満足そうに笑う。
「いいだろう」
それから、何度も打ち合った。
リュドは考えた。
足を使い、フェイントを入れ、剣の角度を変えた。
時には距離を取ろうとし、時には一気に踏み込もうとした。
だが、一本も取れなかった。
剣は弾かれた。
体勢を崩された。
踏み込みを読まれた。
距離を取っても、間合いを詰められた。
リュドの剣は、レオに届かなかった。
「はあ……はあ……」
リュドは肩で息をしていた。
透明な剣を握る手が、少し震えている。
レオは息ひとつ乱していなかった。
そして、あっさりと言った。
「なるほど」
リュドが顔を上げる。
レオは真顔で続けた。
「これは壊滅的だ」
「……」
「グラセル・レガリアは、棄権した方がいいな」
その言葉に、リュドは何も言えなかった。
胸の奥が、ぎゅっと締めつけられる。
わかっていた。
自分に足りないものが多いことは。
でも、他人からはっきり言われると、思った以上に重かった。
レオはさらに言う。
「それか、グラセルを使って私と手合わせするか?」
リュドの表情が動く。
「もちろん、私はグラセルを使わない」
その言葉に、ネリィの中で何かが限界を迎えた。
「あなたね」
ネリィが一歩前へ出る。
「さっきからリュドに対して――」
その瞬間、空気が少し変わった。
ネリィの心が揺れた。
ローブの下、硝子の身体の奥にある光がわずかに強まる。
リュドはすぐに振り返った。
「いいんだ! ネリィ!」
ネリィは止まる。
「でも!」
「いいんだ……」
リュドは、悔しそうに唇を噛んだ。
「事実、俺は何もできなかった」
ネリィは言葉を失った。
そして、申し訳なさそうに目を伏せる。
リュドはレオへ向き直った。
「レオさん」
「なんだ」
「俺には、グラセルがいないんだ」
その言葉に、レオの目がわずかに変わった。
「だから俺は、一人でやらなきゃいけない」
レオは少しだけ考えるようにリュドを見る。
そして、何かに納得したような顔をした。
「君か」
「え?」
「噂の、グラセルを持たぬ者」
リュドは黙る。
レオは続けた。
「それで、グラセル・レガリアに出るのだな?」
「はい」
リュドの返事に迷いはなかった。
「出るからには、優勝します!」
その言葉に、レオは数秒間黙った。
そして――
「あはははは!」
大きく笑い出した。
ネリィは少しむっとする。
だが、その笑いは馬鹿にしているものではなかった。
むしろ、心から面白がっているような笑いだった。
「リュド、君は面白いな」
レオは笑みを残したまま言う。
「よし。いいだろう」
「え?」
「私は君の力になるよ」
リュドは目を瞬かせた。
「どうして……?」
「君のメルドを見た時に思ったのだ」
レオは、リュドの手にある透明な剣を見る。
「君は努力できる人間だ」
リュドは言葉を失う。
レオは一歩近づき、手を差し出した。
「だから、私に任せろ」
その声は、不思議なほどまっすぐだった。
「リュド。君を勝たせる」
リュドは、その手を見る。
この人は素性がわからない。
突然茂みから現れ、身元も明かさず、強引に手合わせを始めた。
明らかに怪しい。
なのに、なぜか信用してしまう。
人を惹きつける力がある。
堂々としていて、言葉に迷いがない。
リュドは、そっと手を伸ばした。
その瞬間だった。
「レオニス王子! ここにいたのですか!」
森の向こうから、蹄の音とともに声が響いた。
リュドの手が止まる。
レオも振り返った。
王国の紋章をつけた鎧をまとった男が、白い騎乗生物――シェルカに乗って近づいてくる。
厳格そうな顔立ち。
鍛えられた体。
その佇まいだけで、ただの騎士ではないとわかる。
男はシェルカを止め、レオへ向かって言った。
「探しましたぞ、レオニス王子!」
リュドは固まった。
「レオニス……王子?」
その名前は、ソルメルリアに住む者なら誰もが知っている。
レオニス=セレディア。
ソルメルリア王国の王子。
リュドは目を見開いた。
「は? え?」
隣でネリィも、何が何だかわからず目を丸くしている。
レオ――レオニスは、まったく悪びれた様子もなく笑った。
「おお、ちょうどいいところに来たな、エドリック」
男は深く息を吐く。
エドリック=ハーヴェル。
ソルメルリア王家の近衛騎士長である。
「ちょうどいい、ではありません。昨晩の事件があったばかりなのですぞ。エレノア様がどれほどご心配されているか」
レオニスは聞いているのかいないのか、別のことを尋ねる。
「リシェルはどこにいる?」
エドリックの眉がぴくりと動く。
「今はそれどころでは――」
「リシェルはどこにいる?」
同じ調子。
同じ言葉。
エドリックはやれやれといった顔になった。
「リシェルは、エレノア様の護衛中です」
「そうか」
レオニスは満足そうに頷く。
「では、明日ここへ来るよう伝えてくれ。友人を紹介したい」
「は、はあ?」
エドリックがリュドを見る。
「友人とは……この方ですか?」
「そうだ」
レオニスは当然のように答える。
「彼に剣術の指南をしてほしい」
「あの、お言葉ですが王子……」
「レオでよい」
「よくありません」
エドリックはため息をついたあと、リュドへ向き直る。
「あなたは?」
リュドは慌てて姿勢を正した。
「リュド=グラスフェルドです」
「グラスフェルド……」
エドリックは少しだけ反応したが、深く追及はしなかった。
続いて、彼の視線がリュドの後ろにいるネリィへ向く。
「後ろの君は?」
ネリィはリュドの背中に半分隠れながら答えた。
「ネ、ネリィです……」
「そうか」
エドリックは二人を見て、少し同情するように言った。
「君たち、王子に振り回されて大丈夫だったかい?」
「おい、不敬罪だぞ。晩飯抜きだ」
レオニスが横から言う。
エドリックは一切動じない。
「そのような権限はございません」
「つれないな」
「そんなことより、帰ります」
「その前に、リシェルにリュドの剣術指南をさせよ」
エドリックは額に手を当てた。
「……詳細はわかりませんが、後で話を通しておきます」
「うむ。頼んだぞ」
リュドは慌てて声を上げる。
「あ、あの!」
レオニスが振り返る。
「なんだ?」
「その、俺はまだ何も……」
「拒否はできんぞ。レオの勅令だ」
「勅令って……」
エドリックが静かに訂正する。
「私的なお願いです」
「細かいな、エドリック」
レオニスは楽しそうに笑った。
リュドは戸惑いながらも、深く頭を下げる。
「レオニス王子! 今日はありがとうございました!」
レオニスは、その呼び方に少しだけ不満そうな顔をした。
「レオでよいと言っただろう」
そして、にっと笑う。
「また明日、ここで会おう。リュド」
そう言って、レオニスはエドリックに促されながら去っていった。
残されたリュドとネリィは、しばらくその場に立ち尽くす。
ネリィがぽつりと言った。
「……王子様だったの?」
リュドは、まだ混乱した顔で答える。
「……みたい」
「リュド、王子様と友達になったの?」
「……なったのかな」
自分でもよくわからなかった。
ただひとつ確かなのは。
グラセル・レガリアに向けて、リュドの特訓はさらに予想外の方向へ進み始めたということだった。




