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ルパーティア(改正前)  作者: OHISUN
エラグレア・アカデミー編

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第十二章 硝子の涙


リュドとネリィは、重い空気のままクラリスの窓へ帰ってきた。


ガイルとソフィアが去ってから、リュドはほとんど言葉を発しなかった。


ネリィも、何を言えばいいのかわからず、ただ彼の隣を歩いていた。


家に戻ると、リュドはすぐに二階の自室へ向かった。


「リュド……」


ネリィが小さく声をかける。


けれどリュドは、振り返ることなく言った。


「少し、一人で考えたい」


その声は、怒っているわけではなかった。


ただ、深く沈んでいた。


ネリィはそれ以上、何も言えなかった。


リュドは部屋に入り、そのままベッドへ倒れ込んだ。


仰向けになり、天井を見つめる。


ガイルの顔が、頭から離れなかった。


あんな顔をするガイルを、リュドは見たことがなかった。


いつも明るくて、豪快で、少しうるさくて。


何でも笑い飛ばして、前へ進んでいくような男。


そのガイルが、苦しそうな顔で言った。


――俺なんかが、お前の足枷になってちゃ駄目なんだ。


リュドは拳を握った。


「何なんだよ……」


そう呟いても、答えは出ない。


そして、ふとゼクトの言葉が胸に刺さる。


――ガイルの何も知らないだろ。


――お前はガイルに何ができる?


