第四章 優しい朝と赤黒き影
翌朝。
クラリスの窓の一階では、ポポがいつものように
朝食の支度をしていた。
焼きたてのパンの香り。
野菜スープの湯気。
食器が小さく触れ合う音。
いつもと変わらない朝のはずだった。
階段から足音が聞こえるまでは。
「ポポ、おはよう」
リュドの声がした。
「おはよう、リュ――」
そう返そうとして、ポポの動きがぴたりと止まった。
二階から降りてきたリュドの隣に、見知らぬ少女がいた。
透明感のある硝子の身体。
月明かりを閉じ込めたような淡い輝き。
ところどころに補修された跡はあるものの、その姿は
人形とは思えないほど自然だった。
ポポは、じっとその少女を凝視する。
「……」
「ポポ?」
リュドが声をかけても、返事はない。
ポポの小さなガラスの翼が、ぴたりと止まっている。
大事な一人息子のように育ててきたリュドが、朝になったら見知らぬ女の子を連れて降りてきた。
しかも、何の説明もなく。
ポポの中で、理解が追いつかなかった。
いや、待ちなさい。
落ち着くのよ、ポポ。
相手は人間ではない。
硝子。そう、硝子の子。
なら、たぶん大丈夫。たぶん。
そんな考えが、ものすごい速さで頭の中を駆け巡る。
「ポポ?」
もう一度呼ばれて、ポポはようやく我に返った。
「あ、お、お、おはよう! リュド!」
声が明らかに裏返っていた。
リュドは首を傾げる。
「どうしたの?」
「い、いや、別に? 何も? 全然?」
どう見ても動揺していた。
リュドは少し困ったように笑い、隣にいる少女を見る。
「紹介したい子がいるんだけど」
紹介したい子。
その言葉に、ポポの翼がぴくりと跳ねた。
「しょ、紹介したい子……?」
ポポの視線が、リュドと硝子の少女の間を行ったり来たりする。
「リュド……あなた、昨日までそんな話、ひと言も……」
「え?」
「い、いや、いいのよ。リュドもそういう年頃だものね。ポポは驚いてないわ。ええ、全然驚いてない」
「何の話?」
リュドは本気でわかっていない顔をしていた。
硝子の少女も、不思議そうにポポを見つめている。
ポポはこほん、と小さく咳払いをした。
「それで、その子は?」
リュドは少し緊張したように、少女へ視線を向けた。
「彼女は、ネリィ」
少女はゆっくりと頭を下げる。
「……ネリィです」
その声は、静かでやわらかかった。
ポポはじっとネリィを見る。
ガラスの身体。
淡い輝き。
そして、胸の奥に宿る小さな光。
ポポは、すぐに気づいた。
この子は、ただのガラス人形ではない。
心を宿している。
「……グラセル、なのね」
ポポの声から、少しだけ動揺が消えた。
リュドは頷く。
「うん。昨日、目を覚ましたんだ」
「昨日?」
ポポの目が丸くなる。
「ちょっと待って、リュド。昨日ってどういうこと? どこで? どうして? それにオスヴァルトは知っているの?」
質問が一気に飛び出す。
リュドは苦笑した。
「えっと……順番に話すよ」
ポポはリュドを見て、次にネリィを見た。
そして、深く息を吐くように翼を下げる。
「わかったわ。まずは朝ご飯にしましょう」
「え?」
「話は食べながら聞くわ。こういう時こそ、ちゃんと食べないと駄目」
ポポはいつもの調子を取り戻そうとするように、食器を並べ始めた。
けれど、ちらちらとネリィを見てしまう。
ネリィはその視線に気づき、少し不安そうにリュドの後ろへ半歩下がった。
リュドは優しく言う。
「大丈夫。ポポは怖くないよ」
ポポは慌てて翼をぱたつかせた。
「こ、怖くないわよ! むしろ優しいわよ! 朝ご飯も作れるし、洗濯もできるし、リュドを叱ることもできるわ!」
「最後は自慢なの?」
