第十一章 逃げた先に待つもの
ガイルとソフィアは、少し離れた木陰からその様子を見ていた。
リュドとネリィ。
そして、金色の髪を持つ青年。
最初はただの通りすがりかと思った。
だが、王国の紋章をつけた近衛騎士が現れ、その青年に向かって頭を下げた瞬間、ソフィアは思わず声を漏らした。
「レオニス王子……!?」
信じられないという表情だった。
ソルメルリア王国の王子。
レオニス=セレディア。
その名を知らない者はいない。
しかも、彼はリュドと親しげに話していた。
友人と呼び、剣術の指南まで手配しようとしていた。
ソフィアは驚きのあまり、しばらく言葉を失っていた。
その隣で、ガイルは黙っていた。
「……」
彼の顔は、どこか悔しそうだった。
いや、悔しいというより、苦しそうだった。
ソフィアはそれに気づき、そっと声をかける。
「ガイル?」
ガイルは答えなかった。
ただ、レオニス王子が去っていく背中を見つめていた。
やがて、レオニスと近衛騎士の姿が見えなくなる。
ガイルとソフィアは、リュドとネリィのもとへ向かった。
それに気づいたリュドは、ぱっと顔を上げる。
「ガイル! ソフィア!」
ネリィも小さく手を振った。
「二人とも、遅いじゃないか。待ったよ」
リュドはいつものように笑って言った。
その明るさが、ガイルには少し眩しく見えた。
ソフィアが少し困ったように笑う。
「ちょっとね。昨日、色々あったから」
「色々?」
リュドが首を傾げる。
その瞬間、ガイルの顔がわずかに歪んだ。
昨日。
ヴェルナ。
砕かれた戦斧。
ソフィアへ向けられた刃。
自分の無力さ。
それらが一瞬で胸の奥から蘇る。
ソフィアはガイルの表情を見て、すぐに言葉を飲み込んだ。
「ううん。なんでもないの」
「そっか」
リュドは深く追及しなかった。
「それじゃ、特訓しようよ」
そう言って、リュドはガイルを見る。
「ガイル先生。今日は何するんだ?」
いつもの調子だった。
昨日までと同じように、ガイルに教えてもらうつもりでいる声だった。
だが、その言葉に、ガイルの胸が重く沈んだ。
先生。
自分が。
昨日、何もできなかった自分が。
ガイルは少しだけ俯いた。
「……良かったじゃねぇか」
「え?」
リュドは聞き返す。
ガイルは顔を上げないまま言った。
「教えてくれる人が、見つかったんだろ?」
「何言ってるの?」
リュドは意味がわからず、眉を寄せる。
ガイルはリュドを見る。
その目には、いつもの豪快さも、からかうような明るさもなかった。
「俺よりもいい先生、見つかったじゃねぇか」
ソフィアがまずいと思い、一歩前へ出る。
「ちょっと、ガイル?」
リュドもようやく気づく。
「さっきの、見てたの?」
「ああ」
ガイルは短く答えた。
「だったら、なんで来ないんだよ」
リュドの声には、少しだけ責めるような響きがあった。
本気で怒っているわけではない。
ただ、いつものガイルなら、面白がって飛び込んでくると思ったのだ。
けれど、ガイルは黙っていた。
「……」
沈黙の中、風が木々を揺らす。
ガイルは、ぎゅっと拳を握った。
「……俺なんかが」
小さな声だった。
リュドには、最初よく聞こえなかった。
「え?」
ガイルは少しだけ声を大きくする。
「俺なんかが、お前の足枷になってちゃ駄目なんだ」
「足枷?」
リュドの表情が変わる。
「何言ってるんだよ」
ガイルは無理に笑おうとした。
けれど、笑顔にはならなかった。
「リュド。お前は、俺から学ぶことなんてない」
その言葉に、リュドの胸がざわついた。
「はあ!? 何言ってるんだよ、勝手に」
リュドは一歩踏み出す。
「俺はガイルに教えてほしいから、ここに来てるんだよ」
ガイルは目を逸らした。
その言葉が、今は痛かった。
リュドは自分を信じてくれている。
頼ってくれている。
だからこそ、苦しかった。
昨日、自分はソフィアすら守れなかった。
ヴェルナに手も足も出なかった。
自分の怒りで作った戦斧は砕かれた。
そんな自分が、リュドに何を教えられるというのか。
「悪い」
ガイルはそれだけ言った。