あの時は、腹が立った。


何も知らないくせに決めつけるなと思った。


けれど今は、違った。


リュドは天井を見つめたまま、静かに呟く。


「ずっと一緒にいるのに……何も知らないんだな、俺は」


ガイルが何に苦しんでいるのか。


なぜ、自分から離れようとしたのか。


昨日、何があったのか。


何も知らない。


友達だと思っていた。


大切な友達だと思っていた。


けれど、自分はガイルの傷に触れることすらできていなかった。


リュドは目を閉じた。


胸の奥が、重かった。




その様子を、ネリィは扉の隙間から見ていた。


声をかけたい。


そばに行きたい。


けれど、足が動かなかった。


昼間、リュドに言われた言葉が、ずっと胸の中に残っている。


――君は、俺のグラセルじゃない。


それは事実だった。


ネリィはリュドのグラセルではない。


誰に作られたのかもわからない。


誰の相棒なのかもわからない。


記憶もない。


それなのに、なぜ自分はリュドの力になりたいと思うのだろう。


なぜ、リュドが苦しんでいると胸が痛むのだろう。


なぜ、彼の隣にいたいと思うのだろう。


「……」


ネリィは胸元に手を当てた。


そこにある心が、自分でもわからなかった。


その時、背後から優しい声がした。


「どうしたの? ネリィ」


ネリィが振り返ると、そこにはポポがいた。


青い鳥のような小さなグラセル。


けれど、その瞳はとても優しかった。


ネリィは少しだけ迷ってから、ぽつりと言った。


「わからないの……」


「何が?」


「何故、私がリュドを想うのか」


その声は震えていた。


「私は、リュドのグラセルじゃないのに」


ポポはしばらくネリィを見つめた。


そして、静かに言う。


「ネリィ。一緒に来てくれる?」


「……」


ネリィは小さく頷いた。


ポポの部屋は、クラリスの窓の奥にあった。


小さなポポには十分すぎるほどの部屋だった。


棚には小さな布や道具が整えられ、窓辺にはリュドが幼い頃に作ったらしい小さなガラス細工が並んでいる。


どれも少し不格好で、けれど大切に飾られていた。


ポポは机の近くに置かれた椅子を示す。


「ここに座ってちょうだい」


ネリィは静かに腰掛けた。


ポポは向かい側にちょこんと座る。


しばらく沈黙があった。


やがて、ポポが口を開いた。


「リュドがグラス・レーヴでガラスに心を宿せなかったことは、もう知っているわね?」


ネリィは頷く。


「うん」


「じゃあ、あの子がグラス・レーヴのために作ったガラス人形を見たことはあるかしら?」


ネリィの脳裏に、小柄で愛らしいガラス人形が浮かぶ。


「コレット……?」


「そう」


ポポは少しだけ微笑んだ。


「コレットっていうの」


ネリィは静かに頷く。


ポポは続けた。


「リュドがあれを作ったの、いつだと思う?」


「……わからないわ」


「三歳の時なのよ」


ネリィは目を見開いた。


「あれを……三歳で?」


コレットは、とても繊細なガラス人形だった。


小さく、愛らしく、細部まで丁寧に作られていた。


ただの子どもの遊びで作れるものではない。


「リュドはね、親がいないの」


ポポの声が少し柔らかくなる。


「あの子がコレットを作ったのは、寂しかったからじゃないかって、私は思ったの」


ネリィは黙って聞いていた。


「小さな子どもが、自分のそばにいてくれるものを作ろうとしたのかもしれない」


ポポは、窓辺のガラス細工へ視線を向ける。


「それを見た時、私は思ったわ」


ゆっくりと、言葉を選ぶように。


「この子の心の母親でいようって」


ネリィはポポを見つめた。


「心の……母親」


「ええ」


ポポは小さく頷いた。


「私はオスヴァルトのグラセルよ」


それは、変えようのない事実だった。


「グラセルは、生み主の心から生まれる。だから本来なら、生み主以外との関係なんて、決

められたものではないのかもしれない」


ポポはネリィを見る。


「でもね、私は思うの」


その声は、とても穏やかだった。


「心は、誰かに縛られるものじゃない」


ネリィの胸が、わずかに震える。


「グラセルの心も同じよ。生み主だけじゃなく、他の誰かを想ってもいい。他の誰かに愛を与えてもいい」


ポポは少し照れくさそうに笑った。


「だから私は、リュドの母親のつもりで、あの子の成長を見守っていくって決めているの」


「でも……リュドは、ポポの生み主じゃない」


ネリィが言う。


ポポは頷く。


「そうよ」


「それでも?」


「それでも」


ポポは迷わず答えた。


「あの子を大切だと思う気持ちは、誰かに決められたものじゃないもの」


ネリィは言葉を失った。


胸の奥にあったものが、少しずつほどけていく気がした。


ポポは優しく言った。


「だから、ネリィ」


「……」


「あなたも、自分の心を縛らないで」


ネリィの瞳が揺れる。


「リュドのグラセルじゃないから想ってはいけない、なんてことはないわ」


ポポはそっと続けた。


「言いたいことも、したいことも、自分の心のままにしていいの」


ネリィは俯いた。


ずっと胸につかえていた言葉が、少しずつ溶けていく。


私は、リュドのグラセルじゃない。


でも。


それでも、リュドを想っていい。


リュドの力になりたいと思っていい。


リュドのそばにいたいと思っていい。


「それだけ」


ポポは少し照れたように翼を揺らした。


「長くなったわね」


その言葉を聞いた瞬間だった。


ネリィの瞳から、透明な雫がこぼれた。


「……え?」


ネリィは自分の頬に触れる。


指先に、冷たく澄んだ雫がついた。


「なに……これ……」


ポポの目が大きく開かれた。


「ネリィ……あなた、泣いてるの?」


グラセルは、本来涙を流さない。


心はあっても、涙という形で感情がこぼれることはない。


少なくとも、ポポはそんなグラセルを見たことがなかった。


ネリィ自身もわからなかった。


「わからない……」


雫は止まらない。


次から次へと、硝子の瞳からこぼれていく。


「でも、なんか……胸が……」


言葉にならない。


ずっと自分でもわからなかった感情が、涙になって溢れてくる。


「う……」


ネリィの声が震えた。


そして次の瞬間、彼女はポポに抱きついた。


「うわぁぁん……!」


泣きじゃくるネリィを、ポポは驚いたまま受け止めた。


本来なら、ありえないことだった。


グラセルが涙を流す。


それが何を意味するのか、ポポにはわからない。


けれど、今はそんなことよりも大事なことがあった。


目の前で泣いている少女がいる。


ならば、抱きしめてあげるべきだ。


ポポは小さな翼で、ネリィの背をそっと撫でた。


「大丈夫よ、ネリィ」


優しく、静かに。


「泣いていいの」


ネリィはポポにしがみついたまま、声を上げて泣いた。


涙は、硝子の頬を伝っていく。


それは不思議なほど綺麗で、痛いほど人間らしかった。


ポポはそっと、その涙を拭ってあげた。


「あなたの心は、ちゃんとここにあるわ」


その言葉に、ネリィはさらに強く泣いた。


クラリスの窓の小さな部屋で。


一人のグラセルが、初めて涙を流した。


ーーー

ーー


???