リュドが笑うと、ネリィもほんの少しだけ表情を和らげた。
ポポはその小さな変化を見て、静かに目を細める。
まだ何もわからない。
けれど、この硝子の少女が不安そうにしていることだけはわかった。
ならば、まずは温かいものを出すべきだ。
ポポはスープの鍋をかき混ぜながら、やさしく言った。
「ネリィ、あなたも座りなさい」
ネリィは少し驚いたように顔を上げる。
「私も……?」
「もちろん。ここに来たなら、お客さんよ」
ポポは胸を張るように翼を揺らした。
「クラリスの窓では、お客さんを立たせたままにはしないの」
ネリィはリュドを見る。
リュドが頷くと、ネリィはおそるおそる食卓の椅子に座った。
その時、工房の奥から足音が聞こえた。
作業場の扉が開き、オスヴァルトが姿を見せる。
「……」
オスヴァルトは食卓の方へ目を向けた。
そして、リュドの隣に座るネリィを見た瞬間、わずかに目を見開いた。
ほんの一瞬だけだった。
すぐに表情を戻し、何事もなかったかのように食卓へ向かう。
「じいちゃん、おはよう」
リュドが少し緊張した声で言う。
「ああ。おはよう」
オスヴァルトはいつも通り席に着き、ポポが用意した朝食に手を伸ばした。
何も聞かない。
まるで、そこに硝子の少女が座っていることなど、昨日から知っていたかのように。
ポポは、その様子を見て固まった。
「え、ええ!? オスヴァルト、この状況で何も聞かないの?」
「何をだ?」
オスヴァルトはパンを手に取りながら、平然と答える。
「何をって、この子よ!」
ポポは翼をぱたぱたと揺らしながら、ネリィを指す。
「動き始めたのよ!」
「そうみたいだな」
「そうみたいだな、じゃないわよ!」
ポポは口をぽかんと開けたまま、言葉を失った。
リュドは少し困ったように笑い、ネリィへ視線を向ける。
「じいちゃん。彼女、ネリィって言うんだ」
その名を聞いた瞬間、オスヴァルトの手がほんの少し止まった。
だが、それも一瞬だった。
オスヴァルトはゆっくりとリュドを見たあと、ネリィへ視線を移す。
ネリィは背筋を伸ばし、少し緊張した様子でオスヴァルトを見つめ返していた。
目覚めたばかりの彼女にとって、目の前の老人が何者なのかもわからない。
オスヴァルトは、静かに言った。
「そうか。ネリィというのか」
ネリィは小さく頷く。
「……はい」
オスヴァルトは、少しだけ表情を和らげた。
「私はオスヴァルトだ。オスヴァルト=グラスフェルド」
ネリィは丁寧に頭を下げる。
「ネリィです。よろしくお願いします」
「こちらこそ」
オスヴァルトは穏やかに頷いた。
その落ち着きぶりに、ポポだけがまだ納得できない顔をしている。
「……本当に、それだけ?」
「それだけとは?」
「もっと驚くとか、どうして動いているんだとか、いろいろあるでしょう!」
オスヴァルトは少し考えるようにネリィを見た。
そして、静かに言う。
「驚いてはいる」
「全然そう見えないわよ!」
リュドは思わず笑いそうになった。
ネリィも、少しだけ肩の力を抜いたようだった。
けれど、オスヴァルトの瞳の奥には、笑いとは違うものがあった。
驚き。
戸惑い。
そして、長く守ってきたものがついに動き出したことへの、言葉にできない重さ。
それでも彼は、ネリィを不安にさせないように、ただ静かに朝食を続けた。
オスヴァルトは、静かに朝食を口へ運びながら、ふと
リュドへ視線を向けた。
「リュド」
「うん?」
「わかっているな?」
その一言だけで、リュドには何のことかすぐにわかった。
ネリィのこと。
そして、彼女がルパーティアでできているということ。
「うん。昨日、ネリィには話してるよ」
リュドは小さく頷いた。