そして、背を向けた。
「おい、ガイル!」
リュドが呼ぶ。
だが、ガイルは振り返らなかった。
そのまま、雑木林の奥へ走り出す。
「ガイル!」
リュドは追いかけようとした。
しかし、ソフィアが慌てて声をかける。
「リュド、ごめんね!」
ソフィアは一瞬だけリュドを見た。
その顔には、申し訳なさと、焦りが浮かんでいた。
「昨日のこと、また話すから!」
「昨日のことって――」
「今は、ガイルを追う!」
ソフィアはそう言い残し、ガイルの後を追って走り出した。
リュドはその場に立ち尽くす。
ネリィが不安そうにリュドを見る。
「リュド……」
リュドは、ガイルが消えていった方を見つめたまま呟いた。
「何なんだよ……」
胸の奥に、言葉にできない引っかかりが残る。
ガイルは怒っていたのか。
それとも、傷ついていたのか。
リュドには、まだわからなかった。
ただ一つだけわかった。
昨日、自分の知らないところで、ガイルに何かがあったのだ。
ーーー
ーー
ー
ガイルは走った。
木々の間を抜け、雑木林を飛び出し、エラグレア・アカデミーへ続く道をひたすら走る。
誰の声も聞きたくなかった。
リュドの声も。
ソフィアの声も。
自分を呼ぶ声も。
胸の奥で、昨日の言葉が何度も響いていた。
――弱いわね。
ガイルは歯を食いしばる。
違う。
違うと言いたかった。
けれど、言い返せなかった。
十年前も、昨日も、自分は何もできなかった。
やがて、エラグレア・アカデミー手前の橋まで来たところで、ガイルは足を止めた。
橋の下を、細い水路が流れている。
夕方の光を受けて、水面が鈍く揺れていた。
「……くそ」
ガイルは橋の欄干に手をつき、俯いた。
息が荒い。
胸が苦しい。
走ってきたからではない。
逃げてきたからだ。
「はあ、はあ……」
少し遅れて、ソフィアが追いついてきた。
彼女は膝に手をつき、肩で息をしている。
「ガイル……あんた、どんな化け物じみた体力してるのよ……」
ガイルは振り返る。
「……ソフィア」
「まったく……追いつくこっちの身にもなりなさいよ」
ソフィアは息を整えながら、ガイルを見る。
ガイルは目を逸らした。
「何しに来たんだよ」
「決まってるでしょ」
ソフィアはまっすぐ言った。
「あんたを追いかけてきたの」
「放っとけよ」
「放っとけないわよ」
「お前には関係ねぇ」
その言葉に、ソフィアは一瞬だけ黙った。
そして、はっきりと言う。
「ええ。関係ないわよ」
ガイルが少しだけ目を向ける。
ソフィアは続けた。
「あなたの弟さんのことも、十年前に何があったのかも、私は全部知ってるわけじゃない」
「……」
「昨日、あの女に何を言われたのかも、あなたがどれだけ傷ついたのかも、正確にはわからない」
ガイルの拳が、少しだけ震える。
ソフィアはそれでも目を逸らさなかった。
「でも、昨日のことだけじゃないんでしょ」
ガイルの表情が強張った。
「弟さんのことも、関係あるんでしょ」
「……お前には関係ねぇよ」
ガイルの声は低かった。
拒絶するような声。
けれど、ソフィアは引かなかった。
「ええ! 関係ないわよ!」
その声に、ガイルは思わず顔を上げた。
ソフィアは真剣だった。
「だけど私たち、リュドも含めて友達でしょ?」
ガイルは言葉を失った。
友達。
その言葉が、胸に刺さる。
ガイルは目を逸らした。
「……」
ソフィアは一歩近づく。
「いつまで逃げるの?」
「逃げてねぇ」
「逃げてるわよ」
即答だった。
ガイルは言い返せなかった。
ソフィアは続ける。
「リュドに話してないこともあるんでしょ?」
「……」
「あなた、このままでいいの?」
橋の上に、沈黙が落ちる。
水の流れる音だけが聞こえた。
ガイルは欄干を握りしめる。
力を込めすぎて、指が白くなる。
「そんなこと……」
声が震えた。
「そんなこと、わかってる!」
叫ぶような声だった。
けれど、すぐに弱くなる。
「わかってるんだ……」
ガイルは俯いた。
「でも、どうすりゃいいんだよ」
その声は、いつものガイルのものではなかった。
豪快で、明るくて、誰かを引っ張る声ではない。