暗い空間だった。


壁も天井も、闇に溶けて輪郭が見えない。


ただ、ところどころに赤黒い光が揺れていた。


赫灰の光。


それが、まるで生き物の脈のように、暗闇の中で静かに明滅している。


その闇の奥から、一人の男の声がした。


「まだ数人来てないけど、忙しいのかな?」


軽い声だった。


この場に漂う重苦しさとは、不釣り合いなほどに。


「まあ、いいや」


男は気にした様子もなく続ける。


「それにしても、グラセルの襲撃を物ともしないね。さすがソルメルリア。ルミナスの作った国だけのことはあるよ」


闇の中で、誰かがわずかに動く気配があった。


男は楽しそうに尋ねる。


「被検体を何体使ったんだい?」


少し離れた影から、別の男の声が返る。


「六体です」


事務的な声だった。


「どれも、グラス・レーヴ後に赫灰を埋め込んだ者です」


「そっかぁ」


最初の男は、少しだけ残念そうに息を吐く。


「どれも簡単にやられたか」


「支配が弱かったためかと」


影の男は淡々と答える。


「弱い心は乱れやすい。心が乱れれば、灰装グラセルは安定しません」


「難しいね」


男は楽しそうに言う。


本当に困っているようには聞こえない。


「やっぱり、赫灰の純度を高めないといけないね」


赤黒い光が、闇の中で一度だけ強く脈打つ。


男は話題を変えるように言った。


「それで?」


その声が、少しだけ鋭くなる。


「ノアとヴェルナは、ルパーティアの場所を掴めた?」


闇の一角から、艶のある女の声が響いた。


「わからなかったわ」


ヴェルナ=ロウガルド。


深紅の髪を持つ女は、姿こそ闇に隠れているものの、その声だけで十分な存在感を放っていた。


「ソルメルリアの子どもたちに少し聞いてみたけれど、まともな情報はなし」


「残念だね」


男は軽く言った。


別の影から、少年のような声が続く。


「僕もわからなかった」


ノア=ヴェルミリオだった。


「グランルミア城か、エラグレア・アカデミーに隠されている。そういう噂以外は聞かないな」


「エラグレア・アカデミーか」


男は、どこか愉快そうにその名を繰り返した。


「そういえば、アゼルがいるんだったね」


少しだけ沈黙が落ちる。


「なら、可能性は高いか」


ノアが静かに言う。


「ソルメルリアに入ってから、ノクティルの欠片が強く反応している」


その言葉に、周囲の空気がわずかに変わった。


ヴェルナも、影の男も、何も言わない。


ノアは続ける。


「間違いなく、この国にある。ルパーティアの大元が」


「うん」


最初の男は楽しげに頷いたようだった。


「僕もそう思うよ」


闇の中で、赤黒い光が揺れる。


「問題は、どのタイミングで本格的に動くかだけど……」


男は少し考えるように間を置いた。


そして、静かに言う。


「全部、君に任せるよ」


その言葉は、誰に向けられたものか。


暗闇の中にいる者たちは、すぐに理解していた。


一人の影が、わずかに頭を下げる。


「わかりました」


その声は、落ち着いていた。


だが、闇の奥に沈むその声には、感情がほとんどなかった。


男は満足そうに笑う。


「期待してるよ」


赫灰の赤黒い光が、またひとつ脈打った。


その光は、まるでソルメルリアの夜へ向けて、静かに牙を研いでいるかのようだった。


---

--


ネリィ、ネリィ。


誰かが、私を呼んでいる。


声は遠い。


はっきりとは聞こえない。


けれど、なぜか懐かしかった。


胸の奥が、ぎゅっと締めつけられる。


すごく大切な誰かに呼ばれているような気がした。


ネリィ。


ネリィ。


次の瞬間、視界にノイズが走った。


世界が歪む。


目の前が、赤く染まっていく。


血。


そう思った瞬間、胸の奥が冷たくなる。


その赤の向こうに、何かがいた。


漆黒の、とてつもなく大きなもの。


人なのか。


グラセルなのか。


それとも、もっと別の何かなのか。


わからない。


ただ、その存在を見た瞬間、身体の奥が震えた。


怖い。


悲しい。


それなのに、目を逸らせない。


その大きな黒い影から、何かが聞こえた。