ルパーティアという硝石晶がどれほど希少であるか。
それを知る者が増えれば、ネリィが狙われる危険があること。
そして、今のヴィトラリスがどんな世界なのか。
目覚めたばかりのネリィに、リュドは夜のうちにできる限り説明していた。
ネリィは黙ってそれを聞いていた。
すべてを理解できたわけではないだろう。
それでも、自分が人目に触れてはいけない存在なのだということだけは、静かに受け止めていた。
「そうか」
オスヴァルトは短く答えた。
その落ち着きが、リュドには少し気になった。
ネリィが動き出した。
ルパーティアでできたガラス人形が、グラセルとして目覚めた。
それは普通なら、もっと驚くべき出来事のはずだ。
なのに祖父は、驚いていないわけではないにしても、あまりにも受け入れるのが早すぎる。
リュドは、迷いながら口を開いた。
「……じいちゃんは、やっぱり何か知ってるの?」
オスヴァルトは食器を置いた。
ほんの少しだけ、沈黙が落ちる。
「いや」
やがて、オスヴァルトは静かに首を横に振った。
「何も知らない」
リュドは祖父の顔を見つめた。
嘘をついているようには見えなかった。
けれど、すべてを話しているようにも見えなかった。
「……そっか」
リュドはそれ以上、問い詰めなかった。
食卓に、再び静かな空気が戻る。
その間、ネリィはじっとポポを見つめていた。
青い鳥のような丸い体。
小さな翼。
料理を運ぶたびに、ぱたぱたと揺れる仕草。
その姿が、ネリィにはとても愛らしく見えたのだろう。
ふいに、ネリィが小さく呟いた。
「……可愛い」
ポポの動きが、ぴたりと止まった。
「なっ……!?」
ポポは目を丸くし、翼を大きく揺らす。
「何言ってんのよ!」
声は慌てていた。
けれど、その顔は明らかにまんざらでもなさそうだった。
リュドは思わず笑う。
「よかったね、ポポ」
「よ、よくないわよ! 私は可愛いんじゃなくて、頼れる大人なの!」
「でも、可愛いわ」
ネリィが真面目な顔で重ねる。
ポポはますます慌てたように翼をぱたぱたさせた。
「も、もう! この子、正直すぎるわね!」
そう言いながらも、ポポはネリィの前にスープの器をそっと置いた。
「……食べられるかはわからないけど、一応置いておくわ」
ネリィは器を見つめ、それからポポを見た。
「ありがとう、ポポ」
その言葉に、ポポは少しだけ照れたように横を向いた。
「べ、別に。お客さんだからよ」
リュドはその様子を見ながら、少しだけ胸が温かくなるのを感じた。
昨夜まで、ネリィは地下室に眠っていた。
何もわからないまま目を覚まし、不安そうにしていた。
けれど今、こうして食卓に座っている。
ほんの少しだけ、ネリィがこの家に馴染み始めたように見えた。
少しして、リュドは朝食を終えると席を立った。
「じゃあ、行ってくる」
その言葉に、ポポが首を傾げる。
「行ってくるって……今日から一週間、学校は休みじゃないの?」
「グラセル・レガリアの準備期間だから、授業はないって言ってなかった?」
「うん」
リュドはカバンを肩にかけながら答える。
「でも、俺もグラセル・レガリアに出ることにしたから。今日はガイルと特訓するんだ」
ポポの動きが止まった。
「……そうなの?」
「うん」
リュドは少し気まずそうに笑った。
すると、ネリィが不安そうにリュドを見上げる。
「私は……どうしたらいいの?」
目覚めたばかりの彼女にとって、この家も、この世界も、まだ知らないことばかりだった。
リュドはできるだけ優しく言う。
「俺の部屋で待ってて。外には出ちゃ駄目だよ」
ネリィは少しだけ寂しそうに目を伏せた。
「……わかった」
「すぐ戻るから」