迷っている少年の声だった。
「俺は、強くなったつもりだった」
ソフィアは黙って聞いていた。
「ドランもいる。昔より戦える。メルドだって、あの頃よりずっとできる」
ガイルは歯を食いしばる。
「なのに、あいつの前じゃ何もできなかった」
十年前と同じ。
その言葉は、言わなくても伝わった。
ソフィアは静かに問いかける。
「ねぇ、ガイル」
ガイルは顔を上げない。
「強くなりたいんでしょ?」
「……あぁ」
小さな返事だった。
けれど、迷いはなかった。
「強くなりたい」
ガイルはようやく顔を上げた。
その目は赤く、悔しさを押し殺していた。
「もう二度と、あんな思いしたくねぇ」
ソフィアは頷いた。
「だったら、今から私について来て」
「……は?」
ガイルは眉をひそめる。
「どこにだよ」
「いいから」
ソフィアは背を向けて歩き出す。
「今のあなたに必要な場所」
「なんだよそれ」
「文句言う元気があるなら歩けるでしょ」
ガイルはしばらくその背中を見ていた。
正直、意味はわからなかった。
けれど、ソフィアの声には迷いがなかった。
そして今のガイルには、自分一人で答えを出せる気がしなかった。
「……わかったよ」
ガイルは小さく息を吐き、ソフィアの後を追う。
橋の下では、水が静かに流れていた。
逃げてきた場所から、少しだけ前へ進むように。
ガイルは、ソフィアの背中を追って歩き出した。。
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しばらく歩いた二人は、一軒の家の前に着いた。
エラグレア・アカデミーから少し離れた場所にある、落ち着いた造りの屋敷だった。
派手さはない。
けれど、門や壁の手入れは行き届いていて、どこか規律を感じさせる家だった。
ガイルは門の前で足を止める。
「ここは?」
ソフィアは少しだけ嫌そうな顔をした。
「ここよ」
「誰の家だ?」
「本当は来たくなかったんだけど……ここは――」
その時だった。
家の中から、ばたばたと慌ただしい足音が聞こえた。
次の瞬間、勢いよく扉が開く。
「この匂いは!」
栗毛の短髪をした男が、満面の笑みで飛び出してきた。
「可愛い愛しのソフィアじゃないか!」
「うわ」
ソフィアの顔が一瞬で冷める。
男は両腕を広げ、ソフィアへ突進するように近づいた。
「ソフィアー!」
抱きしめようとした瞬間。
ソフィアの拳が、男の腹へ綺麗に突き刺さった。
「ぐはっ!」
男はその場で膝をつく。
ガイルは目を丸くした。
「……え?」
男は腹を押さえながら、涙目でソフィアを見上げる。
「ソ、ソフィアちゃん……ひ、ひどい……」
ソフィアは冷たい目で見下ろした。
「だから来たくなかったのよね」
ガイルは困惑したまま、小声で尋ねる。
「だ、誰?」
ソフィアはため息をついた。
「兄のアーヴィンよ」
「兄?」
「アーヴィン=ウォード。私の兄」
アーヴィンはそこでようやくガイルの存在に気づいた。
そして、目を見開く。
「ソフィアが……男を連れている……?」
次の瞬間、彼はふらつきながらも立ち上がった。
「誰だ貴様は!」
「ガ、ガイルです」
ガイルは思わず背筋を伸ばした。
アーヴィンの目が鋭くなる。
「ソフィアに何をした」
「何もしてないっす!」
「ソフィアとどこまで進んだ」
「何も進んでないっす!」
「手は繋いだか」
「繋いでないっす!」
「よし、まだ生かしておこう」
「何なんすかこの人!?」
ソフィアはこめかみを押さえた。
「お兄ちゃん」
その一言で、アーヴィンの表情がぱっと変わる。
「なんだい、ソフィア。兄さんにお願いかい?」
「お願いがあるの」
「ソフィアのお願いなら、兄さんがすべて叶えてあげよう!」
アーヴィンは胸を張る。
ソフィアはガイルを横目で見た。
「彼を強くしてあげて」
「……」
「……え?」
ガイルとアーヴィンの声が重なった。
アーヴィンはぽかんとした顔でガイルを見る。
ガイルも同じようにぽかんとしている。
「どういうことだよ、ソフィア」
ソフィアは腕を組んだ。