声。


誰かの声。


けれど、聞き取れない。


届きそうで、届かない。


ノイズがまた走る。


赤い世界が崩れていく。


その中で、また声が聞こえた。


ネリィ。


ネリィ。





「ネリィ?」


優しい声がした。


「寝ちゃった?」


ネリィは、はっと目を開けた。


目の前には、ポポがいた。


小さな青い身体。


心配そうにこちらを見ている瞳。


ここはポポの部屋だった。


暗い影も、血の色も、もうどこにもない。


「ご、ごめんなさい!」


ネリィは慌てて身体を起こした。


ポポは少し驚いたあと、優しく笑う。


「いいのよ。よっぽど疲れていたのね」


「……うん」


ネリィは小さく頷いた。


けれど、胸の奥には夢の感覚が残っていた。


誰かが自分を呼んでいた。


懐かしい声。


大切な気持ち。


そして、漆黒の大きな影。


あれは何だったのだろう。


「……」


ネリィは黙り込む。


ポポが心配そうに首を傾げた。


「ネリィ? 大丈夫?」


「だ、大丈夫!」


ネリィは慌てて顔を上げた。


「ならいいんだけど……」


ポポはまだ少し気にしている様子だった。


ネリィはしばらく迷ったあと、静かに口を開く。


「ねえ、ポポ」


「どうしたの?」


「お願いがあるの」


「お願い?」


ネリィは胸に手を当てた。


さっきまで泣いていた自分。


リュドの力になりたいと思った自分。


そして、夢の中で何かを見た自分。


全部が、ひとつの気持ちに繋がっていた。


「グラセルの戦い方を教えてほしいの」


ポポは目を丸くする。


ネリィはまっすぐに続けた。


「私は、リュドを守れるようになりたい」


その声は小さかった。


けれど、確かな決意があった。


ポポはしばらくネリィを見つめた。


そして、ゆっくりと頷く。


「私はあまり戦闘は得意ではないわ」


「……」


「でも、グラセルとしての特徴や、どう動けばいいかくらいなら教えてあげられる」


ネリィの瞳が少し明るくなる。


ポポは続けた。


「それに、あなたが何に特出しているのかも、一緒に探してあげられると思う」


「ありがとう、ポポ」


ネリィは深く頭を下げた。


ポポは照れたように翼を揺らす。


「いいのよ。あなたがそうしたいと思ったなら、私は応援するわ」


そして、窓の外を見る。


月はもう高く昇っていた。


「でも、今日はもう遅いわ。リュドの部屋に行って、ちゃんと休みなさい」


「うん」


ネリィは静かに頷いた。


「おやすみ、ポポ」


「おやすみ、ネリィ」


ネリィはポポの部屋を出た。


廊下は静かだった。


クラリスの窓は、昼間の温かさとは違う顔をしていた。


月明かりが窓から差し込み、壁に並ぶガラス細工を淡く照らしている。


その光は静かで、少し寂しくて、けれど綺麗だった。


ネリィはゆっくりとリュドの部屋へ向かう。


扉をそっと開けると、リュドはベッドで眠っていた。


疲れていたのだろう。


彼は深く眠っている。


月明かりが、リュドの横顔を照らしていた。


ネリィは音を立てないように近づく。


リュドの顔を見つめる。


今日、彼は苦しそうだった。


ガイルのこと。


自分のこと。


グラセル・レガリアのこと。


きっと、たくさんのものを一人で抱えている。


ネリィは、そっと手を伸ばした。


硝子の指先で、リュドの頬に軽く触れる。


温かかった。


「リュド……」


小さく名前を呼ぶ。


返事はない。


けれど、それでよかった。


ネリィは胸の奥に手を当てる。


自分はリュドのグラセルではない。


でも、リュドを想っていい。


リュドの力になりたいと思っていい。


リュドを守りたいと願っていい。


ポポがそう教えてくれた。


ネリィは静かに微笑む。


そして、誰にも聞こえないほど小さな声で言った。


「私も、あなたを守るわ」


月明かりの中で、ネリィの胸元がほんのわずかに淡く光った。


それは、まだ彼女自身も知らない心の輝きだった。


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