リュドはそう言って、玄関へ向かう。
「行ってきます」
「行ってらっしゃい」
ポポが返事をする。
ネリィも少し遅れて、小さく手を振った。
「……行ってらっしゃい、リュド」
リュドは一度振り返って微笑み、それから外へ出ていった。
扉が、ぱたんと閉まる。
その音が消えたあと、食卓にはしばらく沈黙が残った。
最初に口を開いたのは、オスヴァルトだった。
「……リュド、グラセル・レガリアに出るのか」
「そうみたいね」
ポポはまだ扉の方を見つめていた。
その横で、ネリィが不思議そうに尋ねる。
「グラセル・レガリアって、何?」
「……」
ポポの翼が、ぴたりと止まった。
次の瞬間。
「ええぇえええ!?」
大きな声が、クラリスの窓に響いた。
ネリィはびくりと肩を揺らす。
オスヴァルトは、湯気の立つ茶を静かに飲んだ。
「今日は朝から騒がしいな、ポポ」
「何言ってんの、オスヴァルト!」
ポポは羽をばたばたさせながら、食卓の上を少し飛び上がる。
「リュドにはグラセルがいないのよ!? それなのに、グラセル同士の対抗試合に出るなんて!」
ネリィはその言葉に目を瞬かせた。
「グラセル同士の……対抗試合?」
ポポはネリィの方へ向き直る。
「そうよ。グラセル・レガリアは、アカデミーの卒業前に行われる大きな試合なの。生徒たちが自分のグラセルを戦わせて、技量や連携を見せるの」
「戦わせる……」
ネリィは自分の硝子の手を見つめた。
ポポは続ける。
「相手のグラセルを無力化して、胸につけたガラスのエンブレムを破壊すれば勝ち。もちろん安全には配慮されているけど、グラセル同士がぶつかるのよ。危険がないわけじゃない」
ネリィの表情が、不安に染まる。
「リュドは……グラセルがいないの?」
ポポは一瞬、言葉に詰まった。
「……ええ」
小さく頷く。
「リュドには、まだ自分のグラセルがいないの」
ネリィは少し俯いた。
「でも、リュドは優しいわ。昨日、私を直してくれた」
「優しいから心配なのよ」
ポポの声が少し柔らかくなる。
「あの子は、いつも自分が足りないと思ってる。グラセルがいない分、誰よりも頑張らなきゃって思ってる」
ポポは扉の方を見た。
「でも、頑張りすぎるのよ。昔からずっと」
オスヴァルトは静かに茶器を置いた。
「もう、子供ではない」
ポポが振り返る。
「オスヴァルト?」
「自分で決めたことだ」
オスヴァルトの声は穏やかだった。
けれど、どこか重みがあった。
「止めたところで、あの子は行くだろう」
「だからって、放っておくの?」
「放っておくわけではない」
オスヴァルトはゆっくりと目を閉じる。
「信じるということだ」
ポポは黙り込む。
オスヴァルトは続けた。
「リュドは、自分にグラセルがいないことを誰よりもわかっている。その上で、出ると決めた。ならば、わしらが最初から否定してどうする」
ポポは言い返せなかった。
心配だった。
怖かった。
けれど、オスヴァルトの言うこともわかってしまう。
リュドはもう、小さな子供ではない。
それでも、ポポにとっては、いつまでも守りたい子だった。
「……でも、心配なのよ」
「わかっている」
オスヴァルトは静かに頷いた。
「わしも同じだ」
その言葉に、ポポは少しだけ表情を緩めた。
ネリィは二人の会話を聞きながら、そっと胸に手を当てた。
グラセル・レガリア。
グラセルがいないリュド。
それでも戦おうとしているリュド。
ネリィはまだ、この世界のことを何も知らない。
けれど、ひとつだけわかった。
リュドは、何かを証明しようとしている。
そしてそのために、傷つくかもしれない場所へ向かっていったのだ。
「リュドは……大丈夫なの?」