「私の家系、ウォード家は先祖代々騎士の家系なの」
「騎士の家系……」
「私はあまり剣術のセンスがないけど、この兄は見た目と言動はかなり腹立つのに、剣のセンスだけは本物なの」
「紹介の仕方ひどくないかい、ソフィアちゃん?」
ソフィアは無視した。
「しかも、グランシエル騎士団の部隊長の一人でもあるわ」
ガイルはアーヴィンを見る。
さっきまでソフィアに殴られてうずくまっていた男。
妹の匂いがどうとか言っていた男。
その男が、グランシエル騎士団の部隊長。
「部隊長……?」
ガイルは一拍遅れて叫んだ。
「ええ!?」
アーヴィンは少しだけ得意げに髪を払う。
「何もそこまで驚かなくてもいいだろう」
「いや、だって結構若いっすよね?」
「まあな」
アーヴィンは軽く笑った。
その瞬間だけ、雰囲気が少し変わった。
軽薄な兄ではなく、場数を踏んだ騎士の顔。
ガイルはそれを見逃さなかった。
ソフィアはすぐに話を戻す。
「で? お兄ちゃん。特訓、つけてくれるの?」
「うーん」
アーヴィンはガイルをじろりと見る。
「なぜ、私がこの男に稽古をつけなければならないんだい?」
「どうせ仕事はファルケン副隊長に任せて、暇してるんでしょ?」
「失礼な。私は今、ソフィアを見つめることで手一杯だよ」
そう言いながら、アーヴィンはガイルに向かって、しっしっと手を振った。
「ほら、君は帰りたまえ。ここはソフィアと兄さんの感動の再会の場だ」
「感動してるの、お兄ちゃんだけだから」
ソフィアはすっと顔を背けた。
そして、わざとらしく寂しそうな声を出す。
「お兄ちゃんなら、ソフィアの頼みを聞いてくれると思ったのに」
アーヴィンの顔色が変わった。
「ソフィア……?」
「私、少しだけ期待してたのにな」
「ソフィアー!」
アーヴィンは半べそになりながら慌てる。
「そんなこと言わないでくれ! わかった! わかったから! 兄さんのこと嫌いにならないで!」
ソフィアは顔を背けたまま、口元だけでにやりと笑った。
「本当?」
「本当だとも! 兄さんに任せなさい!」
「じゃあ、ガイルを鍛えて」
「任せなさい!」
アーヴィンは勢いよく頷いたあと、ようやく自分が何を引き受けたのか気づいたようにガイルを見る。
「……君を?」
ガイルは少し引きつった顔で頷いた。
「あ、はい」
ソフィアは満足げに頷く。
「よし」
ガイルは、今のソフィアの顔を見て少しだけ引いていた。
「……ソフィア、お前、けっこう悪い顔するんだな」
「何のことかしら?」
ソフィアは涼しい顔で答える。
アーヴィンはまだ少し不満そうにガイルを見ていたが、すぐに表情を切り替えた。
「まあ、ソフィアの頼みなら仕方ない」
彼は一歩、ガイルに近づく。
その瞬間、空気が変わった。
さっきまでの妹大好きな変な男ではない。
目の前に立つのは、グランシエル騎士団の部隊長。
アーヴィン=ウォード。
彼はガイルを上から下まで観察する。
「名前は?」
「ガイル=バーンロートです」
「ヴァスレインのバーンロート家か」
アーヴィンの目が少しだけ細くなる。
「なるほど。なら、鍛えがいはありそうだ」
ガイルは思わず息を呑んだ。
アーヴィンは、にこりと笑う。
「ただし、私の稽古は甘くないよ」
ソフィアが横からぼそりと言う。
「普段は甘ったるいのにね」
「ソフィアちゃん、それは兄さん傷つくなぁ」
だが、その目は笑っていなかった。
アーヴィンは静かに言った。
「強くなりたいんだろう、ガイル=バーンロート」
ガイルは拳を握る。
「……はい」
「なら、泣き言は聞かない」
さっきまでふざけていた男の声とは思えないほど、低く、真剣だった。
ガイルはその声に、背筋を伸ばした。
「お願いします」
アーヴィンは満足そうに頷く。
「よし。まずは庭に出ようか」
そして次の瞬間、いつもの調子に戻った。
「ソフィアはそこで兄さんの格好いい姿を見ていておくれ!」
「嫌よ」
「即答!?」
ガイルは、そのやり取りを見ながら、少しだけ肩の力が抜けるのを感じた。
昨日からずっと胸に張りついていた重いものが、ほんの少しだけ薄くなった気がした。