ネリィが小さく尋ねる。
オスヴァルトはネリィを見た。
「大丈夫かどうかは、わからん」
ポポが不安そうに目を伏せる。
だが、オスヴァルトは静かに続けた。
「だが、あの子は逃げん」
その言葉は、確信に近かった。
窓から朝の光が差し込む。
食卓の上の硝子細工が、淡く輝いた。
ネリィはその光を見つめながら、小さく呟いた。
「……リュド」
その声には、まだ名前を覚えたばかりの響きと、確かな心配が混じっていた。
―――
――
ー
少し日が昇った頃、リュドはエラグレア・アカデミーの裏手にある雑木林へ着いた。
ここは、ガイルとの待ち合わせ場所だった。
校舎の喧騒から少し離れているため、人通りは少ない。
木々の隙間から朝の光が差し込み、地面には淡い影が揺れている。
訓練をするには、ちょうどいい場所だった。
リュドは周囲を見回し、小さく息を吐く。
「ちょっと早かったかな?」
そう思った矢先、木々の向こうから聞き慣れた声が響いた。
「おう! リュド!」
振り返ると、ガイルとドランがこちらへ歩いてきていた。
「お待たせ!」
「ううん。俺も今来たところだよ」
リュドがそう答えると、ガイルはにっと笑った。
「今日は、もう一人連れてきた」
「もう一人?」
リュドが首を傾げる。
ガイルの後ろから姿を見せたのは、ソフィアだった。
その傍らには、彼女のグラセルも静かに控えている。
「リュド、ごめんね」
ソフィアは少し遠慮がちに言った。
「私も、お邪魔していいかな?」
「ソフィア?」
リュドは少し驚いたが、すぐに頷いた。
「全然構わないけど……どうしたの?」
すると、ガイルが横からにやにやしながら口を挟む。
「ソフィアも戦士になりに来たんだとよ」
「そんなんじゃないわ」
ソフィアは少し呆れたようにガイルを見る。
「私もグラセル・レガリアに出るの。だから、少しでも実戦に近い動きを見ておきたかっただけ」
「それで、たまたまガイルに会ったの?」
リュドが尋ねると、ソフィアは頷いた。
「ええ。さっき校内でガイルに会って、何をするのか聞いたの。そうしたら、あなたと特訓するって言うから」
ソフィアは少しだけ視線を落とし、それからリュドを見る。
「迷惑じゃなければ、私も見学させてほしいの。できれば、少し一緒に練習もしたい」
リュドは少し考えたあと、柔らかく笑った。
「うん。もちろんいいよ」
「ありがとう」
ソフィアの表情が少し和らぐ。
ガイルは満足げに腕を組んだ。
「よし! これで役者は揃ったな!」
ドランが横から低く言う。
「お前が一番騒がしいだけだ」
「うるせえ、ドラン。今日はリュドに戦士の何たるかを叩き込む日だぞ」
「まずはお前が落ち着きを覚えろ」
いつものやり取りに、リュドは少し笑った。
ソフィアも小さく微笑む。
「それじゃあ、早速始めるか」
ガイルは腕を組み、にっと笑った。
「ガイル先生の特別授業だ」
リュドは少し笑って、軽く頭を下げる。
「よろしくお願いします、先生」
「おう、任せとけ!」
ガイルは得意げに胸を張った。
隣でドランがぼそりと言う。
「調子に乗るなよ」
「うるせえ。こういうのは雰囲気が大事なんだよ」
ガイルは咳払いをひとつして、改めてリュドとソフィアを見る。
「まず確認だ。グラセル・レガリアの勝敗のつけ方はわかるな?」
ソフィアが答える。
「相手の胸につけられた、ガラスのハート型エンブレムを破壊すること」
「そうだ」
ガイルは頷いた。
「相手のエンブレムを破壊すれば勝ち。逆に、自分のエンブレムを壊されれば負けだ」
リュドは真剣な表情で聞いている。
「破壊にはグラセルを使ってもいいし、自分自身が直接狙ってもいい。ただし、大抵はグラセルと連携して攻める」
ガイルはドランの背を軽く叩いた。
「こいつが相手の動きを止めて、俺が隙を見て踏み込む。あるいは、俺が前に出て相手の意識を引きつけて、ドランがエンブレムを狙う。そういう戦い方だな」
「つまり、グラセルとの協力がほぼ必須ってことか……」
リュドが呟く。
「そういうことだ」
ガイルの表情が少し真剣になる。
「だから、リュド。お前にグラセルがいないってことは、かなり不利な状態だ」
その言葉は厳しかった。
けれど、ガイルは馬鹿にしているわけではなかった。
事実を、ちゃんと伝えようとしている声だった。
「相手は二つの動きを使える。本人とグラセルだ。でも、お前は基本的に一人で戦うことになる」
ドランも低く続ける。
「相手は攻撃と防御を分担できる。お前はメルド、防御、回避、攻撃、そのすべてを自分で判断しなければならん」
リュドは左手のメルドグローブを見下ろした。
「……わかってる」
「いや、まだ足りねえ」
ガイルは首を横に振った。
「わかってるだけじゃ駄目だ。体で覚えろ」
リュドが顔を上げる。
ガイルは、にやりと笑った。
「今日はまず、グラセルがいる相手に、一人でどう立ち回るかを叩き込む」
「……うん」
リュドは小さく息を吸い、頷いた。
「お願い、ガイル」
「おう」
ガイルは拳を鳴らすように握った。
「じゃあ、まずは逃げる練習からだ」
「逃げる練習?」
リュドが聞き返す。
ガイルは当然のように答えた。
「当たり前だろ。勝つ前に、まず壊されないことだ」
ドランが静かに頷く。
「良い判断だ。守れぬ者に勝機はない」
ソフィアも真剣な表情で見守っていた。
朝の雑木林に、少しだけ緊張が走る。
リュドの特訓が、本格的に始まろうとしていた。
―――
――
―
???
薄暗い空間だった。
灯りは乏しく、どこまでが壁で、どこからが影なのかも判然としない。
空気は重く淀み、息を吸うたびに胸の奥へ冷たいものが沈んでいく。
床にも壁にも、赤黒く鈍い光を放つ赫灰が散りばめられていた。
その禍々しい輝きだけが、闇の中で不気味に脈打っている。
そこに、誰かがいた。
姿は見えない。
ただ、暗がりの奥から、女の声が響く。
「状況はどうなの?」
静かな声だった。
けれど、その一言だけで周囲の空気がさらに冷たくなる。
少し遅れて、男の声が返ってきた。
「んー、まあ、ぼちぼちってところかな」
どこか軽い調子の声だった。
この場の不気味さに、まるでそぐわない。
「被検体は十人集まったね」
女は間を置かずに言う。
「早く使いなさい」
男は小さく笑った。
「そんなに急かさないでくれよ」
闇の中で、足音がひとつ、ふたつ響く。
「君の美しい姿が台無しになる」
その言い方には、からかうような軽薄さがあった。
「君の気持ちはわかるけど、軽率に物事は進めちゃだめだよ?」
沈黙。
次の瞬間、女の声が低く落ちた。
「あんた、殺すわよ」
怒気を含んだその声に、空気が張り詰める。
けれど男はまるで怯えた様子もなく、軽く肩をすくめたように言う。
「はいはい、怖い怖い」
そして、少しだけ真面目な声色になる。
「だけど、準備がいる。少し待ってもらえるか?」
再び沈黙が落ちた。
赫灰の赤黒い光だけが、闇の中で鈍く揺れている。
やがて男が、くすりと笑った。
「……良いってことだね」
その返事があったわけでもないのに、勝手にそう受け取ったらしい。
「じゃあ、職務を全うしてくるよ」
足音が遠ざかっていく。
そして、男の気配が完全に消えたあと――
闇の中で、女がぽつりと呟いた。
「早く会いたいわ……イリュエル……」
その名だけが、静かに、深い闇の中へ沈んでいった。




